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『愛の灯』
富士宮市内野五 平石敏 さんの戦争体験記
全文紹介


 平和と繁栄の中にあって目まぐるしい経済の成長を遂げつつある大国日本の、その背景にある過去 の歴史を忘れることはできません。

 忘れようとしても忘れることのできない、あの恐ろしい昭和二十年三月の東京大空襲。思い出して も身の毛がよだつ、無残な、そして残酷な限りでありました。

 五十年前の過去があったればこそ、生き永らえた今日の、自分が存在するのであります。当時の模 様は今でも、ありありと、あたかも昨日のできごとであるかのように、脳裏に焼き付いて離れないの は何故でしょうか。

 恐怖におののき震え、不安と、狂乱と、驚愕の限りを極めた数時間の死との戦い。これを克服し、 命ある者のみが知る、空前絶後の、戦災体験者の心の奥深くに刻み込まれ残された、生涯消すことの できない大きな心の傷跡。

 あの空襲によつて、 一夜にして奪い去られた、十有余万人の尊い人の命。犠牲となった方々の、心 からの冥福をお祈りするとともに「再び起こしてはならない、人道無視の戦争」二度と繰り返して はならない残虐無残な生活の破壊」声を大にして全人類に対し、心から訴えるものであります。

 そうです。あの日は昭和二十年三月九日の午後十一時三十分頃だった。周囲の騒がしい物音に目を さまし、窓を開けてびっくりした。錦糸町方面の夜空が真赤に燃え上がっている。

 私の住んでいたのは城東区亀戸町六丁目一〇九番地。亀戸消防署の向い側で、細い露地を少し入っ た処の二階を、友達と二人で借りて住んでいた。当時下町一帯は平屋建てが多く、二階から眺めると 夜空を焦がす紅蓮の炎は何にたとえたら良いのか、すさまじささえ感じさせるのだった。

 驚いたことは、毎日一回は必ず訪れる定期便の米軍の巨大な空飛ぶ要塞B29が、今までに見たこと もない超低空で、探照燈に照らし出された不気味な姿を空一杯に広げていたことである。この異様な 情景を目のあたりにした私は、「これは大変だ。今夜はどんなことになるかわからない」と思い、自 分の身の周り品をまとめて、避難するための身支度を整え外へ出た。近所の人達もみんな様々な格好 をして、不安げな表情で寒さに震えながら、これからの成り行きを話し合っている。

 もう恐らく時計の針は、午前零時を回り、三月十日の朝を告げているであろうつ。見上げる東京の空 一面に、B29があっちにも、こっちにも、あたかも怪鳥が群れ飛ぶかのように、我がもの顔に、自由 気ままに、高度二千メートルか三千メートルの低空飛行を続け、あの巨大な化物が探照燈に照らし出 され、悠々と旋回飛行を続けている。いつもは、日本軍の飛行機も、B29と比較すると小さいおもちゃ みたいに見えながらも、けなげに空中戦を展開していたのに、あの夜はどうしたのだろう、 一機すら その姿を見せはしなかった。亀戸より少し東の方の小岩の高射砲陣地から、何門か知れないが沢山の 数の砲撃音が聞こえた。いつもは米軍の飛行機の一機や二機は火を吹いて撃墜しているのに、今日は 音ばっかりで一機も落とすことはできない。

 私達には何をする術があるというのだろう。鉄兜をかむり、ゲートルを巻いて身支度は一応整って いるけれど、手にする武器弾薬は何もない。そこいら辺に転がっている石ころでも掴んで、空飛ぶ飛 行機目がけて投げつけてやりたい心の衝動に駆られ、歯ぎしりし地団駄踏んで口惜しがってみてもど うしようもない非戦闘員の情けなさ。小岩の高射砲も何時の間にか音がしなくなった。

 火の手は広い東京の各所にあがり、まだまだ空襲は繰り返し、入れ替り立ち替りその激しさを加え ている。今夜の空襲は今までのような数少ない飛行機での部分的な爆撃とは違っている。米軍も今夜 は根性を据えて、徹底して東京を丸焼けにする大規模な体制をとっているようだ。これはとんでもな いことになりそうだと何だか不吉な予感がする。

 当夜の戦術は、先ず照明弾を落とす。灯りの消えた真暗間の東京の夜空が、 一瞬何万燭光かの光の 中で真昼のように煌煌と照らし出され、針を落してもわかる程のびっくり仰天の明るさの中へ、ガソ リンのような液体をこぼし、その後へ焼夷弾を落下していく。途中で三十六本に分裂した焼夷弾は、 それぞれが思い思いの方向に分散し、あたり一面に火を吹き出す。木造家屋ばっかりが密集している 場所にこれをやられたのではたまったものではありません。 一個や二個ならいいが、物量に物をいわ せる彼等はこれ見たかにバタバタと、ああ沢山落とされては消そうとしても消せるものではない。そ してこのような爆撃が大きな円をえがきながら、周囲一帯が正に火の海となって覆いかぶさって来る のだ。まだまだB29の悪魔のような姿は絶え間なく襲いかかり、私達の口惜しさを、逃げ惑う私達の 怒りをあざ笑うかのように、果てしなく続いているのだった。そしてさらに悪いことには、この日は 昼間から北風の強い日であった。不幸というものはこんなに悪い条件が重なって訪れるもののようで す。風のない静かな時でも火事が発生すると自然に風が出てくる。しかも始めから強い北風の吹きま くっているこの真夜中にあの大空襲が、しかもめくらめっぼうともいえる大爆撃が始まったのだから一 どうにも手のほどこしようはない。炎々と燃え盛る火焔は地上を這い回り、密集した人家を舐め尽く し、燃え盛る火の粉はあたりかまわず雨あられのように私達の身に横なぐりに吹き付けてくる。とて もこうしてはいられない。何とかしなくては、やがて逃げ遅れて焼け死んでしまうしか残された道は なくなるだろう。

 大通りに出て亀戸駅の方向に向ったが、五十メートル位進んだ所で、あたり一面煙に包まれて何処 がどうなのかわからない。しかも向こうから大勢の人達が「こっちは駄目だ。火の手が回って逃げら れないぞ」と日々に大声でわめきながら、大きな荷物を背負い両手にまで荷物を持った人、老人の背 中に手を回し抱えるようにしながら歩く人、背中に乳呑み子を背負い両手にしっかりと幼い子供の手 を握りしめ、この手を離してなるものかと半分引きずりながら子供をせき立てている母親、布団を頭 から覆った人、人、人、そのどの人の顔も恐らく不安と恐怖におののき震えていたであろう、無我夢 中で我先にと、広い道路一杯になって押し寄せて来るではないか。

 こんな老人や、いたいけな幼い子供達に何の罪があるというのだろう。老い先短いこの人達、人生 航路の荒波にもまれてきた数十年の歳月の中でこんなみじめな、生きるためとはいいながら、寒風肌 をつんざく、春とは名ばかりの、冬の名残を惜しむかのように寒い夜空の下で、ごうごうと物凄いう なりをたてて燃え盛る火の手に追い回され、着のみ、着のままで逃げ惑い、何処にあるのかわからな い、いや、無いかも知れない安全な場所を求めてさすらい歩く姿。

 物心もつかない幼い子供達が、楽しい夢路の道に辿り着こうとして寝付いた処を叩き起こされ、眠 いまなこをこすりこすり。その歩く足は拙ないものを、背中と、両手ではどうにもならないのだろう 引きずられるように、何が何だかわからないまま追い立てられている。しかし、大人達の逃げ惑う姿、 炎々と天を焦がす火の手には、幼いながらも何か特別な恐怖感を、ただならぬ気配を感じたのであろ う。泣きじゃくりながらもしっかりと握ったその手だけは離さない。正にこの世の生地獄が現実となっ て私達の周囲に、その光景を展開しつつあるのだ。誰一人、この地獄に引きずり込まれてはいけない、 いや誰もがこの生地獄から逃れるべく、もがき苦しみながら死との戦いに打克つべく、けなげな努力 のために渾身の力を出しきって乗り切ろうとしているのです。必死になって泣き叫ぶ声。力なくわめ き散らす声。しかしこの道も少し歩いただけで、もう煙が道路一杯に立ち込めていてこれ以上進むこ とはできない。万事休す。しかしこの場に居れば間違いなく死んでしまう。またこの道を引き返して、 私の住んでいる家の裏側の国鉄総武線の線路上に避難をしたのでした。ここは総武線の北側に並んで 亀戸から浅草へ向って東武電車の線路、そして東武の貨物線などもあるため線路の中は百メートル近 くもある。

 ここならどんな猛火でも先ず心配はないだろうと思った。

―  線路上は、大通りを避難してきた人達でごった返していた。それこそ芋を洗うような身動きのでき ない程の群衆が群がっている。もう火の手は線路の向う側一帯を紅蓮の炎で包んでいる。線路上から 眺める北側一帯は、真赤な炎と吹き上げるような煙の渦だった。何百メートルかにわたって、いや何 千メートルかにわたって天を焦がす果様な光景は何に例えたら良いのだろう。電気もガスも、水道も 完全にその機能を停止した暗黒の中に、燃え盛る炎のために照らし出された、逃げ惑う私達避難民の 顔は、死に抵抗する最後の力を振り絞り、その形相は悪魔のようだったに違いない。

 そんなに長い時間ではない筈だったが、ウンカの大群のように群がっていた群衆の数も何時の間に か少なくなってきた。線路の上に棒立ちに立っていたが、まわりから吹き付ける北風は立っているこ とができない位の激しさである。そして飛んで来る火の粉は所構わず各所に燃え広がって行く。これ は堪らない、こうしてはいられない。誰言うとなく線路の上にかしこまって座った。しかし火の粉は 無数のかたまりとなって容赦なく吹き付けて来る。少しでも姿勢を低くすれば風当たりは多少小さく なる。かしこまったままの膝を崩さず線路上のかたく敷きつめられた砂利の上に、何のためらうこと なく顔をくっつける様にしてうつ伏せになった。正気の沙汰では考えられることではないだろう。し かし、こうする以外に助かる道はなく、いや助からないかも知れないが、こうしていれば助かるよう な心のやすらぎを覚えるのだった。

 燃え盛る火の手はとどまることを知らず、私達の周囲を完全に取ヶ囲み、強い北風に乗って来る熱 風は、燃えている所より百メートルも離れているここでさえ酸素が薄くなって呼吸が困難になってく る。そんな馬鹿なと、信じられない人もあるだろうが、常識で考えられない、想像もできなかったこ とが次つぎに起こってきているのだった。私達の周囲の温度は途方もなく高くなっているのです。砂 利にくっつけている顔を一寸動かした拍子に線路に触れると、ほっぺが熱くて顔をくっつけているこ とができない。想像さえしたことのない、この世の生地獄がここでも展開されているのでした。この ような生地獄の中でも何とかして生きよう、生き抜こうとする人間の本能が、熱風に煽られ息苦しく、 呼吸は困難となり、しかも身体の自由の効かない窮届な姿勢を堪えながらも、誰もが最後の望みを捨 てずに必死の努力をつづけているのです。

 吹き付ける火の粉を払いのけながら時々頭を少しずつ持ち上げて見る周囲の光景は、何と言って言 葉に表したら良いのでしょう。持っていた荷物に火がつき、消そうとしても消しきれず、自分だけは 何としても助かりたいと精一杯にもがいているのだろう、他人のことなど考える余裕の持ち合わせも なくなってしまったようだ、火のついた荷物を風下の方に放り投げている。これでは堪ったものでは ない。風に煽られ忽ちのうちに火の塊となって空を飛び、当たった人は全身火だるまとなり焼け死ん でしまうのです。恐ろしいことです。

 燃え盛る火の手は止まることを知らぬげに益々激しくなっていく。果たしてこの火は消えることが あるのだろうかと疑いたくなってくる。熱風にさらされたこの身は全身がボカボカほてっている。し かし私の頭の中は冷静そのままであった。苦しみの中に耐え、力の弱い者同志が肩を寄せ合っていく らもがいてみても所詮どうにもなるものでもなく、今までの辿ってきた茨の道を振り返り、改めて死 を覚悟したのでした。

 しだいしだいに死の道に追い立てられ、死の断崖に立たされた時はこんなにも冷静な心になるもの なのでしょうか。阿鼻叫喚の巷をよそに死の絶壁に立って、何も考えず、只死を待つ心境を無我の心 というのだろうか。藁にすがって生き永らえようとあがく必要もなく、二度と還らぬ青春をいとおし いと考える力の持ち合わせもなくなって来たのです。生きる希望を捨て去りじっとして、刻一刻と迫っ てくる死を待つ人の心の美しさだったのでしょうか。

 私だけではない周囲の人達もやはり死を覚悟したのか声一つ聞こえなくなった。この時間がとても 長く感じたが、恐らく生死の境をさ迷い歩いていた時間は五分も経つていなかつたのかも知れない。  突然怒鳴るような大きな声が聞こえた。恐る恐る頭を持ち上げて見た。私達の二、三人位前に防空 頭巾を目深にかむり上半身を起こし、まわりの人達の背中に降り注ぐ火の粉を叩きながら消している 五十歳位の女の人だった。「ほらほら、あんたの背中に火がついて燃えている。みんなで近くの人の 背中の火を消し合わなければ駄目だよ」この時のおばさんの声は正に故世主であり神の姿かと思うよ うに神々しくさえ感じられた。この声に私達の周囲に根を下ろし始めたかにみえた死神は、遂にその 目的を果たすことなくどこともなく去って行く運命となった。おばさんのあの力強い叫び声に励まさ れ、死の淵から呼び戻された私達は、ともすれば深い眠りの中へ引きずり込まれそうになりながらも 必死になってお互いの背中の火を消し合った。

 何時間経ったのだろうか。あの息苦しい地獄の中での死との戦いも終わりを告げる時が訪れて来た。 焼け焦げて穴だらけのズボンのすきまから冷たい風が入って来た。「あゝ助かった」あの時の気持ち、 どんな表現を使っても到底表せるものではありません。生きていることを確かめ、生きることに感謝 するしるしの涙が、 一粒二粒と線路に敷きつめた砂利を濡らしていった。

 三月の寒い朝の大陽が、しかも昨夜からの恐怖を物語るかのような真赤な太陽が上り始めている。 この太陽には前夜亡くなった十万人を超える人達の恨みの涙が、住むに家なく家族を失い、あの生地 獄の中をさ迷い歩き九死に一生を得た、数百万人の怒りの涙が、その太陽の輝きすら曇らせているの であった。

 見渡す限り焼け野原と化した東京の街。点々と、あるいは折り重なって山積みされたように放置されている焼死体の数々。 一夜のうちに、あまりにもめまぐるしい変化の連続で頭の中は麻痺状態となっ ているので、累々と横たわっている死体を見ても「気の毒なことを」と心の中でつぶやくのが精一杯であった。

 それにしても、私達だって数時間前には……。死との境をさ迷っていた時の、あの元気なおばさんの声がなかったら………。

 「おばさん有難う」おばさんのあの時のあの声は闇夜の中に一筋の生きるあかりを灯してくれた、 生涯忘れることのできない″愛の灯"でございます。生きながらえた私の胸のうちに、終生変わるこ となく、赤々と燃えつづける″愛の灯″でもございます。

 吹き荒ぶ木枯らしにも似て、世の中の人の情けの冷たく身にしみる昨今、五十年前の人の心の温か さをかみじめ、感無量なものが込み上げてくるのでございます。

 この私達の掲げる一灯、 一灯は小さく、貧しくとも。激動する社会は冷酷無限であろうとも。人に 掲げよう″愛の灯″を!!

  不滅の光″愛の灯″を!!


平成7年発行「富士宮市民がつづる戦後50年」(地方公共団体発行分NO.9)より転載しております。
転載は、静岡県富士宮市役所社会福祉課のご協力により戦争体験記をつづられた方の許可を頂いております。
無断で転載・引用は厳禁です。  


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