[ TOP ] [ 新着 ] [ 太平洋戦争 ] [ 自費出版 ] [体験記] [ 活動 ]
[ リンク ][ 雑記帳 ][サイトマップ] [ 掲示板 ] [ profile ]

 「銃後の妻の 戦中日記」

全文掲載

これは著者の平岡弥よいさんがご自身の青春時代であった21〜25才の頃の
銃後の生活の様子及び終戦後のご主人復員の頃までを日記にて書き残したものを元に
平成16年まとめ、自費出版にて発行されたものです。

平岡弥よいさんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は平岡弥よいさんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

昭和二十年(二十三才) 七月               

昭和二十年  七月   一日 浜の畠の芋植のこしらへをする。
昼前から雨が降ったので、雨の中を向家(岡村様)で三百本余りツルを頂き
雨でぬれて植える。 もう二百本程ツルが足らない。
 
 七月   二日 姉さん二人連れて小井ヘビワを買いに行かれ午前中留守番をする。
午後広石に笑子さんが下の道を歩いて通って居て私宅へ立ち寄って下さり、
少し休んでもらって、私も一しょに連れて平岡様宅を訪れ、久し振りにおば
様に色々とお話し帰って来る。 笑子さんは平岡様で泊る。
夕方私は小井へ荷物取りに行って来る。
 
 七月   三日 片岡さんへ姉様二人行かれ正午かへる。
午後より煕のホーソー検査あり、二度目植えたのも又つかず、近々又種痘す
るらしい。
帰って来てから八幡様の上の方のお家ヘツル(芋)を買いに行って来たが明
日とのこと。
 
 七月   四日 米の配給日で姉様(榮)に行って頂き、私はジャガイモの残り掘る。
前の畠、ヤイト場等全部掘り終り、夕方ツルを買いに行って来る。
 
 七月   五日 浜の畠へ芋植えのこしらへに行き夕方植える。
 七月   六日 前の畠のジャガイモを掘った後ヘサツマ芋植える。
 
 七月   七日 ヤイト場畠へ向家(岡村さん)でツルを切らせて頂き、午後より皆に手傳っ
て頂き植える。
 
 七月   八日 亡くなられたお父様の日柄なので、姉さん二人と私と三人でお墓参りする。
此の間内よりのつかれが出て、今日は体がだるく外の仕事はしなかった。
 
 七月   九日 ヤイト場前の畠の植えてあるツルに水をかける。
日照りきついので仲々つきにくい。
 
 七月   十日  煕の服を縫う。
 
 七月  十一日 ヤイト場畠の大畠の草引きする。
とても良く日が照り暑いので、午後は四時頃から外に出る。
 
 七月  十二日 昨夜より待望の雨が一日中降る。 植えてあるサツマ芋のツルにはとても良
いしめりだ。
煕一寸腸を悪くして下痢するので、郵便局の近くのお医者さんへ行き診て頂
く。 薬ももらって来る。
夕方療養所の先生にたのんであったら見て下さり、やはり母乳で加げんせね
ばならない。
 
 七月  十三日 朝より向家で芋のツル切らして頂き、植えて水かけ、おおいをする。
 
 七月  十四日 昨日植えたツルに水かけする。 正午ぼちぼち雨が降る。
晩方タコ(注)からツルを持って来て下さり植える。
 
 七月  十五日 今朝早く長太郎兄様四国へあづけて居た上の三人の子供さんを引取りに行っ
て、此方へ連れて来られる。
長太郎兄様の子供六人で、姉さんと下の子三人は三月末に此の家で暮らして
いる。上の三人が四国へ疎開して居たが、今日から全部此の家へ来て暮ら
す事になり、長太郎兄様の家族八人と安民様の家族八人が私達三人の中へ入り十九人家族となる。
夕方芋の水かけをすれぱ急に何だか体がだるくてのどが痛み出し、起きて居
られなくなり早くより床につく。
 
 七月  十六日 今朝になっても体の調子なおらず、次第に気分悪くのども痛み食欲がなくな
り、とてもしんどくて苦しいが、おむつ洗ひとお母さんのお世話だけはなる
べく皆のお世話にだならぬ様に自分に言ひきかせがんばる。
 
 七月  十七日 やはり体はよくなって来ず、食よく無し、食べられない。
 
 七月  十八日 まだ良くならずますます食欲がないが、これではますます悪くなるぱかり。
思ひ切って、大へん体がだるくてしんどくたいぎでたまらないが、自分で起
きておかゆを炊き食べて見る。
無理にでも食べれぱ、何と次第に元気が出て来たのには、自分でも本当に驚
いた。 やはり食べ力は大した物と思う。
榮姉さんも体が優れずずっと休まれて居る。
此の度の様に私の体が悪くなっても、周囲は誰一人かばってくれる人も案じ
て来れる人もなく、ねて居るお母様と煕の事は私以外は親身に世話する人は
誰一人無い。
大家族の中に小さく暮らして居て天涯孤独な身の上の自分自身があわれでつ
くづく情けなく思う。
戦地へ行って居る主人の事を想へぱ、今にもうちくだけそうになる気持にむ
ち打って、元気で無事に帰って来てくれるまでは煕の成長を便りにがんばり
ぬこう。
   
 七月  十九日 米の配給日だがまだ体が良くなってなく、安民兄さんの娘さん滋ちゃんにお
願ひする。 ばれいしょ四日分、ソーメンニ日分つく。
 
 七月  二十日 雨降りだが醤油の配給日だ。
まだ私が病気上がりでとてもしんどいが誰も行って呉れる人無く、午後から
買いに行って来る。
 
 七月二十一日 煕の常用着の服を縫う。 人のモンペ裁つ。
 
 七月二十二日 ふとんの汚れたのをほどき洗濯をする。
午後一時お母さん熱を出し、急ぎ病院へ行って頼んで見たが、先生都合悪く
て来なかった。
 
 七月二十三日 良い天気、ふとんの糊つけをしたが又曇って困ったが、何とか晩方にかわく
みその配給で行って来た。
 
 七月二十四日 朝よりとてもひどい空襲があり、佐野の築港の船が爆撃を受けたとか、一日
中解除にはならなかった。
婦人会の常会二時よりあり久し振りに出席する。 煕を連れて行って来る
 
 七月二十五日 ふとんの敷布掛け五枚程する。
 
 七月二十六日 奥の間に置いてあった私使用のたんすを表の縁に運び、前の納屋の主人の本
棚を表の間に運び、自分の使用する物全部表の間にまとめる。
家族が大勢になった為、私等三人は表の間一間に限らせられる。
 
 七月二十七日 長太郎兄さんの上の子三人を裏座敷に住まわせる為、裏座敷の整理をする。
畳を上げて乾し、毎日毎日そうじにかかり切り。
久美子姉様は命令だけされ、奥様で何もしようともしないし、なにも出来な
い人。 女中如きに思って居る私に全部命令するだけ。
 
 七月二十八日 裏座敷のたたみを敷く。 本棚等置くのを手傳う。
 
 七月二十九日 毎日毎日艦載機の来襲には本当になやまされる。
 
 七月 三十日 煕の口の中が荒れ、此の間内より病院で見てもらい、今日も中島医院に行っ
て来る。
其の帰りに突然みかげ屋の前で敵機の機銃掃射を受け、乗って居た自転車を
のり捨ててこかし(注)、下原の傘屋さんへ逃げ込み、とてもこわくて言ひ
い様がない。
丁度、みかげ屋の下の浜で、傘屋が新しい雨傘をたくさん広げてほして居た
ので、そこが的で射って来たらしいとわかる。
夕方、桝田の松子姉様来られる。
 
 七月三十一日 いよいよ明日亡きお父様の火(灯)上げ法事をする日だ。
今日から色々と用意をする。
学校で佐野町出身の英霊の合同葬が施行せられ、隣保の内の平岡峰次さんも
軍属で行っておられて此方で病死され合同葬に加えられて居るので、十時よ
りの始まりに榮姉さんと私二人、隣保の人といっしょに出席して来た。
かへりに家の方の明日の火(灯)上げ灯籠を買って来る。
煕とお母様は松子姉様に見て頂く。


次へ続く

    平成16年3月発行 
    「銃後の妻の戦中日記」より転載  禁無断転載(著作権は平岡弥よい氏に帰属します。)
     ※(自費出版他発行分NO.129)
    copyright by yayoi hiraoka 2004


アイコン 次へ 昭和二十年八月へ
アイコン 戻る 昭和二十年六月へ アイコン 戻る 「銃後の妻の 戦中日記」目次へ
アイコン 戻る 戦争体験記の館へ アイコン 戻る 銃後体験記
アイコン 戻る 他の出版社一覧へ
アイコン 戻る 自費出版の館へ