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 「飢餓の比島 ミンダナオ戦記」

全文掲載

これは著者の平岡 久さんがご自身の青春時代であった24、5才の頃の
軍隊の体験をご自身の記録を元に昭和57年まとめ、自費出版にて発行され、
その後2003年に増補改訂版として再版されたものです。

平岡 久さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は平岡 久さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

10.山中への敗亡行進 その3               

 二十年七月始め 地図摸写
 或る日河原で、偶然師団司令部の将校数名と出会い、手持ちの薬と、粉末のミソ、醤油と交換し隣り合わせに野宿しました。雑談中彼等が地図を持って居る事を知りました。私は此れは重大と直感してキニーネを渡して地図複製を許されました。私達は只ヤミクモに東方へ歩いて居る丈で、ワロエが何所にあるのかチンプン・カンプンで、只先行者が踏み荒した足跡を辿って東方へ歩いて居るのでした。「此の辺りの地図は甚だ頼り無いぞ」とは言われましたが、少なくとも、ミンダナオ・アグサン州の地図です。大まかな指針にはなる筈とゴム紐の灯りを頼りに懸命に写しました。私は此れを肌身離さず持ち歩き、毎日出して小さな磁石を乗せて、河の屈曲、支流の具合等より現在地を確認しては前進しました。ワロエ周辺には小さな部落名が可成り見られますから必ず食料がある筈です。「もう近いぞ」と何度も出まかせを言って皆を勇気付けました。其うしてランガシアンヘ着くと、紙はスリ切れる直前に成って居り、改めて書き直しました。又ランガシアンで考えて見ると、此の地図は案外正確で、戦後入手した地図より遥かに正確だった様に思います。

 此の後上流より流された白骨累々と重なった中州、中の島と名付けた所で一夜を明かしました。文字通り足の踏み場も無い有様ですが、其れを掻き分けて寝ましたが、何の感動も無く眠れました。何故此な所に寝るかと申しますと、今日は上流で雷雲の発達が無かったので洪水の心配が無く、蚊が少ないのが嬉しいのです。

 白骨の話が出たので少し書く。山へ入ってからの死者の殆んどは、食料不足に依る餓死者です。死ねば蝿とカラスと野豚が骨だけにします。その経過が逐一実体で順序良く展示されております。始めはその悪臭と無惨さに眼をそむけ、鼻をつまんで傍を通りました。然し人聞とはその環境にすぐに馴れ、順応力たるや大したものです。傍見をして居て靴で白骨を踏みつぶしても何とも感じません。無数(何千人が死んだ)の白骨に、一々感懐を催す様な神経ではこの地獄は通れません。

 八紘一宇、アジアの盟主の夢よもう一度、と願う元海軍主計中尉、元総理大臣閣下などには夢にも見た事は無いでしょう。憲法改正、再軍備、海外派兵を願う人達にはとても理解出来ないでしょう。更にこの小著を読んで頂く事の出来る貴方がたにも十分な完全な御理解を賜わる事は無理では無いかと存じます。何度も書いて恐縮だが、戦争とは酷いものです。又戦死は一瞬だが餓死(南方の死者の大部分)は長く続いた、空腹と重労働の最後に訪れる結末ですからとても辛いものです。

 後世への戒めの為にA級戦犯は、長い空腹と重労働を課して結果としての餓死刑を課すべきだった、のでは無いかとさえ感ずる事があります。

 私は生き残った兵士の義務として(敵味方を問わず)戦争のギセイ者を悼み、軍国主義者を告発し、反戦平和を訴え続けるだろう。昇天の日迄。

 尚後日四野病の戦友会に合流した。工兵連隊の人の話では師団長一行が通った時は大きな藷畠があり、沢山収穫出来て飽食し且つ携帯したそうです。健兵は飽食し、病兵は白骨を抱く。

 此の日忘れられない一事あり。此の日東方より引き返し、マライバライ方面へ戻りつつある、憲兵数名をリーダーに一団二十名前後の部隊に会う。被等の話は多少水増されて居るかも知れないが、我々が目指す東方が如何に悲惨であるかは明瞭になりました。現在立って居る中の島の白骨の山の延長が東方である事は確定されたのです。又マライバライ周辺の豊かさは事実であり、誠に魅力ある話です。前途は暗く後方は明るい。其所へ盛んに同行を勧められます。でもリーダーが憲兵である事に拒否感を持って私は断固同行を断りました。(当時発着部では私が事実上の参謀長でした)

 平和な時の憲兵は皇国史観の権化であり、皇軍精神に満ち溢れ、軍規厳正の標本の様に振る舞って居りました。所が苦境に立つや、現人神天皇陛下の勅任官たる師団長閣下が僅かな生き残りと共に、文字通りの弾雨の中で悪戦苦闘して居ります。其れをさっさと見捨て反逆者の募集をして居るのです。何うでも良い時に勇ましく、景気の良い事を言う奴程、いざ、となった時、如何に汚い人間になるかの見本見度いなものです。勿論「宿敵米英を殺せ」と勇ましかった人達が敗戦と同時に「我こそ民主主義の守り神なり」と叫んだり。戦陣訓で「生きて虜囚の恥ずかしめを受くる勿れ」と傷病兵まで死を命じた陸軍大将が自殺の真似事をしてお茶を濁し生きて虜囚となったのですから、上記憲兵の行動は正しかったのかも知れません。

 此の頃から文字通り「人肉相食む」残骸をチヨイチヨイ見る様に成りました。骨皮になって居りますから。脳ミソと心臓、肝臓、脾臓等の内臓を取り出して居りました。私も見る度に、食指が動いたのは事実です。でも心中秘かに押さえ込みました。或る日の午後おそく道傍で今日が最後と見受けられる兵隊をしげしげと見て居た某が、後黙り込んで仕舞い近くで宿営。天幕を張り、火を燃やし、野草汁の準備中も何一言も言わず、何か思案中でした。彼は私に今見て来た兵士の事を「彼は明日まで保つか」「ウムまあ今日中だろうなあと」「とすれば捨てて置けば彼は只ミンダナオの土になるだけだな、我々の腹に入れば血となり、肉となって日本へ帰る事も出来るかも知れんな」ハハー彼の沈黙の理由は此れだったのか。彼は大事を行う為に己れ自身を納得させる理論を組立てて居たのか。私は「人間は虎、狼とは違う。其れは止めるべきだ。又我々は背中に例え一握りでも、まだ米がある」と激論になる。彼は問答無用!とばかり立上り出て行く。私達も続いて、暮れかかる夕景色の中を追って行き、「人間が人間を喰う事は、人間が人間で無くなる事だ!」と激しく取り止めを求める。数十米歩いて漸く中止する。此の議論は此の後残骸を見る度にむし返され、某との間に何だか対立的な空気が生れた。純真な青年に此んな事をさせ、或いはしようと決心させたのは誰だ! 徒手空拳に等しい貧弱な武器、僅かな食料を与えて戦場に送り出した権力者達に呪いあれ!権力者こそ真正の人喰人種なのです。

 昭和二十年七月始め頃
 此の日も朝からトボ、トボと河原を歩いて居た。傍には例の如く、白骨、蝿の群がる半白骨、蝿とウジ虫花盛り、の日本兵が点々と倒れて居りました。すると土堤見度いな所へもたれて居た男が、私達を見て、杖を頼りに、ヒョロヒヨロ、と立ち上がりました。其うして、「オー、オー」とか何とか意味不明の言葉を発し、泣き乍ら近寄り、中の一人へかきついて来ました。

 見れば角力の力士以上に、ゴム風船の様にふくれ上った、栄養不良の患者です。栄養不良で倒れる最後は、此の様に膨れ上るか、又は骸骨の上に薄皮を張った様に、即ちミイラの様になって凋んで仕舞うかの二通りあります。今泣き乍らかきついて来た兵士は、膨れ上る方の形です。一同は一寸立ち止まりました。彼は「四野病が後から来る、との噂を聞いて此所で待って居た。此の通りじゃ、助けて呉れ、薬を呉れ」と懇願して居るのです。話を一寸聞いて居た、先任下士以下は直ぐ歩き出しました。私は立ち止まった儘、やりとりを見て居りました。かきつかれた衛生兵は、泣き出し度い様な顔付きで、困り果てて居ります。どうやら親しい他部隊の兵士の様です。

 患者の方は、野戦病院と言えば、充分な薬を持って居るものと信じ込んで居ります。頼まれる方は、此の患者に必要なものは、先づ安静、次いで程度の高い良質な食料、と利尿剤、である事位はすぐ判断出来ます。利尿剤等は持って居りませんし、第一医者や薬品の及ぶ所では無くなって居るのです。其の時期は過ぎ去って居るのです。「特効薬は無いが、出来たらトウモロコシの毛を煎じて飲むが良い。腫れが引くだろうし、又此れはマラリアのキニーネじゃ」と薬を渡して居りました。患者は頼みの綱にして居た衛生兵が、余り対応する力の無い事が判って、ガックリしたらしく、一寸イヤ味めいた言葉が出ました。

 衛生兵の方は誠に幸らそうな、泣き出しそうな顔付きなので、私は「おい皆先に行ったぞ、行こう」と、彼の服を掴んで催促し、別れさせました。先行した発着部へ追い付く前に「彼はマライバライの野戦貨物ショーの兵士なので、地方での一寸した顔見知りの縁を頼りに、山へ逃げ込む前には、相当食料を横流ししてもらった仲なのじゃ」との事です。私が分遣隊で、病院本隊を留守にして居た間に、発着部の食料補給の一端を助けた人、と判りました。

 所が今、攻守所を更へて、頼まれる側になった時、お返しをする事が出来ないので、彼の様に困惑して仕舞った事が判りました。彼は「此那所に利尿剤や、栄養剤があろう筈が無い、然し、助けてもらったお返しはせねばならん。

 其れで己れ自身に、一番大切な、大事な、大事な、キニーネを半分以上、彼に渡した。此以外に自分の気が済まなかったでなあ」とポロり涙を落とした。双方共、余りに哀れな話だったので、今日も良く覚えて居ります。

 二十年七月十三日 高曽、中井落伍
 此の日二人は下痢甚だし、度々である。先任下士は待つ気無し、成る可くユツクリ歩き追求を待つ。此の日追求無く慌てて翌日より紙切れに赤チンで「四FL発着通過、月日、高曽頑張れ」の張り紙を曲り角毎に残す。でも遂に再会は出来なかった。此の当時全員骨皮となり、膝関節が人頭程に肥大した様に感じられ、ガニ股の私さえ、歩く度に左右の膝関節が衝突して痛さに顔をしかめました。一日歩いても、数Kも歩けただろうか。蛇、トカゲ、野草を一所懸命探しつつも、何回も何回もペタリと座って休みました。(栄養不足で痩せると、丁度骸骨に薄い布を貼り付けた様になります。結果体中シワクチャになり、両手を上げて皮膚を下へ引張るとダラリと布の様なものがブラ下ります。胸の皮を引張ると、老婦人の乳房がブラ下った様になります。座る時も草の上か、軟らかい土の上で無いと尻の骨が痛くて座れません。此な事ですから、年令が判らなくなり皆同じ老人に見えます)

 中井は矢持と二人で発着の炊事係を担当して良く頑張りました。

 誠に人の良い人間で前歯二本欠けて居たのが印象に残って居る。

 高曽は実にしっかりした男だったので、入院患者名簿を預けた。入院患者中死亡した日時、場所は此の名簿さえあれば判りますから、遺骨・髪は捨てても此の名簿だけは最後まで持ち歩いたのです。死者と遺族の為に。彼は帳簿が重いので休みの時はよく取り出しては一枚一枚余白を切り捨てて居りました。本当に残念でした。後僅かで私が指揮を取る運命の日が訪れたのに。冥福を祈るのみ。合掌。

 二十年七月十七日 熱発
 朝から高熱でフラフラし乍ら皆と共に歩く。大きな河(ウマヤン河)の左岸一寸山に入った所を、川と平行に先行者の道らしいものがあり、其の足跡を辿って居た。すると急に眼の前に絶壁が立ちふさがった。「ああ此りゃ駄目だ」と思って坐り込んだ。ヒョッと目が覚めると、松岡伍長が一人私をのぞき込んで居る。「おう気が付いたか」で段々意識が戻って来ました。

 目を覚まして良く見れば、絶壁と見えた障害は僅か一米に足らない高さの段でした。「お前が倒れた時、捨てて行きかけたので「平岡だけは今迄と違うぞ、背中の米もプランギ渡河も思い出して見よ、今迄の様に捨てる事はできんぞ」と頑張ってくれたが「其れならお前が残れ」と五人は先行したと言う。私は感激しました。お陰で命拾いをしたのです。松岡はキニーネ注射を行い、種々と介抱に努めて呉れたらしい。文字通り命の恩人であります。真の友人とは此の人の事であります。一人旅と二人旅では全然違う。協力し「頑張って行こう」と固く誓いました。其の後二、三日歩いた頃中地区隊が川筋から左の山手に入った旨の立札の所で思案して進み難ねて居る五人組とバッタリ出会いました。顔を見た途端先任下士が「おう来たか、元気で良かったなあ」とニコニコしました。然し眼の底にキラリと走った殺意は見逃しません。捨て去った事で彼は憎まれたと思ったのでしょう。私も大ニコニコで「会えて良かった」と応対はしました。此れは最高に厳重注意!と心を戒めました。毎日生死の中を暮して居りますと、体力は衰えても感覚は剃刀の様に研ぎすまされるものです。一人旅の兵士でも行き倒れでも多少なりとも殺気があればピンと来なければ絶対に生きられません。却説進路を右即ち師団司令部の後を追ってウマヤン河沿いに進むか、左即ち中地区隊の後を追うかに付いては、私が前後を歩き回って中地区隊の方が人数が少ない。即ち食糧にあり付ける率が高いと判断、左へ進もうと進言其れに決しました。此の時左折してウマヤン河を離れた事は死神と手を切った重大岐路だったのです。此れから下流は地獄谷と言われる難所が続き、大滝もあり、沢山の犠牲者が出ました。野砲兵三〇連隊本部が全滅した所です。

二十年七月二十日 右手に立つ事
 数年前県立淡路病院外科外来の待合所で、胃癌手術後の定期検診で時間待ちの時、源平合戦の虚像を剥ぐ(川合康著・講談社選書)を読む。

 治承四年(一一八O年)八月、小坪坂の戦に臨んで、三浦義明の郎党三浦真光(五十八才、参戦十九度)が、若武者和田義盛(三浦義明の孫)に訓えた。即ち戦に際しては「敵の右側に並んで馬を寄せよ」と。又建久二年(一一九一年)八月、大庭景能が鎌倉の源頼朝が建てた新亭で御家人に話しをした。「敵は左側弓手に置け」と教えたのと同じ事です。弓や銃を発射する時は前方と左側のみが射てるのです右側へは発射出来ません。九〇〇年前の坂東武者の心得を知りました。自ら先に火ブタは切らず、相手の先動を許し、後の先手を取る用意をしたのです。

 二十五才の私が、先任下士官の眼の動きを感ずるや直ちに、上記坂東武者と同じ事をしたのです。然も己れの弱点たる右側は、最も信頼出来る松岡を置き、常に三人並んだ。寝る時も先任下士官にピッタリ寄り添って眠りました。少しでも動けばスグ眼が覚める様に配慮した。これだけ心配りがあったればこそ無事生還出来たのです。

 この頃何かのはずみで、先任下士官が持って居た山口少尉の遺品であるピストルが、錆びて使えない事が判りました。当時先任下士官は責任と餓えで半狂人であり、言葉にトゲがあり、修理にも一寸イザコザがあった。それでも何とか分解して使用可能になった。

 二十年七月二十二日 先任下士官死亡
 この日昼食時に一米足らずの小川の傍の草原に雑草を座ブトン代りに座った。尻に肉が無く軟かい砂か草ブトンが必要なのです。そうして雑炊と言う名の野草汁を食べました。食べ終って矢持が小川の左手上流で飯盒を洗って居た。

 例の如く右から松岡・平岡・先任下士の順に並んで雑談。その時後方で「バーン」と銃聲一発、流弾飛び来って先任下士官の左後頭部より右眼窩を突き抜けた。眼球を十p程ブラ下げて前の小川へ頭から倒れ込んで行く。発着部長は二代続けて不慮の最後でした。直ぐ銃剣で簡単な墓穴を掘り埋葬しました。ピストルも傍らへ埋めました。背嚢を開けて薬品等を各人に少し宛持たせ、重い外科小嚢は私が持ちました。

 六人車座になって次の指揮官を決める協議が行われました。順序から言えば、山本は兵技下士官ですから除外、松岡の方が先任ですから彼が第一です。所が松岡は「此の難局の中皆が生き抜く為には是非平岡を」と推薦し、満場一致、私が推されました。黙って種々考えた末引受けました。此の時私は「如何なる苦難をも乗り越えて生還しよう」と熱誠込めて話し、固い団結を求めました。大日本帝国陸軍で推薦制の指揮官は私只一人では無いかと思います。此の時の六人、山本峰夫、松岡敏、矢持重一、徳田章、岡口武義と私は誓い通り全員無事生還しました。

 二十年七月二十四目 中地区隊
 当日午後中地区隊に追い付く。根岸連隊長指揮の歩兵七四連隊が中心で雑多な寄せ集め兵約五〇〇名と聞きました。此の時東南方では砲爆音が物凄く激戦の最中だった。聞けば参謀少佐(カガヤンーダバオ道南下の時の女連れ少佐殿)が居るとの事故私は早速お伺い申し上げました。尋ね当てると参謀はバナナの木で屋根を葺き誠に優雅な造りの小屋にお住まいでした。(此の場所で相当長期間駐留して食料探しをして居る旨看護婦から聞きました)「第四野戦病院先遺隊山口中尉以下六名只今到着致しました」(伍長では相手にされないと思って)「御苦労、上れ」と言われてお座敷へ上る。「ワロエヘはどの様にして行けば宜しいか、又ワロエとはどんな所でしょうか」「ワロエなんど行った事も無いのに何が判る、自分で確かめい」成る程御尤もです。

 大変理論的です。何よりも驚いたのは僅かな話をする間に遠雷の如く聞える砲爆音を耳にする度に、飛び上らんばかりに腰を浮かして「ワァ大きい、此りゃ五〇〇K爆弾かな」「ワァ大きい、此りゃ十五榴かな、イヤ十五加かな」「此な大砲をどうして運んだんだろう」の連続です。呆れ果てました。師団長が悪戦苦闘しているのに他人事の様に傍観して動かないのです。

 伺侯した時抱いて居た一抹の信頼、尊敬は三分か五分間かで底無しの軽蔑に変わりました。早々に退散、発着へ戻ると野病配属の日赤看護婦達が尋ねて来て居りました。私は何の馴染もありませんが、他の人達と盛んになつかしく話して居ります。此所に腰を据えて食料探しをやって居る由。彼女達は山へ入ると病院長に追い出され、とても恨んだらしいが良く考えて見れば衛材にくくられ、能力皆無の隊長から追放された事は疫病神が離れた慶事だったのです。プランギ河でも船舶工兵の舟で六月四日に渡り、体力残る間に前進出来たので本隊と行動を共にするよりは大変良かった。勿論女の身で「美味しいだろうなあ」(生還看護婦の手記にあり)と言われ見られつつの歩行は至難の事だったでしょう。彼女達は終戦時七名生還、十五名死亡、今でも年一回は集まって野病組とお話をする。

 彼女達に松岡伍長が「此なに弱っては、とても生きて帰る事は出来ん」と話して居り、聞いた看護婦から「金玉下げた男のくせに弱音を吐くとは何事ぞ」とドヤシ付けられて居た。まあまあ大変な元気で、巴御膳か、板額の再来かと見紛うばかり。其のバイタリティーにはビツクリし且勇気付けられました。彼女達と別れた後「強き者、そは女なり」の感深く六人顔見合わせて、「女には勝てんなあ」男女を比べると、男は基礎代謝量(消耗カロリー)が女より多く、耐乏生活には女性有利とは知って居りましたが、彼女達のサッソーと歩く後姿にはホトホト感心。我々は杖を頼りにトボトボと歩いてハーハー言うとるのです。取り敢えず此所で一泊、協議の結果「此なアホ参謀の指導する中地区隊などに留まれるか」サッサと追い抜こうと衆議一決、北方を流れて居であろうリュウアノン河へ足を向けました。

 前進と言う言葉が良く出て来ますが、只皆が歩いた後を真直ぐ歩いて居たのでは無いのです。河原を良く歩きましたが、ジャングルの木の具合から判断して原住民の畠がありそうだ、と見当を付けて雑草を切り払い、悪戦苦闘して歩いて行くとススキ原であったり、又イモ畠であっても先行者が大抵食い尽くし掘り尽くしてあって、葉っぱを摘んで来て飯盒一ぱいゆでて一gの塩で食べたりします。人間一日四gの塩があれば健康体を維持出来ると言われるので、塩は貴重ですから一食一g位で済ませましたが飯盒一パイの藷の葉を一gの塩で食べて見なさい。如何に食べにくいものか判ります。然も藷の葉は未だ上等の部類でした。又此なハゲ畠で、ツル下りの小指程のイモを探す方法は早朝日の出頃歩き回ると、イモのある場所の表土が僅かに黒く湿気を帯びております。此の現象を発見して小指程にもせよ飯盒に二杯も藷を取った事があり大喜びをしたものです。又内地の青大将程のヘビを見付けて時々食べました。人間とはおかしな者で、飢えると蛇を見た瞬間「アッ美味しそうだ」と感じます。此の頃鰻のカバ焼きの香を嗅いだ時より遥かに嬉しいのです。(生還して蛇を見ると不快感が先行します)蛇は見つけると杖でコンとやり、皮を剥ぐと肝がピクピクして居り、私は摘んで一番弱って居る人間に口を開けさして口中に入れてやります。本人は嬉しそうな顔をし、他の者は何ともうらやましい顔をします。身体の方は人数に合わせて切り分け、塩で味付け、防腐をして飯盒に入れ晩に焼いて分配します。背骨に沿って二筋の透明な脂肪の列があり別にして雑炊に入れる。肉の大部分は骨で歯の間にはさまり、楊枝で掃除しますが、味が残って居り、蛇のある晩は焚き火を囲んで大変楽しかったものです。又大便をすると非常に疲れます。野草主体ですから便の量も多いので、排泄行為はエネルギーを消耗して疲れるのです。其れで必ず傍で一服します。

 直ぐ湯気の出ている所へ銀蝿が飛んで来ます。すると内地と同程度の大きさのトカゲが蝿を食べに二、三匹も出て来る事があり杖でコンとやり、皮を剥いで蛇と同じ様に塩をまぶして飯盒に入れます。時には皮をむくと腹から今飲み込んだ銀蝿がブーンと飛んで行く事もあり大笑いしたものです。即ち私は前進、行進と申しますが実態は一日中食糧探しをして居るのです。軟らかい野草、お玉ジャクシ、カタツムリ、蛙、芋類、何でも良いのです。小さな水溜りで小石が底を埋めて居り、メダカの様な小魚の居る事があれば一斉に小銃弾を打ち込み何匹かの小魚を取ったりもします。魚が居ても底が泥や砂では震動が起らず魚は獲れません。六月半ばより此な毎日がずっと続いて居るのです。他部隊の三、三、五、五、歩いて居る兵隊も同じ事です。だから大体東方へ向って歩いて居るとは言っても、ジグザクに歩いて然も杖を頼りにトボトボですから地図上の距離なんて、てんで問題ではありません。住民の焼き畠跡へ入ると良くパパイヤの木があります。実があれば獲って来て青い皮をむき炊いて食べます。満腹はしますが胡瓜を食べる様なものでカロリーはありません。尚パパイヤは真ん丸い水瓜様の物と普通の長い物と二種類あります。所がパパイヤは調理が難事です。と申しますのは皮をむくと白い汁が出ますが、此の汁が手指に付きますと皮が溶けます。料理後、手が乾くと皮膚がチリメン状に小さくヒビ割れして凄く痛いのです。此の様にパパイヤの未熟果実の汁は蛋白質を分解する力が強いので住民達は水牛肉を炊く時は一緒に煮て軟らかくして食べます。地下足袋の底みたいに堅い老牛の肉でも軟かくなります。又果実の無い時は木を切り倒し、大根の様な根を掘り出し、炊いて食べますが恐らく腹をゴマ加すだけで何の栄養も無いでしょうが。

 或る時、一日歩いて何一つ食料に成る物が得られません。夕方になってお化けぜんまいと言って居った長さ一米、太さ腕程のぜんまいを取って来て、ウチワ兼用卸し金ですり卸し塩汁に入れて食べました。暫らく寝て居ると、天幕の破れた穴から空が見えるのですが、其の空が回り出しました。おかしい「松岡よ天が回るが、お前はどうか」と聞くと、異常無しと言う。直ぐ胸へ突き上げて来た。外へ這って出た。吐く、続いて下痢と思う内に、皆一斉に吐く、下痢、全員グッタリして仕舞った。翌日は全員フラフラで歩けません。止むを得ん「お粥を炊け」軟らかいお粥を三回食べると途端に元気が出て次の日から又歩いた。

 尚大変大事な事を忘れて居りました。私達は山へ入ってから、投降する迄、全員共同炊事を行い、皆な平等の食事を取りました。野病でも可成り早期から個人炊事が行われて居りました。食料を各人に預けるのでは無く、分配して各人勝手に炊いて食べます。此れは僅かな食料を早く食べ尽します。然し能力と体力のある者は常に強硬に要求するものです。個人炊事は採取した野草其の他も見付けた者が食べますから体力のある者は充分食事に恵まれ、体力乏しき者は急速に衰えます。食料を共同で確保し、平等に分配する事は、食い延ばし、連帯感を強め団結を守る上で絶対に執る可き方法なのです。然し此処の事はリーダーの素質と力量に依ります。強者の要求を抑えねばならんし、納得させねばなりませんから。其れで私達はモミを分担して持って居りますが、鉄カブトで精白し雑炊を炊いて毎日過ごして居りましたが、各人のモミの残量は常に平均する様充分な注意が必要です。

 話を更えて比島での珍しい食べ物を二、三紹介します。

 海岸では満月の晩に小川でも大河でも、ギナモスと言ってチリメン雑魚程の大きさで黒い縞のある小魚が大群をなして押し寄せます。此れを蚊帳様の網で住民は獲って塩漬けにし調味料と栄養補給に利用して居りました。味の良い物ですが、ウジ虫に似た感じで始めは一寸手を出し難ねます。

 猿も獲って食べましたが、仲々賢い動物とて樹上に居るのを見付けても銃を向けると、樹の反対側をスベリ降りてジャングルの内を逃げますから数多くは獲れません。

 又肉の極めて少ない動物です。又夜間野豚が兵士の死体に訪れますが、大変敏捷で一度も撃てませんでした。

 一米以上の大トカゲも居りましたが、余りに素早い行動でトテもお相手は出来ませんでした。烏もランガシアン近く即ち人里近くなって出現、撃って食べましたがサッパリ肉の無い鳥でしかも警戒心旺盛で数多くは獲れません。殊に死体を漁るので余り気持ちの良い鳥ではありません。

 又想い出の一つに川原とかを歩いて居ると「其所通る兵隊さんよ水汲んでくれ、水呑み度い、頼む、水汲んでくれ」と本当にか細い声で哀願されます。一人旅や三人、四人の天幕で半白骨、ウジ虫花盛り、其の傍らで最後の一人が臨終を迎え、末期の水を望んで居る場合等様々です。でも誰も汲んでやろうとはしません。皆弱っているのです。水の流れる所迄十〜十五米位が多いのですが、杖を突いて石コロの川原を歩いて行き水を汲んで又戻る事は、其れは其れは大変な重労働なのです。でも私は大抵の場合汲んでやりました。飲ませました。「有難うよ、うまかった。何所の兵隊さんか知らんが、うまかった、有難うよ」と言いつつ殆ど其の場でガックリしました。私は片手拝みに「良え所へ行けよ」と立去りました。歩みつつ私も何日か最後が来た時、誰かがきっと汲んでくれるだろう、と心の中を温かい想いが流れました。此の人達のお礼の言葉は四十年経った今も耳に刻まれて居り嬉しい思い出の一つです。

 又或る日歩いていると一人の異様な兵隊に出会いました。其れは鶏を一羽モミ袋の上に乗せて歩いて居るのです。所が近づくと「ワンワン」泣き出しました。良く見れば一年前スリガオで発着部より下士官侯補者隊へ出たOなのです。「班長殿も御元気でワーン」とかきついて来るのです。「おうお前も元気で良かったなあ」と話し、皆其の場へ座り込んで久し振りのOを囲んで話が弾みました。其うして私と話して居たOが他の兵の話しを聞くとも無しに耳にした様です。「今夜は久し振りに鶏飯じゃ、美味しいぞう」との話。耳に入ったOは突然立上がり「此の籾と鶏は軍医部長殿の物です。絶対食べる事は出来ません。僕は出発します」と言う。我々はビックリして「何を馬鹿な事を、此の危険地帯を一人で歩くなんて、絶対駄目だ」「軍医部長よりお前自身が生き延びよ」と種々必死に話し、説得に努め、同行せよと話したが、頑として聞かず、ふらふらと杖を突いて歩き去った。見送る一同だが虚脱した様になって「下士志願する様な頭の固い奴には勝てんなあ」と其の儘其所で寝ました。翌日歩いて居ると「又やられとるぞ」の声、構わず歩いていると「OだOだ」の声、慌てて引返して見ると、道傍の草ムラでOが無残な姿になって居るでは無いか、顔だけが無傷だから良く判ったのです。頭を割られていれば判らなかったのですが。勿論鶏もモミも無い。背嚢も奪われている。「アァ残念、真面目人間だった彼を例え殴り付けてでも、一行の中に加えて居れば、此んな憂き目を見せずに済んだものを」と皆後悔し、手を合わせて立ち去りました。

 山中一休みすると良くシラミ退治をしました。毎日暖かい所で裸になり、時間や水の便の良い所では水浴をしてシラミを取ります。なつかしい思い出です。

 又此の頃の思い出の中に、或る朝霧の深く立ち込めた肌寒い感じの中を歩いて居て、曲がり角を曲がった途端一人の兵に出会い、サッと銃を構えました。曲がり角を曲がった時が一番狙撃され易い危険な所なのです。良く見れば一人手ぶらで突っ立って居るのです。「誠に済みませんが、此の薪に火をつけて欲しいのです。昨夜寝て居る聞に何も彼もスッカリ盗られて仕舞ったのです。目が覚めると寒くてたまらんので薪を集めて誰か通るのを待っていた」との事、直ぐマッチを取り出し火をつけてやりました。「有難う、有難う」の声を背にして歩き出しましたが、一人旅は危険なのです。銃も背嚢も飯盒もマツチも塩も、即ち生きる為の総てを盗られた彼の明日は何うなるのだろうと思うと本当に哀れでした。でも此方も彼を仲間に入れてやる丈の余力はありません。目をつぶって通り過ぎました。

 又此の頃谷筋から離れ、焼き畠が見付易いだろうと、山の尾根筋を一日歩いた事がありました。
昼食の用意が無かったのでススキを刈って焦がして白湯に浮かべてスープと成し、モミの儘焼き米にして噛りました。水は藤ヅルを切って滴り落ちるもので喉を潤しました。所が次の日から糞づまりで困りました。特に徳田が非度く、腹痛を訴え苦しみました。其れで四つ這いにさせて大きく口を開けさせ、肛門筋をゆるめ、ピンセットで私が何回も少し宛取り出しました。彼は仲々気の利く人間で私の腰巾着で分遺隊へも良く連れ立って行きました。其れで糞いじりも私がやったのです。彼は終戦後一度私が網納屋暮しをして居た時訪れて来ました。私は生還後事情あって粗末極まる網小屋暮しを暫くしました。其の時です。恐らく彼は余りの見すぼらしさに驚いたのでしょう。以後音信不通となり五十二年頃大往生したらしい。昨今しきりに思い出し、矢持君にも手伝ってもらって探したが既に天国との事でした。大変残念です。ゆっくり楽しい思い出話などしたかったです。

 又此の当時岡口が大変弱って居りました。「出発」と言っても仲々立ち上がりません。「起て!」と言って杖で撲り付けても「班長、放っといてくれ、私はもう足手まといになるだけじゃ。此所で死に度いんじゃ、頼む、放っといてくれ」「何を!」と言って撲り付けて起たせる。私白身休んで居眠りした時、モヒ注射を受けた時の様に、フワッーと気持ちが良くなり、天国とは此な感じだろうなあ、と夢、現に感じられ、死の誘惑とも言う可きものを知って居るのです。でも何うしても六人全員生還の夢を果したかったのです。人間飢えて行く過程は甚だ苦痛です。然し極限が来て最後に昇天する時は、楽にふわーっと瑞雲にでも乗った様な感じで来世に旅立てると思いました。私は心を鬼にして岡口を撲り続ける日が続きました。(私は現役兵当時大変景気良く撲られました。でも身体の痛みよりも、心.の屈辱が堪えられなかったので、兵隊を撲った事は岡口以外只の一人もありません)何所を撲ってもコン、コンと骨の音ばかりでした。

 尚私達が六人全員帰れたのは部隊行動をしたからです。眠り込んでも誰かが起こします。又当時六人連れは他と比べて大部隊だったので安全ですし、又大変心強かったものです。

 戦後生還して暫くすると、岡口宅へ招かれました。両親、親族多数が集まって居りました。親御様から「良くもまあ、家の武義を撲り続けてくれた、放っといて当たり前じゃのに、良うしてくれた。命の恩人じゃ。有難い」と涙を流して感謝されました。種々と御馳走になりましたが、濁酒とイワシの目刺しがあった事を記憶しております。又お米も頂いて帰った。所が折角生還出来たのに、五、六年後に不帰の客になったのは誠に残念でした。

     

次へ続く
 
      

2003年5月再版発行 
「飢餓の比島 ミンダナオ戦記」より転載 禁無断転載(著作権は平岡 久氏に帰属します。)
※(自費出版他発行分NO.94)
copyright by hisasi hiraoka 2003


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