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「銃後の妻の 戦中日記」 全文掲載 |
これは著者の平岡弥よいさんがご自身の青春時代であった21〜25才の頃の
銃後の生活の様子及び終戦後のご主人復員の頃までを日記にて書き残したものを元に
平成16年まとめ、自費出版にて発行されたものです。
昭和二十年(二十三才) 十二月
昭和二十年 | 十二月 一日 | 洗濯をすまし箪笥へ入れる。 | ||
十二月 二日 | もう終りかと思ってからもなかなか芋は掘り切れない。 割方良く入って居て大喜び。 |
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十二月 三日 | 畠へ入る。 | |||
十二月 四日 | 明日より広石の弁天さん(回り弁天)のお立ち祭りで、今日午後より煕を連 れて志筑まで歩き、三時に乗れず五時に乗れば鮎原で故障になり、それから 広石まで歩く。 |
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十二月 五日 | 広石で台所で忙しく手傳ひ、晩方に弁天さんにおまいりして来る。 | |||
十二月 六日 | 弁材天さんのお立ちをおがみに行き、北組堀割までお送りして、其のついで に小山田の方でフイリッピンから帰って来て居るとの事を聞いたので、其 の方にお会ひに行って来る。 田んぼへ行つておられるとの事で、田んぼへ行って色々とお伺いし満足の上 帰ったが、不安な気持ちはますますつのり、どうか主人もあの方の様に無事 に帰つて来てくれる事を祈るのみ。 |
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十二月 七日 | 朝十時半出発の自動車で広石を出る。 志筑まで来れぱ丁度龍麿さん買物に来て居り、荷持を持って帰って頂く。 午後よりにわか雨の日和なり。 |
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十二月 八日 | 煕をあづかって頂き畠へ行き仕事する。 | |||
十二月 九日 | 洗濯を済ませ、煕をお願ひし畠へ行く。 | |||
十二月 十日 | 麦蒔きをもう少しする筈で、芋を掘った後をこしらへて用意する。 | |||
十二月 十一日 | 米の配給日で午前中でかへり、午後より家の中でゴタゴタあり畠へも出られ なかった。 |
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十二月 十二日 | 朝の片付けをして居れぱ、郵便局へ勤めて居られる平岡かず子さん(平岡節 郎さんの姉さん)が来られて、最近に比島から復員して帰って来られて居る 生穂の上田福市さんからのことづけで、比島の主人が無事で居るのに会って 来たからとの知らせを聞いて、かず子さんがすぐにわざわざ家まで急いで知 らせに来て下さる。 何の便りもなく不安な毎日だったが、突然の朗報に飛び上がり、何とも言ひ 様のない嬉しさで、阜速夕方に龍麿さんといっしょに、煕を背負いネンネコ を着て、二人共自転車で生穂の上田さんにお会ひして来る。 アメリカ軍の日本兵収容所で偶然にいっしょであり、上田さんが先発で帰国 になり、主人等は次か其の又次の便の復員船になるだらうとの事、とても元 気だったとの事を聞き、本当に大満足で嬉しさは此の上ない。 色々とお伺いすれば又色々と気がかりにもなる。 もし無事に船に乗れても、帰国の道中で機雷がたくさんあり、大変危険な事 もあるらしく、顔を見るまでは安心出来ないらしい。 (以後私の記録紛失する) 日記了 |
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(後日追記) | ||||
十二月二十九日 | 朝方川へ洗濯に行って居たら、家に居た兄さんの子供さんが、久の叔父さん 兵隊から帰って来たよ、と大急ぎで呼びに来てくれ、洗たくもそこそこにし て帰り、無事帰宅して来た主人を、長い間御苦労様でしたと迎へることが出 来た。 主人が昭和十九年五月一日に応召して、今目まで一年八ケ月の期間を終へて 家に帰れたのだが、初めて見る我が子煕が一才二ヶ月になり、とても元気な 男の子で嬉しかったらしいが、家の中は兄さん達大家族が二組も家中を占り ょうして居り、大変なにぎわい振りにはびっくり仰天で、言葉も出なかった らしい。 又、お父様が亡くなって一年二ヶ月にもなるのも初めて知り、家の中の変り 方には驚くばかり。 煕も言葉だけははっきりして、父ちゃん、母ちゃん、おっちゃんと口達者な のだが、まだ傳ひ歩き位だったから「まだよう歩かんのか」と主人が笑う。 (主人は「自分は小さい時には誕生目の時には高下駄をはいて歩いて居たん だよ」と、本当の事かどうか笑話をする) |
次へ続く
平成16年3月発行
「銃後の妻の戦中日記」より転載 禁無断転載(著作権は平岡弥よい氏に帰属します。)
※(自費出版他発行分NO.129)
copyright by yayoi hiraoka 2004
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