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「銃後の妻の 戦中日記」 全文掲載 |
これは著者の平岡弥よいさんがご自身の青春時代であった21〜25才の頃の
銃後の生活の様子及び終戦後のご主人復員の頃までを日記にて書き残したものを元に
平成16年まとめ、自費出版にて発行されたものです。
昭和二十年(二十三才) 四月
昭和二十年 | 四月 一日 | 昨日より大阪からの疎開の荷物今日中で大分片付いたが、余りにも多い為ま だ少しのこる。 大家族に合流した生活も三日目、私は炊事やら色々と女中同様だが、畠の方 は私の仕事で誰も何の助けもして呉れない。 勿論何ら期待もして居ないが、私の体は大家族の炊事とお母様のお世話は勿 論、与へられる仕事は大変大きくなる一方だ。 でもがんぱらなくてはならない。 農会より注文のみかん三十〆切る。 |
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四月 二日 | 明日供出のみかん五十〆取る。 姉さん二人、興隆寺の叔母さんのお家へ、此方へ帰って来た御挨拶に言って 来られ、晩方帰った。 |
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四月 三日 | 昨日より思ひつき、色々の気づかれの気分てんかんに、今日がお祭りの高倉 山へ煕を連れてお礼まいりして来る(煕出産の時に安産をお願ひして居た) 事になり、朝の仕事を片付けて急いで八時頃家を出発し、志筑より九時半初 の自動車に乗らうと思へば、四月一日より変行(変更)になり八時半に変わ り出発して居た後になり、仕方なく大町の高倉山まで歩いた。 丁度道連れの人があり良かった。 長い道のりで子供を背追って歩くのは大変だった。 高倉山へおまいりし、それから上のお山へも上りおまいりしようかと思って 見たが、煕を連れてはとても大変なので、下の神杜でよくお礼を申しておま いりする。 それから広石まで又歩いて行く。 三時半頃に着き、本当に志筑から高倉山まで、そして広石まで何も食べず何 も飲まずにつかれ切って広石へ着きかねて、皐速床に入りねた。 夕方弟務も会杜の休暇で帰って来て、久し振りに一同揃った。 |
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四月 四日 | 今日お昼までに佐野へ帰る筈であったが、あまりのつかれ様に大変故、広石 午後四時半出発の自動車で帰る。 夕方割方早く着く。 |
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四月 五日 | みかん取りでいそがしく光子さんに手傳って頂く。 弟務が広石よりみかんをもらひに来て、持って帰らす。 |
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四月 六日 | 明日午後みかん供出二百〆割当てになりいそがしく、光子さんや後の人に手 傳って頂く。 |
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四月 七日 | 供出のみかん二百〆の割当てだが百五十〆程しか取れず、午後下の上(平岡 庄次郎様)の人に持って行って頂く。 午後光子さんが手傳って下さり、百 〆程こしらへる。 |
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四月 八日 | 雨降り日和なり。 昨日みかん出し終わって居て、丁度雨降りで休む事が出来てよかった。 お父様のお墓まいりに行って来る。 午後平岡様宅へお伺ひすると、丁度来 客の様ですぐ帰る。 |
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四月 九日 | 昨日より急に目が悪くなり、まばゆくて涙が出て目を明けられない状態で気 持悪くなり、煕も同様に目が赤くなり、午後より二人床に着く。 思ひ当たるのは、高倉山まで、それから広石まで歩いて行って来た折に紫外 線にやられて二人供目が悪くなったのかと思う。 |
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四月 十一日 | 龍麿さんよりことづけが届き、近い内に何処かへ出発するらしき様子で、一 度面会に来て欲しいとの事。 私も是非一度面会に行き度く思っては見たが、昨日まで床に着いて居たこの 体ではとても行かれず、姉様達二人にお願ひし十時頃出発して行って頂く。 |
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四月 十二日 | 長太郎兄さん昨日より岩屋から歩いて来て、仮屋で泊まって居たのだとの事 で、今朝早くに家に来られたが、丁度姉さん(面会に行った)と行違ひにな り、帰って来るまで待って居やうとの事である。 安民兄様昨夜おそく帰られ、今日志筑に置いてある船の荷上げに行かれる。 |
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四月 十三日 | お陰で私も煕も目が悪かったのがうんと良くなり本当に嬉しい限り。 今日帰って来られるだらうと思って居た姉様二人は帰られなかった。 此の間内より、二軒の子供達のけんかや争ひ事の整理にはほとほと困り果て る。十人も子供が居て、思ひ思ひに好き放題仕放題には、私には手のつけ 様がなく、なやみの種となる。 |
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四月 十四日 | 今日もとうとう二人の姉様は帰って来なかった。 | |||
四月 十五日 | 長太郎兄さん、とうとう待ち切れなくなって、今朝の汽船に乗り大阪へ帰ら れる。丁度行違ひに姉さん(久美子姉さん)帰って来た。 榮姉さんは後に残られたとか。 |
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四月 十六日 | 正午、榮姉さん帰って来た。 秋里のはなれの部屋に住んで居る新宅の恒吉さん宅のおば様(広石の母と同 じ年)が、前々から煕を可愛がって良く面倒見てくれるので、煕も喜んで孫 の様にしてよく見て頂くので、大助かり。 今日も頼んで子守りして頂く。 私には一番安心してあづけられ、仕事にはげまれる。大助かりだ。 |
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四月 十七日 | 一日中煕を恒吉さん宅へあづけて見て頂く。 明日供出のみかん取りをする。 |
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四月 十八日 | 明日の米の配給が今日になる。 榮姉さんと二人で行って来る。 八幡様へお参りし、帰りに精米所で米をついて頂く。 |
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四月 十九日 | 朝より大雨降り。 榮姉様、志筑の田井(古い親籍)へ行かれ晩にかへる。 一日 ほどき物やつぎ当する。 |
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四月 二十日 | 醤油の配給が遅れて居て今日頂く。 雨降りの次の日で外に出られず、家の中の仕事する。 |
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四月二十一日 | 多賀村の伊ざ諾神杜で出征軍人の武運長久祈願祭が催され、招待を受け、十 九、二十、二十一の内なので今日お参りする。 榮姉さんと恒吉さんのおばさんと煕と四人でお参りし、主人と龍麿さんと二 人の武運長久祈願をお願いして、午後より拝んで頂く。 乗物が大勢の人で往復共乗る事出来ず歩いたので、十一時大祭典の間に合は ず、午後より二人の分を拝んでもらい、帰りはぼちぼちとゆっくりと歩く。 久方振りに神前にぬかづき、身も心もひきしまる思ひがして、新らたかな気 持で帰る。 志筑で色々と買物し、煕の初節句に上げる鯉のぼりを榮姉様にお祝ひに買っ て頂く。 佐野の学校前で自動車を下りたら、広石で一學年上だった平田綾子さんにひ ょっこりお会ひし、なつかしくてしばらくお話しする。 お目出度の様子で近々らしい。 晩六時頃平岡様宅へ寄せて頂く。 大変御馳走して下さり、午後九時頃まで おじやまする。 月夜で気持ちよかった。 |
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四月二十二日 |
昨日、外の兄弟達より、とんでも無いうたがいを私にかけて居られるとの事 が耳に入り、今日、お母様の前で其の点明らかにする為皆に話したり聞いて 頂く。 むかむかと腹が立って居たのがさぱけてサッパリする。 (なにか理由を書いてなくてわからないが、多分お母様のお金の事ででもう たがわれたのだと思ふ) 午後尼崎より船が帰り、其の荷上げを手傳ひ、晩までかかる。 |
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四月二十三日 | 暮らした日を思へば早い物、昨年の今日主人に召集令状が来て早丸一年とは 申しても、私には多事多難の長い一年、振り返る余裕もない。 今何処の地に居るかはわからないが、どうか無事で活躍して居て下さる様、 神かけて祈らずには居られない。 思へぱ随分前から便りを手にする事は出来なくなった。 此方から出したのも果たして向こうへ届いて居るのだらうかと考へる。 |
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四月二十四日 | 昨日より麦の手入れにかかり今日漸く済ます。 明日より畠の草引きにかからう。 |
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四月二十五日 | 午前中洗濯を済ませ、午後から三時間程ヤイト場の草引きをする。 広石からもらって来た毛糸の洗濯をする。 |
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四月二十六日 | 午前中色々と仕事を済ませ、午後草引き。 | |||
四月二十七日 | 夏ミカンの残りをきってしまい、明日市場に出す用意をする。 午後より畠の草引きをする。 |
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四月二十八日 | 一日中草引き。 | |||
四月二十九日 | 昨日よりひょっと思ひつき、煕を置いて広石へ行って来る。(注) 自転車を借りて九時頃家を出発、八幡様の前まで行けば鳥飼の真柴さんが私 宅へ来て下さって居るのに丁度出会ひ、家へもどらうかと思ったが、煕を置 いて来て居るので急いで居るので、真柴さんに出直して頂く。 志筑まで自転車でいっしょに行く。 十一時半広石に着き、昼食を頂き用件をすまし、急いで広石を出発が一時半 頃になる。 子供の事が気になり大急ぎで帰り、泣いて居る煕にすぐお乳をのます。 自転車で広石へ一人で往復して来て大変な冒険だった。 |
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四月 三十日 | お母様の容体が変わって来たので、皆に電報を打ち知らす 昨夜が一番危険であったが又持ち直し一安心。 |
次へ続く
平成16年3月発行
「銃後の妻の戦中日記」より転載 禁無断転載(著作権は平岡弥よい氏に帰属します。)
※(自費出版他発行分NO.129)
copyright by yayoi hiraoka 2004
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