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 「銃後の妻の 戦中日記」

全文掲載

これは著者の平岡弥よいさんがご自身の青春時代であった21〜25才の頃の
銃後の生活の様子及び終戦後のご主人復員の頃までを日記にて書き残したものを元に
平成16年まとめ、自費出版にて発行されたものです。

平岡弥よいさんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は平岡弥よいさんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

昭和二十年(二十三才) 三月               

昭和二十年  三月   一日 みかん七、八十〆程切り取ったが、午後より農会から取りに来てくれる筈だ
が、とうとう晩まで来なかった。
吉谷のゆうご君も、昨日釜口の吉谷へ行って居て、今目昼かへって来る。
なによりだったと一同喜ぶ。
お母様、又午後より容体悪くなり、方々へ電報を打ち知らす。どうか早く
良くなってもらい度い。
 
 三月   二日 朝より雨降りとなり。昨日農会よりみかん取りに来なかった為、どの様にな
ったのか農会へ聞きに行く。
船の都合により近々取りに来てくれるとの事、取ってこしらへたみかんをそ
れまで置く事にする。
榮姉さん歯医者さんへ行き二時頃帰って来る。
お母様容体気になり出来る限り見て上げる。
在郷軍人会より出征軍人・入営軍人の住所及び部隊名外色々とした事を調べ
に来てくれる。 一日中雨が降り続き、夜ひどく降る。
 
 三月   三日 雨もからりと止んで今日は良い天気になった。
午後、安民兄さん朝鮮へ返す人送って行って来て、今日帰って来る。
長太郎兄様もお母様の容体見に来られた。
 
 三月   四日 米の配給日で行って来る。
お母様も今日は大分良くなられ、長太郎兄さんも夕方大阪へ帰られる。
 
 三月   五日 明日の供出のみかん取る。 此の間農会よりの注文のみかん百〆を今日取り
に来て下さる。 假屋へ来て居る学童疎開への分らしい。
 三月   六日 昨夜より雨が降り今朝あがる。
落みかん二十〆程市場へ持って行き、帰ってから供出のみかん七俵こしらへ
十一時頃出しかけたら船が出なくて又明日となる。
都志の季雄叔父さん(私の父の末の弟)が薬をもって来て下さる。
お母様も大分良くなり、煕も良くなって来て本当に嬉しい。
 
 三月   七日 みかん三俵(三十〆)を切り、十俵を肥船につむ。
安民兄さんと榮姉さん沖へ行って、魚一匹取って来てお母様に食べさして頂
く。
 
 三月   八日 大詔奉戴日で国民学校の生徒は早起きにて学校に行く。
ナルトニ十六〆を市場へ持って行く。 配給の湯上げタオル買って来る。
前の畠の枯れたナルトの木二本を切り倒す。 其の後ヘジャガイモを植える
段取をする。
正午、正三兄さんが来られ晩方帰られる。
おもちをこしらへる。
榮姉様、正三兄様をとても優ぐうする。 他の兄弟達とは差をつけて居なさ
る様に私はひそかに感じてならない。
主人の兄弟は今八人(女一人松子姉様)で、主人は七男で家を守って行く立
場になって居る為、私が嫁に来た其の日から中風で十二年ねて居るお母様の
お世話一切をしなければならないのだ。
兄さん達は其の点良く理解され、出征中の留守番して親の病気のお世話して
居る私に暖かく見守って居てくれるのだが、どの方も揃って人並以上に優れ
た頭脳の持主ばかり、年若く何事も未熟な私には兄弟の方達への對応に戸ま
どうばかり。
 
 三月   九日 榮姉さん歯医者へ行く。
ジャガイモ植をする。明日龍麿さんに面会に行くこしらへをする(姉さん
達が行く為)
 
 三月   十日  安民兄さんと姉さん二人連れで龍麿さんに面会に行く為、朝七時頃家を出ら
れる。
午後より、明日昼までの供出のみかんを切らねばならない。
清水のおばさんに手傳って頂き七俵こしらへる。
 
 三月  十一日 みかん十二俵こしらへ音吉さんに汽船場まで運んで頂く。
午後落ミカンを拾う。
清吾兄様来られる。 油のチケット頂く。
 
 三月  十二日 落ちみかん三十〆を市場に持って行く。
山田哲三様、兄さんの船を見に来られたが、丁度留守だったのでお帰りにな
る。
清吾兄様昨日より割木割りをして下さる。
午後五時頃、安民兄さん夫婦帰って来られた。
 
 三月  十三日 午前中、屋敷のまわりとヤイト場の畠の空いて屠る所ヘジャガイモを植える
午後より浜の畠で肥を汲み、かけてまわる。 これで漸く急ぐ仕事が一段落
して気分が落付く。
清吾兄様夕方帰られた。 都合で明日広石へ行こう。
 
 三月  十四日 小雨模様の日和だが、思ひ切って今日広石へ行く事にする。
お母様の事を姉さんにお願ひする。
安民兄さんが朝鮮からとても沢山のスルメイカの干したのを仕入れて来て、
此方で賣り裁いたり、使い物(方々へ)にして居なさるので、其れを賣って
もらって広石へ私の土産にする。
(朝鮮から帰られてから方々ヘイカをたくさん上げ回って居られ、門(カ
ド)でたくさん干してもいるが、私達には只の一枚たりとも頂けなく、私は
お母さんと子供と三人だからスルメイカの一枚もほしいとは思はないが、あ
まりの仕内にあきれて言葉もないが、決して私は口にも顔にも出してはいな
い。 広石へ持って行くのも金で買った。
正午に家を出て都合よく自動車に乗れ、志筑より広石行き三時三十分の自動
車に乗り四時過ぎ広石に着く。
父も妹も丁度在宅だった。 喜んで迎へられる。
昨夜中とてもはげしく敵の大編隊が来襲、広石の隣の鮎原村の西村の四軒に
焼湊弾が落ちて丸焼けとなる。
 
 三月  十五日 やはり小雨模様の一日。
 
 三月  十六日 広石で友達が大勢集まって来られて、色々と楽しくお話が出来てとても気晴
しになった。
 
 三月  十七日 煕を連れて母の墓参り(昭和十八年九月十七日亡)をする。
初孫を連れてのおまいりが出来て、母も地下で喜んで見てくれてるだろう。
近くの空の叔父さん宅(父の里で父の弟)へより、私のおぱあさん達のお佛
壇にもおがまして頂く。
午後よりひきうすで米の粉をひく。
 
 三月  十八日 今日帰る筈に思って居たがとうとう帰られなかった。
晩に佐野への土産のお餅をこしらへる。
夕方友達が来て妹と三人で色々とお話しする。
家のお母さんの方は姉さん達に見てもらって居るので、久し振りの里帰りが
出来た。
   
 三月  十九日 広石を十時出発の自動車で帰る。
都合よく志筑でも乗れて、一時前に佐野の家に帰れた。
妹が荷物持ちして家まで送って来てくれ有難かった。
 
 三月  二十日 小雨模様の天気なり。
榮姉さん、私が広石へ行って居る間のお母様のお世話が大変で、つかれが出
られ、体がすぐれずとかでねられる。
夕方平岡さん宅ヘスルメイカを持ってよせて頂く。
 
 三月二十一日 二十三日供出のみかん百三十〆を今日よりぼちぼち取り始める。
栄姉様、今日は子供を連れて釜口へ行かれる。
 
 三月二十二日 明日は亡くなったお父様の初彼岸なので、親戚の人を招待しておまいりして
もらうので、栄姉さん今日よりこしらへをして下さる。
私はみかん取り、三時頃百三十〆取れたのでそれから帰って家の方を手傳う
 
 三月二十三日 新宅の音吉さんにナルトミカンを青物市場まで持って行って頂く。百四十
〆あった。
正午より、新宅の音吉さん、恒吉さん、片岡さん、釜口の方がおまいりに来
て下さる。進太郎さんも前から来て居た。
 
 三月二十四日 安民兄さん夫婦釜口のお墓まいりに行かれる。 進太郎さん夕方帰る。
すま店へ煕を連れてお喜ぴに行って来る。
西殿さん、音田さんへみかんを持ってお礼に行って来る。
 
 三月二十五日 興隆寺のタコの叔母さん宅からジャガイモの種を頂き、屋敷のまわりやヤイ
ト場の畠に植える。 サツマ芋の種も納屋の窓の所に伏せる。
 
 三月二十六日 昨日長太郎兄様より安民兄様に便りあり、長太郎兄さんの家族と家財道具疎
開するから至急船をまわして積みに来る様に言って来られたとの事。
今朝十時頃安民兄様夫婦二人船を持って大阪へ行かれる。
亡くなったお父様が今おられたら、とても家へ長太郎兄様は帰っては来ぬと
の約束があったとの事は私も重ね重ね聞いていたが、お父様が居なくなった
らすぐに次々と大家族が疎開を立前(建前)にして家に入つて来られるとは
 
 三月二十七日 私には実にふにおちない思いがする。 たくさんの洗濯をする。
ジャガイモの残り植える。 みかん少々切る。
夕方配給物(石けん、足袋、マッチ等)
 
 三月二十八日 朝市場へみかん三十〆余りを車で引いて行く。
今日は晩までみかん取りでとてもとてもいそがしかった。
夕方電気屋さんが来て、二、三日前よりこわれて居る電気を直して頂く。
 
 三月二十九日 昨日帰って来る予定になって居た安民兄さん達夫婦は今日もまだ帰らない。
子供達の喧嘩には本当に困る。姉妹二人とも機嫌のいいときは良く煕の相手
をしてくれるが、両親が居ないときの喧嘩はすごい物だ。
いっしょに暮らす私が苦笑ひして居るのを知っておられるのだらうか。
今目も午前中みかん切りする。 午後二時頃より小雨模様になる。
 三月 三十日 一日みかん取りをする。
今日も兄さん達が帰って来られないのかと思って居たら、晩八時頃船で長太
郎兄様宅の家族、姉さんと子供三人と迎へに行つた安民兄様夫婦と六人が、
下に船を置き家へ入られて来た。
戦争が激しくなって大阪におられず、疎開して来たのだ。
自分の家だから何の遠りょも必要なしとの御様子で、其の態度に私は又小さ
く低くなる感じ。
 三月三十一日 朝早くより船に積んで来た長太郎兄様宅の家財道具を牛車で上げて来て、倉
やら裏座敷、奥の間に入れ、家中一杯。
午後割り木の配給あり晩までかかる。
いよいよ今日から大家族十五人の世帯が始まる。とてもとてもにぎやかだ
が、ますます私達三人は小さくなって暮らさねばならない。
兄嫁さん達に取って、年の離れた弟嫁は女中以上にはうつらないらしい。


次へ続く

    平成16年3月発行 
    「銃後の妻の戦中日記」より転載  禁無断転載(著作権は平岡弥よい氏に帰属します。)
     ※(自費出版他発行分NO.129)
    copyright by yayoi hiraoka 2004


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