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「銃後の妻の 戦中日記」 全文掲載 |
これは著者の平岡弥よいさんがご自身の青春時代であった21〜25才の頃の
銃後の生活の様子及び終戦後のご主人復員の頃までを日記にて書き残したものを元に
平成16年まとめ、自費出版にて発行されたものです。
昭和二十年(二十三才) 二月
昭和二十年 | 二月 一日 | ふとんを乾し洗濯をする。 曇り日和で夕方より雨になる。 | ||
二月 二日 | 十八年度の衣料切符を大上へ持って行く。 アルミ八十匁と鉄四○○匁の供出が割当てられる。 アルミのなべと鉄くづを出す。 龍麿さんから速達で便りあり「食べ物を送って欲しい」との事、とてもとて も苦労なされて居る様子、早速色々とつもりをするが、今日は出せない。 すま店でセンベイを焼く道具を借りて来て、夜なべにセンベイを焼く。す ま店の嫁さんと子供さんが風邪を引いて休んで居たので、お見舞いに行って 来る。 龍麿さんが、朝鮮の安民兄さんの所ヘスルメを頼んで欲しいとの事、 早速電報を打ちお願ひする。 |
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二月 三日 | 節分なり 午前中 龍麿さんの慰間袋に入れる物、焼き芋、いり豆をこしらへる。 昼休みにみかん、くつ下、糸の配給ある。 夕方 節分の豆をいり豆まきをする。 主人、龍麿さん、お母さん、煕と私と五人の年の数の豆をかぞえて別々にこ しらへる。 夜なべに小包みこしらへる。 八時半頃ねる。 |
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二月 四日 | 米の配給を受けに行く。 龍麿さんへの小包を局から送る。 午後二時頃又空襲があり、阪神方面へ爆撃したらしい。 どうか被害が少ない様に祈る。 |
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二月 五日 | 二、三日前から、今年になって一番寒い日和だ。 昨夜鶏が一羽見えなくなつて心配していたが、今朝何処からか出て来て本当 に嬉しい。 煕を背負うのに背負い帯をこしらへて縫う。 |
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二月 六日 | サツマ芋がくさりかけたので、残り全部茄でて乾す 療養所へ行き煕の薬もらって来る。 |
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二月 七日 | うどんの配給を受けに行って来る。 午後より雪が降り出し積って来る。 三時半頃、朝鮮から引き上げて来た安民兄さんの家族、榮姉さんと子供さん 達六人とで七人が先に着いた。 安民兄さんは朝鮮から自分の船で家財道具等積んで後から来て居るとか。 覚悟はして居たものの、一度に大家族がふえて一緒に生活しなければならな い現状になってしまった。 病気のお母様は一ぺんに朗らかになり大喜びな さる。 |
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二月 八日 | 栄姉さん早速学校や役場へ転出してきた届出に行かれる 平岡峰次さんの三十五日法要によばれておまいりしてくる。 二時半帰る。 米の配給もらって来る。 |
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二月 九日 | 朝鮮から引き上げて来た栄姉さん、今日は志筑の学校へ行かれ、午後帰られ てから私もいっしょにお父様のお墓まいりして来る。 |
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二月 十日 | 栄姉さん、釜口の吉谷(姉さんの義兄)さんへ行かれる。 午後、広石より妹がおこわ(赤飯)をこしらへて持って来てくれる。。 煕の誕生祝として私の里から此方の親戚へおくばりするのを持って来てくれ、 平岡様、片岡、タコ、スマ店他近所五軒へ配る。 広石から来た妹も、聞いて知っては居たのだが、大家族にふくれ上がって居 るのには大へん驚く。 |
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二月 十一日 | 栄姉さん、志筑の女学校へ滋子さんと二人で行かれ十二時かへつて来る。 広石に妹十一時頃帰る。 煕のだき袋をこしらへる。前の畠に植えてあるそら豆に肥をになってかける |
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二月 十二日 | 今日は栄姉さん家に居て下さり、私は畠の麦や豆類に肥(下肥)かけをする | |||
二月 十三日 | 栄姉さん、今日は滋子さんを連れて女学校へ試験(入学)を受けに行かれ、 正午かへって来る。 午後より前の畠、上の瀬の畠の野菜物に肥かけする。 |
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二月 十四日 | 滋子さん今日から女学校へ通う事になり、朝早く起きて朝食の用意をせねぱ ならぬ。 午前中前の畠のみかんの木に下肥をかつぎ出してかける。 午後より家に居る。 |
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二月 十五日 | 昨夜より風邪気味で起きれず朝おそくまでねる。 起きてみたが頭が痛くて仕方ない。 午後より役場へ行って来る。 |
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二月 十六日 | 醤油の配給受けに行って来る。 小麦の粉を引きに小麦一斗持って行く。 煕の生まれた時の産湯を使って居た写真出来て来る。 信用組合へよって久の名儀に書きかへる。 午後姉さん釜口へ行く。 突然に都志の季松叔父さんが訪ねて来て下さる。 志筑へ来て居るとの事だ が、大勢の家族が居るのでびっくりし、すぐに帰られる。 |
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二月 十七日 | 風邪気味で昼までねる。 午後より起きて煕のたぴ(足袋)を編む。 午後五時頃、朝鮮より帰って来た安民兄さんの乗って来た船が着く。 長い航海を無事に着いて何よりだった。 丁度同じ時刻に長太郎兄さんが来られ、晩に色々とおそくまでお話しする。 |
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二月 十八日 | 船から家財道具他の荷物沢山で、新宅の音吉さんに頼み牛車で家まで上げて 来てもらう。 照の風邪中々良くならず、お医者さんを迎へて診てもらう。 湿布をする様 に言はれ、晩にからし湿布をする。 お宮様へ日参まいりする。 |
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二月 十九日 | 昨日、桝田の姉様二時の汽船に乗って来られ、今日午後四時半にかへられる 長太郎兄さんは朝大阪へ帰られる。 |
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二月 二十日 | 煕の風邪引きまだなおらぬ為、部屋を暖め湯をわかして湯気で部屋一杯にし てねかしていたら大分良くなった様だ。 榮姉さんと息子さんの通さんも風邪引きの為ねておられる。 |
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二月二十一日 | 此の間内より二、三日暖かかったが、今日は又寒い一日。 榮姉さんと通さんもまだ良くならずねて居る。 煕も少しは良くなったが、どうか一時も早く全快してもらいたい。 午後、正三兄さん久方振少に来られる。 |
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二月二十二日 | 榮姉様今日は良くなられ、正三兄さんにお寿しやお餅をこしらへてもてなさ れる。 私への当て付けがましい態度に一寸感じさせられる。 正三兄様四時半の汽船で帰られる。 煕、夕方に一寸けいれんの様な事をおこし大変鷲いたがすぐになほる。 |
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二月二十三日 | 安民兄さん夫婦で釜口へ行かれる。 明日ナルトの供出日なり。 数量に制限なし、急ぎ切取る実が多い為、善七 さん(平岡性治様宅)のツルエ様に午後より手傳って頂き実を取る。 農会より急に三十〆程五時までに市場に出す様にとの事、少し良いのを選び 三十七〆五百出す。 |
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二月二十四日 | みかんの供出十〆入りの俵十六俵こしらへ、正午新宅の音吉さんに頼み築港 まで持って行って頂く。 午後満兄様と一範さんが来る。 次々と兄さん達が大勢入れ変わり立ちかわり来て下さるが、応對とまかない にくたびれる。 でもそんな事不満の一言も絶對口にも顔にも出せない。 今の私の立場は誰にもわかっては頂けない。 郵便局へ行き、主人の所へ煕の写真送りに行く。 此の頃の私は、郵便局へ便り出しに行けるのが一番の生きがひだ。 |
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二月二十五日 | 朝より雪が降りかけ、一日中降り通しとても近年にない大雪だ。 | |||
二月二十六日 | からりと晴れて良い天気になり、満兄様も朝七時姫路へ帰られる。 安民兄様、午後から、朝鮮から船でいっしょに乗って来てもらった朝鮮の人 を朝鮮へ帰す為送って行く。 |
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二月二十七日 | 良い天気になり、ねて居るお母様一寸体の様子悪くなり、今日お医者様を迎 へて診て頂いたら風邪引きとの事、エキホスの湿布をする。 お薬も頂いて来て飲ます。 いくら大勢の家族で一しょに暮らして居ても、ねて居るお母様の看病の全部 は私の役目だぞ、と家内中兄弟中からは無言の圧カをひしひしと感じる。 毎日、何か落度があったらと皆からの厳しい目が光って居る。 それでも私は主人の出征中の留守番を勢一杯がんぱって、寝て居るお母様の お世話も出来得る限り親身になってさして頂く覧悟は出来て居る。 それが私自身の為だと自分をはげます。 |
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二月二十八日 | 暖かくて良い天気だ。 夕方農会より、明日までにナルト百〆切ってほしいとの事で切りかければ、 お母様の体の具合又悪くなり、お医者さんを迎へ注射して頂く。 晩方、吉谷の子供さん(榮姉さんのおいで、安民兄さんの家で暮らして大き くなって居る)が出て行ったまま帰って来なく、大騒動で近所の人達も皆さ がして下さるがまだ帰って来ない。 |
次へ続く
平成16年3月発行
「銃後の妻の戦中日記」より転載 禁無断転載(著作権は平岡弥よい氏に帰属します。)
※(自費出版他発行分NO.129)
copyright by yayoi hiraoka 2004
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