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 「銃後の妻の 戦中日記」

全文掲載

これは著者の平岡弥よいさんがご自身の青春時代であった21〜25才の頃の
銃後の生活の様子及び終戦後のご主人復員の頃までを日記にて書き残したものを元に
平成16年まとめ、自費出版にて発行されたものです。

平岡弥よいさんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は平岡弥よいさんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

昭和二十年(二十三才) 五月               

昭和二十年  五月   一日 龍麿さんに電報で知らしてあれば、休暇が取れ午後帰って来る。
久し振りでなつかしく家中大かんげい。 長太郎兄様も来られる。
お母様容体落ちつき、一同一安心で明るい気持ちになる。
 
 五月   二日 桝田の松子姉様午後来られる。
輿隆寺タコの叔母様(母上の妹)も来られる。
 
 五月   三日 母上ずっと良くなり、また元通り元気になる。
桝田松子姉様便船があり帰られる。
 
 五月   四日 明日五日は煕の初節句の日で、チマキの葉を取って来てしょう蒲も用意し、
色々と準備する。
 
 五月   五日 煕の初節句で、色々と御馳走を作り、餅をこしらへて常々お世話になる所、
平岡、すま店、新宅、秋里、恒吉さん宅五軒へ配る。
お餅もたくさんこしらへ、龍麿さんも大喜びで食べる。
明日龍麿さん軍隊の方へ帰る準備をする。
 
 五月   六日 朝二時半より起き、龍麿さんの帰る支度をし、五時頃家を出られる。
お土産を持って元気に出発する。
お母様も容体が又落付かれ、安心出来皆で大喜ぴする。
 
 五月   七日 夕方後(ウシロ、秋里さん)へお風呂に入らせてもらいに行き、煕の頭のき
わぞりをして頂く。 とても顔がはっきりして可愛くなる。
 
 五月   八日 ヤイト場の畠に植えて居るジャガイモの手入れをする。
 
 五月   九日 前の畠と屋敷の中の畠の手入れをする。
ナスビの苗四〇本注文したが二十本しか来ぬ。
 
 五月   十日  お母様容体又悪き為外へ出られず、ほどき物をする。
広石の亡母の長襦絆(モス地)をほどき、むし穴をつぎ当てする。
 
 五月  十一日 昨夜大雨が振り、作り物に好都合だった、
お母様又良い方に向ひ、大丈夫らしき様子で何より。
 
 五月  十二日 今日もお母様のそぱに居て煕の着物を縫う。
 
 五月  十三日 モス地の一つ身着物、昨夜より二枚仕上げる。
 
 五月  十四日 清水のおば様にお願ひして手傳って頂き、二人で一日中草引きをし、大畠と
開きを片付ける。
 
 五月  十五日 今日も草引きをする筈で清水のおぱ様にお願ひしてあったが、朝より雨日和
になり、とうとう外へは出られなかった。
安民兄さんの息子さん通君が「はしか」らしくて床につく。
長太郎兄さんの方の子供さん、皆治って床をはなれる。
 
 五月  十六日 醤油の配給日なり。
榮姉様通さんに掛かり切りで此方本家の方へは全然出て来られず、皆の炊事
世帯だけでも大変いそがしい。
 
 五月  十七日 煕の初節句に写す筈の写真が延びて居て、今日写真屋さんが来て下さり、座
敷にて煕の一人写しと、外に出てベビー服に帽子をかぶせて安民兄さんの娘
さんひろ子さんと二人並んで写す。
 
 五月  十八日 此の間よりみかん畠の草引き、雨が良く降る為今日まで出来ず、今日清水の
おぱさんと嫁さんと二人で来て下さる。
通君のはしかの為、私お母様の看病からはなれらず、草引きには行けなかっ
た。ヨモギの割当が来て、夕方取り歩く。
   
 五月  十九日 今日も草引きたのめば、雨気にて来て頂けず。
米の配給日で精米所へよってついて頂く。 モンペ一枚縫う。
 
 五月  二十日 雨天で外に出られず縫物をする。 モンペのつぎ当てする。
 
 五月二十一日 午前中草引きに行ったが、雨漬くでまだ畠は草引きしにくい。
おひる前に帰る。
午後より薬師行きの道造りに出る。 下の隣保の人達がたくさん行っておら
れる。 夕方又雨になり四時過ぎに止まる。
 
 五月二十二日 雨の為一日縫物する。
 
 五月二十三日 道造りに出て呉れと云はれ、榮姉さんと二人で出る。
女の人達がたくさん行っていて、八時より四時頃まで仕事して来る。
道も大分出来上がる 。薬師行きの道此の前から拡張して居る。
 
 五月二十四日 朝突然思ひつき、広石へ例の件(ヤミ米買い)で行って来る。
煕を見てもらって、八時頃家を出て行けば、近所で借りた自転車鮎原でパン
クし、仕方なく歩いて十時頃広石に着く。
広石の自転車屋でパンク張って頂き二時頃広石に家出る。
大町の入り口で又パンクし本当に困った。
子供を置いて来て居るので気が気でないが、自転車に荷物を一杯積んだのを
ついて歩くしか方法がない。
途中で自転車屋毎に頼んで見たが駄目で、とうとう生穂まで自転車ついて歩
き、やうやく生穂でパンク張りしてもらい、日暮れになって家へ着く。
家では私の帰りがおそいので大変心配して大さわぎし、警察に捕まったので
はなからうかとの事で、心配さして申し訳ないが自転車のパンクの往復だっ
たので仕方なかった。
煕を皆で見て頂いて居たものの可愛相でならなかった。
もうこれでこりごりするが、私は大家族の食糧をこしらへる為に頼まれてし
た事だ。
 
 五月二十五日 榮姉様の釜口の親籍に死人が出来て、姉様行かれる。
 
 五月二十六日 榮姉様今日も帰られず。簡単服一枚縫う。
 
 五月二十七日 安民兄様船で今朝早く尼崎へ行かれる。
夕方榮姉様釜口から帰って来る。
 
 五月二十八日 モンペ一枚縫う。精米所で麦をついて来る。
 
 五月二十九日 縫物をする。 曇り日和になったのでヤイト場へ南京の苗二十本程植える。
 五月  三十日 朝九時頃、長太郎兄さん来られる。 晩おそく安民兄さん帰って来る。
手に少し傷が出来て居たので、今日は畠へ出るのは止める。
 五月三十一日 前の畠の草けづりする。今日は今まで始めての暑さがする。


次へ続く

    平成16年3月発行 
    「銃後の妻の戦中日記」より転載  禁無断転載(著作権は平岡弥よい氏に帰属します。)
     ※(自費出版他発行分NO.129)
    copyright by yayoi hiraoka 2004


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