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 「飢餓の比島 ミンダナオ戦記」

全文掲載

これは著者の平岡 久さんがご自身の青春時代であった24、5才の頃の
軍隊の体験をご自身の記録を元に昭和57年まとめ、自費出版にて発行され、
その後2003年に増補改訂版として再版されたものです。

平岡 久さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は平岡 久さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

10.山中への敗亡行進 その2               

 二十年六月三日 深夜大隊長命令
 三日深夜、或は四日になって居たかも判りません。大隊長より「直ぐ来い」との命令で急行する。到着すると、威儀を正して「師団長命令を達する。我が大隊は命に依り明朝撤収する。依って患者収容隊は直ちに閉鎖、明朝迄に東へ急げ。収容患者中戦斗に堪え得る者は速やかに進発せしめ、戦斗に堪えざる者は適宜処置すべし」と命ぜらる。「処置すべし」の意味は判りますが、多少のヒューマニズムも持ち、旅順大連時代成規類集で国際赤十字条約も少しは知って居り、赤十字の腕章を持っている私は精一杯の抵抗をしました。「処置すぺしとは如何なる事でありますか」「此の大馬鹿者奴、帝国軍人として戦友に葬られる事こそ最高の喜びじゃ!やれ!」と大喝され、刀のツカをたたいて怒鳴りつけられると「判りました」と答えて仕舞いました。二十五才の伍長と歩兵大隊長の差です。此の患者達二十数名はリナボから収容した人達と東ケ崎大隊の重傷者です。収容所では、どんどん水牛を倒し、肉スープ、お粥、飯を食べさせましたがのどを越さない者も多く、手当ても甚だ不十分で毎日墓穴を掘った残りの人達です。何れにしても直接収容看護した人達に、愈々最後の時が訪れたのです。

 (所で私も六十の坂を越した今日、振り返って考えて見ると、東ケ崎少佐も戦陣訓と軍人勅諭に縛られ、命令に従わざるを得なかったものの、心苦しく、苦渋の思い濃く、其れを紛らわせる為、大声を出し怒ったのだろう。彼の人も辛かっただろうと思う様になりました。されば改めて戦陣訓を作った高級軍人、作文上助けた文学者と言われる人達に強い憎しみが湧きます。日本陸軍の作戦要務令には「指揮官退却に意を決するや、戦場に到着する空車輌其の他を利用して患者の後送に努むべし、止むを得ず残置する患者に対しては必要なる衛生材料、衛生部員を残すべし」となって居ります。法令で決まっているのです。近代国家に於いては、傷病兵の捕虜は勇士として「名誉ある囚人」と見なされ待遇されるのです。其れを戦陣訓なるもので踏みにじったのです)

 さて帰って収容所長に命令を伝え「此の仕事は貴方の仕事だよ」と念を押すと「僕は甚だ好まん
から君の方で頼む」「此な事を好む者が何所に居りましようや、第一貴方への命令であり、且医者以外には出来ない事、私は知りませんよ]と押し問答が始まりました。すると傍らで聞いて居たA兵長が[時間が無い、やらなきゃならんとすれば誰かがやらねばならん、辛い事じゃが僕に任してくれ]との事「頼む」で彼に任せる。だが此な場合の手順は教えられた事も無く、聞いた事も無い。軍医の所より病室へ行く途中、種々考えたが、「エエイ自己流にやれ」と決心。

 A兵長に「先づ丁重にな」と話した後手順は、先づ私が引導を渡すから其の後部隊名氏名確認薬包紙大に書き込み枕元に置け。そうして遺言は充分満足するまで聞いてやれ。其の後で注射、死亡確認後、髪と爪を取って薬包紙に包め等、段取りを話し病室へ着く。先ず私が「東ケ崎大隊は明早朝撤収する。我々の力で運ぶ事も出来ない。命令も出た。皆も愈々最後の時と覚悟を決めてもらいたい。言い遺す事あらば充分衛生兵に話せ。若し生あらば必ず遺族には伝えるからな。心静かに昇天してくれ」と引導を渡す。誰一人も声無し。後はA兵長他数名に任せて衛生隊中尉の所へ急ぐ。状況と命令を説明し、今朝マラリアで発熱入院した彼の部下で軍曹の処置を頼む。所が彼も又、「直属の部下を手にかける事は出来ん、済まんが頼む」駄目です。貴方の責任です」と言い捨て帰る。兵隊も起きて来て居り直ちに食料分配、衛材輸送、正に上を下への大さわぎ。先づかがり火を大きく燃えさせる。其の最中衛生隊の居候二人が逃げて仕舞った由。「糞ったれ奴」と悪口を言っても始まらない。(後日、レイテで此の軍医と奇跡の再会をする)

 「カガリ火を大きくせよ」と努力しても余り役に立ちません。ローソクの火や、防毒面を細く切った灯りを頼りに作業です。皆に残った米を有る程度平等に、と思っても帝国軍隊で鍛え上げた手くせの悪さを発揮して少しでも余計にゴマ化そうとする者続出、衛生材料も各人に割り当てねばなりません。鍋釜、毛布、灯油、ローソク、捨てるか携帯するか、明朝は背負った儘敵に追われる身ですから、やたらには持てません。何れにしても紛議続出。軍医さんの方は自分の小屋で、白分の好きな物を当番兵に運ばせて整理した後は他人事。「まあ医者ちゅう者は此な者」と知って居りますから何とも感じません。此の間にチョイチョイと病室へ走って患者の処置を見に行きました。「何か言い残す事は無いか」と矢張り礼儀を尽くして居りました。中には黙った儘何一言も言わない人も居り、又長々と遺族の身を案ずる人もありました。ゆれるローソク、防毒面の細片の灯りは薄暗く、血と汗の悪臭の中、筆舌には尽くせない状況でした。か細く、弱々しい声での長話しは堪えられないものがありましたが、話して居る限り聞かねばなりません。「もう言い残す事は無いな」と念を押した後、始めて「ではさらばじゃ、良い所へ行けよ」と注射器を手に出来るのです。更に又今日考えて見るに、傍で順番を待って居る人達の心中は如何ばかりだったでしょう。髪、爪を少し切って薬包紙に包む作業も手際良く進めて居りました。又遺体を埋める場所は爆弾の落下した穴を指定して順次遺体を担架で運んで居りました。其の間に東方が明るくなって参りました。患者処理以外は終ったので病室へ行く。間も無くザッザッと足音
話し声が聞えて参りました。「大隊長が来る」此の声に兵長が慌てて、不手際があり、傍らを大隊長先頭に三十名程の兵士が通り過ぎました。皆無言でチラツと横目に見ては顔をそむけて通ります。直ちに最後の遺体を片付け、木の葉や少量の土を掛け、枕許に木の枝を立て、蚊取線香、ローソクを立て、一握りの米と水筒の水を供え合掌して葬礼を終りました。(私は多くの戦友の最後に立ち合い、遺言と言える言葉を聞きました。順序は先づ子供、次いで妻、第三母で、父親は忘れられ勝ちでした。衛生兵同志で話が此所に及ぶと「父親とはあほらしい者よなあ」と申しては苦笑しました。又背嚢に入れてある写真でも妻子の写真が多数派でした)

 八時過ぎには米軍は勤務に就き、砲爆撃が始まる筈だし殊に峠直下迄出来た道を戦車が進撃して来る筈です。今私達は三〇師団の最後尾、文字通りの殿り部隊になったのです。

 急ぎ背嚢其の他を担ぎ出発。大分歩いて大隊長に追いつきました。私達は荷物を持って居ても約一ケ月充分の食事をした為、大隊兵士の歩みとは断然ちがいました。「御命令通り収容隊の閉鎖完了致しました。」「イヤー大変な御苦労だったなあ」と言葉少なに万感籠るねぎらいの言葉を頂きました。声低く昨夜とは打って更った態度だったので四十年経た今日も良く覚えて居ります。そうですススキ原の小道でした。

 (後日四十年近い月日、此の事は折りにふれては思い出し、重い心の荷物です。何故彼の時患者を病室裏のジャングルヘ運び、病室に持って居た赤十字の旗、腕章類を吊り下げ、米軍に知らせる可きだった。そうして大隊長へは処置完了と報告すべきだった。そうすればレイテ島タグロパンでの患者の待遇より考えれば何割かの患者の命は助かった筈です。若し万一興奮状態の敵軍に殺されたとしても死は同じであり、生き残る機会を与えてやる丈の配慮が出来なかったのか愚かな己れに腹が立つのです。それで悔むのです。然し亡き人達も、師団長命令、戦陣訓をはね返す力を、二十五才の私に求める事は無理、と了解してくれないだろうか。更に其の後東方の山野で野ざらしになった多数の戦友と比べ、花、香、米、水を供えられ埋葬されただけでも「まだ良かった」と思ってくれないだろうかと思ったり、大変未練たらしい事かもしれませんが生涯の荷物です。
 只ひたすらに御冥福をお祈りするのみです)

 私達は直ぐ大隊長を追い抜きました。東ケ崎大隊長以下は全員生還せず、此の人達に会った最後の人間になりました。

 此の日プランギ河右岸で、キョロキョロして居る本隊と少し離れて宿営しました。恐れた米軍戦車隊が近づきそうに無く、生死を共にした人達と水入らずの一夜を過ごしました。最後迄私が乗っていた白馬を倒し、地獄の中を共に働いた人達と、カガリ火の回りで談笑飽食する。

 二十年六月六日 プランギ渡河
 此の日本隊に合流、収容隊は解散し各所属部へ帰る。所が昼聞渡河点への米軍砲爆撃は激しく、且豪雨で終日ジヤングルで小さくなってズブ濡れで過ごす。

 五時過ぎ米軍砲爆撃終了と同時に河岸へ集合するが増水で渡れない。時間経過と共に多少減水したので真暗闇の中、一本渡された藤ヅルを伝わって渡河開始。所が中心部何米かは私で肩を越す深さあり、身長低い衛生兵は背嚢や食料・衛材を渡せません。他の部は捨て置き、発着部だけは半数が手ぶらで先行対岸の背の立つ所で待ち、一番深い所だけ私が往復して運搬をやりました。暗闇の中ゴーゴーと渦を巻いて流れる急流。底はツルツルと滑る、片手は頭上の荷物を支え、片手で藤ヅルを持ち一足一足確めつつ数十回の往復は大変でした。「俺以外此れをやり得る者は居らんのだ」と言う一種の英雄気分が支えてくれました。

 根がオッチョコチョイの人良しですから、直ぐ良い気になって辛い役目を買って出るのです。此の渡河では病院の他の部でも何名かのギセイが出ました。此の時師団の最後尾を歩いて居るのは船舶工兵、野戦貨物廠・病院等の非戦斗員です。殊に人数で大部分を占めて居るのはバラバラの患者集団でした。其の人達の苦痛は眼をそむけさせ、其の哀れさは鬼神と言えども涙するでしょう。戦争とはカッコ良く、且勇ましいものでは無いのです。強者は生き、弱者は死ぬ。此の法則が極度に発揮されるのです。此の頃の青年達に是非見せ度いものです。

 二十年六月七日 早朝 泥棒
 河岸から一寸離れた渡河点爆撃圏外で夜明けを迎えました。天幕の外へ出て、小便をして辺りをボンヤリ眺めて居ると、前のジャングルから、少し前入院していた他部隊の兵士が出て来ます。そうしてソワソワし乍ら河の方へ戻って行きました。続いて河岸が騒がしくなりました。何事やらんと見に行きますと、今の兵士が木の枝で殴られて居ります。何うやら彼はモミを盗みに行って捕まったらしい。時の間に殴り殺されました。朝から誠に後味の悪い光景に出会ったものです。さっさと帰り天幕へ入りかけて、フト彼のソワソワして出て来たジャングルを思い出しました。急いで行って見るとモミが二袋置いてありました。直ぐに抱えて発着へ運びます。皆びっくりし且喜びました。人の死を悲しむよりも、モミニ袋(米二斗)が嬉しいのです。人間を飢えさせてはなりません。飢えれば人間は完全な動物となり、知恵ある猛獣になります。政治の最低限度は国民に腹一杯食べさせる事にある、と申します。正に其の通りで腹一杯食べさせる事が総ての出発点です。

 此の日から私達は各部に割り当てられた衛材輸送を始めました。私等がマクラミン峠で悪戦苦闘していた十日余り、本隊は只無為に日を送って居たのです。病院はリナボで大部分の衛材は焼いたものの、山中へは兵一人一梱包以上は持ち込んで居たと思います。他に食糧、生活資材があります。そうすると、A地点へ十K前進する場合、A地点に資材を置き監視兵以外は背嚢を背負って前進、B地点に監視兵と背嚢を置き軍医も其所に居り、後は引き返して資材を運び更にもう一度運ぶと三十K歩きます。然も病院全体が一ヶ所に大体まとまって行動しました。そうなれば幾らも前進出来ません。然も大変急な昇り坂です。疲れは甚しく二、三日すれば病兵続出、運搬兵は減り、四回も五回も繰り返すので前進速度はガタ落ちです。

 或る日発着のK一等兵が背嚢監視中居眠りでもしたか背嚢を一つ盗まれました。背嚢の中には、マッチ、塩、米、薬、衣類、タバコ等生きて行く為の最低必需品が入って居るのです。大変な事です。先任下士は激怒し、米一升をやり追放処分にしました。彼は一寸はなれた所で飯盆一ぱいに白米飯を炊き私達の目の前で一度にペロリと平らげました。哀れよなあ、と思ったり、白い飯を見てはうらやましくもありました。我々は当時お粥腹で頑張って居たのです。恐らく彼は此所で果てた事でしょう。所で此の手記で不思議な事を見るでしょう。其れは軍医の影が薄く下士官が指揮して居る事です。軍医は医者として尊敬はされますが、動物的生存が要求される段階ではお坊っちゃまは何の役にも立ちません。其れで階級とは別に各人の力関係で、能力ある者の発言が重視され、建前上の指揮者とは別に事実上のリーダー支配が行われるのです。極限状態では右するか、左するか、留まるか、進むか総べてが何時も死と隣り合わせです。指揮者の判断が全員の生死に関する大事なのです。此の頃記憶に残るのは某上等兵です。彼は隊長並びに庶務主任衛生中尉の特別、別格のお気に入りでした。其れで二人から睨まれて居る私に対しては、同郷乍ら極めて他所ヨソしい態度でした。其の彼が強い体力(大きな体でヨタ者の代表的)を見込まれ、おだてられて、二人の重い将校行李を運ぶ重労働で体力消耗し、便所紙の様に捨てられ、道傍の湿地で携帯天幕を張りうずくまって居りました。空ろな眼で通行する兵隊を見て居りましたが、其の彼が私に声を掛けて来ました。何か欲しいのだろうと立ち止まりましたが、顔を見て直ぐうつむき「元気になあ」と弱々しく言いました。私も「頑張れよ」と別れました。其れで気を付けて見ると、本部の人達が皆顔をそむけ知らん顔をして通り過ぎて居りました。

 二十年六月中旬 Y軍曹自決
 良く晴れた暑い朝、一面ススキ原の見通しの良い北東に面した丘の上でした。「Y軍曹が自決するぞ」との声、所属部は違うがオモナイで起居を共にした人の最後と聞き、急いで人の集まって居る所へ行く。同僚に取り巻かれて、Y軍曹はあぐらをかいて坐り、「背嚢の中に油紙で包んだ写真があるので出してくれ」と言って居りました。顔見知りに状況を聞けば、昨夜眠って居る間にヒルに両眼の血を吸われ、一夜にして俄か盲目になったとの事です。

 健康体でも苦労する山河を、此れから幾百里俄か盲目ではとても歩けません。又連れて歩いてくれなど到底申せません。其れで覚悟を決めた由です。小声で話して居る問に戦友が背嚢から包みをだし開いてY軍曹の手に持たせてやりました。見れば妻子の写真です。其れを手にして、眼前で遠ざけ、近づけ、左右に動かして、何とか見ようと努めて居ります。でも見えないらしい。ポロッと両眼から涙が落ちました。暫くして彼は写真を胸ポケツトに入れ、腰の手榴弾を取り手探りで安全ピンを抜きました。「皆元気にな、一足先に行くぜ、サー離れてくれ」と取り巻いた戦友に立退く様求めました。皆言う可き事は言い尽くしたのか無言で人垣は崩れました。やがて彼は持ち直した手榴弾を、コンと発火させ心臓の下に当て、ウツブセになりました。ドーンという音と共に肉片が飛び散りました。直属の兵士らが駆け寄って居りました。一同は合掌し、ウツムいて黙って立去りました。

 其の後道傍に倒れて居る兵士は増加して何の感慨も湧かない冷たい心の持主になりました。考える事は只一つ食べ物の事ばかりです。大木に寄りかかり、或いは土堤にもたれ、或いは仰臥して銃を抱きウジ虫の巣になって居る姿です。ですが此の人達は自決と自然死の二つに分れます。片方の靴を脱いで、足の親指が銃の引き金に掛って居るのは自決であり、靴を履いた儘銃を抱いて居るのは栄養不良或いは病気に依る昇天の姿であります。私は彼等を見るとも無く、考えるとも無く、何うしても「生きて帰るんだ」と自分に言い聞かせて歩きました。人間は「もうあかん」と思ったら駄目で、飽くまでも「大丈夫だ」と思い自らが自分に教え信ずる事だと思いました。

 此の後戦斗の記事は余り出て来ません。焼き畑等で時々空襲はありましたが、地上での米軍の攻撃は絶えました。米軍はプランギ河迄追い詰めた後、攻撃方向を師団主力たる、スリガオ・ブツアン経由の高木大隊及び師団司令部のある、アグサン河上流へ指向した様であります。

 二十年六月十二日 バンダドン山
 本日晩は峠の頂上を越えた東側斜面で宿営しましたが、大変な寒さで震え上りました。夕食後命令受領あり、私が出席する。「各部は将校以下全員を強・中・弱と区別し、各部分毎にワロエヘ向けて前進すべし」即ち病院は解散し、各部は強・中・弱と分かれて十数ケの小部隊に分散して勝手にワロエ方向へ行けと言う訳です。外科、内科、行李等は人員も多く可成り衰弱した病兵が多かったのです。此の時覚えて居るのは神戸のN軍医中尉が病兵として、岡山県?の兵長及び当番兵と三人で残り、Y兵長は一人マライバライ方面へ引き返す人達と行動を共にして生還して居ります。

 所で各部は発着部に比較して入山迄に精カ的な食糧集めをやらず、努力した我々はお陰で此の頃でも濃いお粥を食べて居りました。其の為発着では甚だしい弱兵はまだ出て居りませんでした。帰って報告協議の結果、僅か十二名だし一団の儘行動すると決定。尚此の度の部隊解散の真の意図は、カバンハンで集めた米がまだ本部に残って居り、此の米を各部へ少しでも渡すのが惜しくなった為と言われました。其れで命令受領後、本部よりの帰途命令受領者達が隊長をボロクソに
罵って居りました。下司の勘繰りに類する考えかも判りませんが。

 私は予てより敗戦必至と見ていた上、山へ逃げ込んで後の見聞より判断して、ワロエでの病院開設等、夢の又夢と確信しました。其れで「自分を発着部の衛材輸送責任者にしてくれ」と申しました。皆イヤがって居る「衛材輸送責任者とは」ビックリし且喜び「大いに結構頼む」軍医、先任下士官大喜びで承知。「では只今から私が発着部衛材輸送責任者になりました。付いては他人の為の衛材は捨てます。我々自身に必要な衛材のみを背嚢に詰め、前進一方にしたいと思う。万ヶ一にもワロエで病院開設とならば、責任者平岡が水没させたとでも言ってくれ。何れにしても私が責任を執る」と言うと皆大喜び。軍医も先任下士官も暗黙の裡に承知して何一言も言わない。早速衛材の梱包を開き、モヒ、カンフル、キニーネ、ヨーチン、パピナール、赤チン、ガーゼ、包帯等を適宜割り振りし、軍医には外科小嚢(手術器材)を割当て持たせました。残りの衛材は総べて谷底へ投げ込みました。此の時食糧は各人二升位の米と五升余りのモミがあったと思う。背嚢外の物等で背負う量は増加しましたが、三回も四回も行きつ、戻りつする必要が無くなったので皆大喜びです。此うして各人の背負い量が確定すると、コッソリと天幕をたたみ足音をしのばせて暗夜星明かりを頼りに東方へと山を下りました。正に真夜中の夜逃げ芝居でした。病院開設、部隊野営等は、空襲、対ゲリラ戦を考えて常に可成り広い範囲に分散して居りましたから、此な時は誠に好都合なのです。隊長や衛生中尉に見つかっては一大事と、夜を徹して強行軍。次の日も急げや、急げと前進しました。

 此の時衛材を捨てた事と背中の多少の米があった事が、十三名中六名も生還できた原因の大きな分野を占めと思います。

 もう此の当時道傍には飢えて天幕一枚の下にうずくまる兵も多く、又半ば白骨化した遺体も多くなって参りました。此の頃から平地へ下りるに従って段々に暑くなって来ました。其れで毛布をドンドン捨てまして、多い者で一枚、少ない人は半枚になりました。

 又此の頃悲しい想い出の一つに或る日、先行者の歩いた細い道らしいものを歩いて居ると、傍らの四、五米下の川底から「助けてくれ、頼む、○○の○○軍曹じゃ、わしは何うでも生きて帰らねばならんのじゃ。頼む! 助けてくれ! 頼む!」と悲痛な嘆願の声が聞こえるのです。草で顔は見えませんが我々の話し声を頼りに、必死になって叫んでてるのですが、余りの真剣さにフト立ち止まりました。顔を見合わせましたが、我々には谷底まで下りて引き揚げる丈の力はありません。黙ってうつむいて通り過ぎました。普段皆黙って死んで行くのです。此なにわめき叫んで居た例はありません。恐らく彼は「生きて帰らねば成らん事情」を思い浮かべて死物狂いだったのでしょう。

 此の頃銀行員だったと言う兵長と、師団長当番だった「精励格勤」と言う言葉その物の様な兵長とが衰弱して落伍しました。先任下士官は仲々気の強い男で「後から来い」と一言残して後も振り返りません。永い間一緒に暮した家族同然の人間ですから別れは仲々辛いものです。二十日頃には川は段々と大きくなり、佐野川から洲本川位まで大きくなって来ましたので、川原を歩くと割に歩き易くなりました。

 二十年六月二十四日シラエ方面より流れ来る川との合流点に達し宿営しました。可成りの大河になりました。本流では筏で下って来た兵士もあり、捨てられた小さな筏が点々と川岸につながれて居りました。陸上には先行部隊の草ブキ小屋が空いて居り其所へ入りました。此の晩豪雨があり、朝起きると、軍医の下痢甚だしく、衰弱が進み、出発延期が要請された、然し先任下士は全然無視、知らぬ顔で「出発準備」「出発」と拾い集めた筏に分乗して出発しました。軍医は只一人小屋で坐った儘、淋し気に見送って居りました。此の時の心境や如何に。されど彼は建前上ではあっても指揮官、過去三名の置き去りを暗に認めて来たのです。

 昨日は人の身、今日は我が身だ。人望無き彼をかばう者は一人も無く、居残る者はおろか、振り返る者すら居ない。

 軍医さんは大家の生れで、「お坊っちゃま」として育ったらしい。昔も今もお医者様と言えば貴人です。軍隊でも将校は兵士よりも良い食事をして、当番兵が食事・洗濯・靴磨き迄身の廻りの世話一切をしてくれます。今日の嫁さんよりもはるかに行き届いたお世話をするのです。その貴人がある日突然、大元帥閣下の分身たる病院長より浮浪者同様の「敗残兵の一群の親分として勝手にせよ」と追い出されたのです。その部下は土百姓や安月給取りで生れた時から、浮浪者(ルンペン)の隣りに居た者達ですから、寒暑も空腹も重労働も訓練済みです。米粒が少し浮んだ野草汁も「腹減ったなあ」で堪えられます。然し貴人たる軍医さんには、さぞ骨身にこたえた事でしょう。「衣食足って礼節を知る」人間から、一動物として生きねばならん事になったのです。天国から地獄へつき落されたのです。野草を主食として生きると野生動物に近くなる様です。然も長たる者は野性的浮浪者集団をまとめて、リーダーの権威を保たねば部下は心服しません。その為には自然(気象)観察から人間観察迄、いわゆる力が必要です。私は父に連れられて子供(小学生)の時から小さな艪を漕ぐ舟で漁業をしておりました。それでお天気には極めて敏感です。海上で操業中吹いて居た南東風が急に止り、北西のウラ山(淡路島の背梁山脈)から、かすかに騒音が聞こえて小雨が来ると激しい寒冷前線が通過中で、後僅かで北西の強風が襲って来ます。又春から秋雷雲が西から北東に現れると暴風雨を伴う事が多く、雲の高さ、進行方向、速度を即時判断しないと危険です。その様な貴重な体験を重ねております。当時ミンダナオは雨期であり、野生動物同然の生活では、川の上流の雷雲は雪崩の様な激流を生じます。だから眠り易い川原の砂の上に寝るか、蛇・虻・蚊・ヒル・ムカデ・アリ等の害虫に悩まされても、ジャングルの中に天幕を張るか、毎日午後にはバンダドン山系の雲行きで判断せねばなりません。この決定は理屈だけで無く第六感・直感が必要です。私が発着部で事実上の参謀的地位を占めた理曲の一つです。又空襲、対ゲリラ、食料探し、道傍の落伍兵の目付き、態度(当方は当時としては十名近い大部隊とは言え、自暴自棄的な者の居る事は十分考えられます。皆実弾の入った小銃を持ち安全装置は総べて外され即戦体制にあり)をジロリと見乍ら先頭を歩かねばリーダーでは無いのです。薪一本集める事も出来ず、一番後尾をフラフラとついて歩く軍医は存在価値は二等兵よりも劣るのです。只一人の厄介者に過ぎません。いつかは捨てられる運命と決って居たのです。その時が今日訪れただけの事で、当番兵も残りません。毎日生死の境を歩いて居るのです。一切の甘えは許されません。殊に愚劣な指揮官は仇敵と同じです。平常は階級支配に甘んじて居ても生死の関頭に立てば戦国時代の武士と同じく部下が主人を選ぶのです。誰もが生きたい、それが生き抜く為にはボンクラリーダーは敵同然の存在です。バブル時代以降の政・経・労・のお粗末宰相、自治体首長、バブルに躍った社長さん、労組の組合長さん達、国民、市民、社員、組合員達はまだ餓死の環境に追い込まれないのでおとなしい。もう一段生活が苦しくなれば、首のスゲ更えが考えられるし、ズドンと一発背後から天国へ送る事も考えられますよ。フィリッピン、アフガン、アルゼンチンを見れば呆け老人の戯言と笑っては居られませんよ。とに角人間は餓えさせてはいけません。閑話休題。

 二十年七月四日 軍医死亡
 昨夜夕食後焚火を囲んで座談中、私の前の背嚢がソロソロと動くのに気付き、全員に手で知らせる。皆の話し声が止まり背嚢を見る。途端にサッと引き出された。全員銃を執り外へ飛び出す。泥棒も話し声が止まったので危険を知り、背嚢をかついで早くも川の中へ入って居る。「おい止まれ!撃つぞ」彼は止まって振り向く。「此方へ背嚢を戻せ、命は助けてやる」ソロソロと戻って来て砂地へ降して川中へ歩んで行く。「官等級氏名を名乗れ」何か答える。「親はあるか、兄弟は?妻子はあるか」「親は無い、兄弟はある、妻子は無い」答え終るとズドンと一発、水中に没して行った。次の朝、二、三〇米下流に昨夜の兵士の遺体があった。

 明けて四日起きて見れば、昨日迄と異り、ウンと減水して居り、「良し!今日は出発出来るぞ」と勇み立つ。数日間豪雨で歩けなかったので大変嬉しい。天幕をたたみ背嚢を整える。

 其の時ふと上流を見ると一人乗りの筏から誰かが降りようとしております。大腿部迄水につかって大きな背嚢を背負って歩き出しました。小さな体と大きな背嚢でピンと来ました。「大国主命だ」アダ名が飛び出して居りました。先月二十五日別れた、発着部長軍医が追い付いて来たのです。杖を頼りに歩いて来る。近着くと先任下士官に向って「上官を捨てるとは反逆罪だぞ!」と怒聲を張り上げる。「何をバカな事を言うとる『弱兵は残して健兵は先へ急げ』との病院長命令に従った迄の事じゃ」「当番兵も付けず置き去りとは怪しからん」と将校の特権を振り廻す。「寝言言うのは止めとけ、残す当番なんぞ何所にも居らんわい」と猛烈にやり合う。「こりゃ危険だ」と我々はサッと横へ離れる、と突然バーンと銃声一発、流弾が軍医の左胸部を貫通しバッタリと倒れた。慌てて駆け寄り脈見るも、出血多量で心臓は止まった儘でした。其れで直ちに、「穴掘れ」でガサガサ川原の小石を取り除き埋葬。「傍ではサァ遺産相続か」と背嚢を開けて、盛んにあれこれと評定し乍ら、薬、米、モミ、外科小嚢と分担して皆が持つ。最後に一番底から油紙に包んだ紙片を探し出し開けて見ると妻子の写真です。皆なの頭に故郷の妻子が浮かんだのでしょうか、一ペンにシュンとなり「早く仕舞って出発しようや」で背嚢を負い歩きかけた頃、上流から二人の人影、あれ、誰だろう、と思う間も無く近着いたのは病院本部の萩野衛生少尉と当番兵です。「やあ」「やあ」と話し合う。「お前等早いなあ」「はい急ぎましたので」「本隊は遥か後方だぞ」(当然です。三往復四往復をしとるのですから)「我々は強行軍を続けましたので」と答弁は専ら先任下士。話に依れば少尉は前途を見屈け、糧秣を確保する為、六月十六日から前進して来た由。我々と同一速度が出るのは当たり前の話です。「軍医は何うした」「シラエとの合流点で下痢しておくれましたが、今朝筏で到着しましたが、水没して溺死しましたので埋葬した所です」我々が背嚢を負ったきりで衛材の無い事に不審を抱いて居る目付きです。先任下土に出発を促す。「では少尉殿もお元気に、所で少尉殿はどちらを行かれますか」「右岸を行く、お前等も頑張れよ」此れが萩野少尉との最後です。私達は彼等と分かれて川を渡り左岸のジャングルヘ入って行きました。

 所で豪雨の話が出ましたが、此の豪雨の中で何うして火を燃やし煮炊きをしたのでしょう。ズブ濡れの木を切って来て何うして火が燃せるでしょうか。携帯天幕をつないだ天幕の中、先づ切って来た木の皮を剥ぎ捨て木質部を鰹の削り節の様に薄く削って山をつくります。其の上にツマ楊枝の様にした物を乗せ、次いでマッチの軸、割箸、と言う様にして更に小指、遂には細い割り木を作り乗せます。此の準備が出来ると地下足袋・防毒面を細く切った物に火を着け、削り節に近着けて火を移します。其所へ背嚢に着けて居る。石油缶を切って穴を開け、卸し金に使う物をウチワ代りにしてソロソロと空気を送ります。雨が降ると此の大事業を毎日二回行います。大変な手間、苦労です。米軍の様に缶詰を空ければ済むのとは天地の差です。更に私達は生水を厳禁して、煮沸水を水筒に入れて呑みました。アメーバー赤痢、下痢予防に大変効果的だったと思います。此の頃はもう髪の毛は殆ど抜け、一寸残毛が目に付くのも居る程度でした。脱毛すると一寸の風でも帽子が飛ばされます。頭髪が帽子の滑り止めになる事を改めて発見しました。頭髪は此の様に簡単に抜けますが、まつ毛、鼻毛、腋の下、陰毛は最後まで抜けません。だから水死して陰毛が流れにそよいで居る姿は誠に鬼気追るものがあります。此の頭髪は十一月頃になって体力快復に連れて、最初に赤ちゃんの産毛の様なものが生え始め、順次太く、多くなり、年末帰宅する頃には薄い乍らも一応頭髪らしい物が頭に乗って居りました。

 背嚢の話が良く出ますが、中味は、コンドームに入れたマッチ、氷嚢に入れた塩、米、モミ、薬、下着等貴重品ばかりです。皆生命に関わりますから、夜寝る時は背嚢を枕にして負い紐をしっかりと両腕に通して盗られない様にします。小銃は歩兵用の長いのを捨て騎兵用の短かく軽いのと取り更えました。死体の傍には幾らでも転がって居ります。尚多少危険ですが、安全装置は何時も外して、如何なる時も発射出来ました。背嚢の中味は上記しましたが、外側は死体から外した物がブラ下がって居ります。靴、地下足袋、天幕、シャツ、灯火用の防毒面の細く切った紐様の物等昔の乞食ソックリです。死体から種々と頂くのは、始めの間は臭いし一寸イヤでしたが、慣れると、兄弟の形見分けをもらう様に平気になります。もう一つ大事な事は将校の死体から双眼鏡のレンズを外して、好天にはマッチを使わない様にしました。
 

     

次へ続く
 
      

2003年5月再版発行 
「飢餓の比島 ミンダナオ戦記」より転載  禁無断転載(著作権は平岡 久氏に帰属します。)
※(自費出版他発行分NO.94)
copyright by hisasi hiraoka 2003


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