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『忘れられぬ悪夢の夜』
富士宮市北山一九五四 湯本良子 さんの戦争体験記
全文紹介

 三月十日東京の下町一帯がB29の焼夷弾攻撃で酸鼻をきわめた焦上になると、十二日には名古屋、 十三日には大阪とアメリカ空軍の攻撃は定期便のように矢つぎばやに西にのびていった。十六日の夜 今度は神戸が狙われているという噂が市中にひろまった。

・  昭和二十年三月十七日未明、この日は私にとって忘れることのできない神戸大空襲のあった日です。 月日は流れる水の如くとか、早いものであれからもう五十年の歳月が流れ、あの時十四才だつた私は 今は六人の孫のおばあちゃんになって富士宮市に住んでいます。

 昭和二十年三月十七日、「どうも今夜は神戸空襲らしいぞ。洋服、防空頭巾、手袋、みんな枕元に 置いて眠りなさい。空襲になれば動作は敏捷にやるんだよ。」

 「は―い」

 三月十日の東京空襲で医科歯科大学へ行っていて、学校が焼け帰省していた兄を交えて、父、母、 兄二人、姉一人、私の一家六人夕食後、その日見て来た映画「陸軍」の話に花を咲かせている時、父 の言葉でそれぞれ寝床についた。

 午前一時だった。楽しい夢を破って、けたたましく鳴り響くサイレンの音、それとばかりに飛び起 き、それぞれの位置につき敵機の来襲を待つ。まもなくB29の爆音、東西南北に焼夷弾が落ち始める。 山と海とに囲まれて東西に長くのびた神戸の街は、まず西神戸の山手が敵の第一波に襲われ、第二波 が海岸地帯に焼夷弾の雨を降らせた。山の手にも海にも逃れることのできない群衆は街の中間におし よせて来たが、そこへ第三波の爆撃が始まった。深夜サーチライトと照明弾に浮かび上がるB29の姿 を深海に泳ぐ魚の群を見るようにウットリと観賞したのでした。それは初めて目のあたりに見た敵の 姿でした。高射砲は盛んに火を吹く。だがなかなか当たらない。サーチライトは幾筋も交差しては敵 機を捕える。そこを日本の飛行機がきて機関銃で挑戦する。しかし、これも当たらぬ。十四才の私は まるでニュース映画でも見ているつもりで恐いのも知らず眺めていた。

 時計が三時を知らせた。今まで情報を知らせていたラジオが「神戸市民の健闘を祈る」と言って切 れてしまった。これを聞いた私は、何とも不吉ないやな気がした。雨アラレのごとく焼夷弾が落ち、 火災が続出してくると、荷物を持った人々が我先にと避難し始める。数人の人が小さな手押しポンプ で消火にあたっているが、熱気が激しく側へ行くことができず水の先が火にとどかないのです。この 空襲で火たたきも、鳶口も、バケツリレーも、今まであれだけ励んだ防火訓練一切が、焼夷弾の量の 凄さの前にはいかに無力であったか。ふみとゞまることのいかに無謀であるかを知りました。見渡す 家の端から端までほとんど焼夷弾に見舞われ、すでに屋根の上まで炎が吹き上げていました。母が 「もう逃げましょうよ。」と言うと、警防団長をしていた父は、「まだまだ家も焼けないのに避難する なんてとんでもない。」と、バケツを手に頑張っていた。その内に「パン」と小さな不気味な音が近 くに聞こえた。あゝ、何という悲しいことでしょう、この一発の小型爆弾によって皆の運命は決まっ てしまったのだ。父、母、姉、兄二人の横たわる姿。私の腕は肘上が骨折してグラリとさがったまま、 すぐ横に倒れた父を見て思わず「お父ちやん」と叫んだ。だが父の声はせず、たゞ答えるのは敵機の 爆音とパチパチと家の焼ける音のみ、続いて「お母ちゃん」と呼んでみた。立ち上がった母の姿。顔 一面朱に染まり、白いエプロンも、モンペも血だらけ、唯一言「良子ちゃん早く逃げなさい。お母き んは後から行くからね。」と言って父の横に座ってしまった。お父ちやん、お父ちやん、せめて一言 話ができれば……

 家の前に爆弾が落ち、部屋の中に焼夷弾が落ちたのです。母と話をしている時、下の兄が爆風の為、 数メートル飛ばされており、背負っていたリュツクサツクをおろし、幾度か転び、漸く立ち上がった がまるで酒に酔ったようにふらふら十数歩、歩いたかと思うと「僕もうあかん」と最後の言葉を残し て倒れてしまつた。上の兄と姉は即死。後で死体を探した祖母の話では、下の兄はお腹をえぐられて ぼっかり穴があいていて内蔵がなかったとか。ああ、これを見ていた母の気持ち、自分の子供が爆弾 にやられ死んでいく様を何もなしえず眺めている。どんなにか辛かったことでしよう。母はその時た しかに生きていたのです。私が最後に見た父、兄二人、姉の姿は、そのまゝの位置にあったそうです が、父のそばに座った母の姿だけそこになく、家中掘り起こしたら、炊事場のあたりにあったとか。 なぜ?どうして?私と一緒に逃げてくれなかったの? 炎と煙にまかれ、さぞ苦しかったでしょう。 熱かったでしよう。その時私の腕が無事であったなら、きっと、きっと引っ張って逃げたでしょうに… お母さん許して…… ゴメンなさい。

 急に恐くなった私は疎開していた祖母の家へと逃げ始めた。その時はすでにあたり一面火の海、近 所の人々は既に避難したらしく人影はない。黒煙と猛火で五十米先も見えない。逃げ場を失った私は、 火の粉と煙にまかれ、唯一人痛む体を引きずりながら大輪田橋まで来た。大きな橋と運河の水、後に は広い焼け跡(二月四日の空襲)でこゝなら大文夫と皆が避難場所にしたのです。それが大きな誤り で、水と火が風を呼び、橋下の全員は巻き込む火災で蒸し焼きの状態となりました。私は出血のため 貧血をおこし橋の上に倒れてしまいました。出血と空腹でたまらなく、いっそのこと川へ飛び込んで 死んでしまおうと幾度も川の面を覗き見た。その時、川岸に二月四日の空襲で焼野原になっている広 場へ皆避難しているのです。「あゝあの橋の下へ行けば広いから助かるかも……」と思い痛い体をお こし歩き始めたが、足がびっこを引くのでおかしいなあと足元を見ると左足の靴が脱げていたのです。 痛みの為か、出血の為か、靴の脱げたのもわからなかったのです。やっとの思いで辿り着いた橋の下 は、もう人と荷物で一杯でした。しかたなく私は陸橋の下の石垣にピッタリと体をくっつけ火の粉を 避けた。真赤に焼けたトタン、火ダルマのような畳が空に舞い上がり舞い落ちる。火の粉が花火のよ うに降りそゝぎ、衣服がブスプス燃え始めたのです。自分の体についた火の粉は後ろの人に払い落と してもらい、私は前の人の火の粉を落とすようにして一夜を明かしました。その時、何が頭に落ちた のかわかりませんが、バットの様なものでガンとなぐられた様で一瞬頭がボーとして何が何だかわか らなくなりました。後で見ましたら防空頭巾が十糎位のL字型に破れていました。この頭巾は小学校 六年の時母が紫色の布にピンクの裏布で三糎位の厚さの可愛いゝ頭巾を作って下さり、自分でも気に 入って被っていましたが、ある日ふとこんなに薄くて大文夫かしらと思いもっと厚いのを作ってほし いと言って十糎位の頭巾を作ってもらい、そのお陰で一命を取り止めたのだと思います。頭が馬鹿に なったのかと、 一、二、三と数えましたが、幸いに数えられたので、あゝなんでもなかったんだと安 心しました。夜が明け始め、空襲も解除になったので病院へ行こうと立ち上がると目の前の広場にい た人々は持ち出した荷物に火がつき、逃げられぬまゝ真黒の焼死体の山です。橋の下に行き、助かっ たのは、おそらく石垣に一列になっていた人達だけではなかったかと思います。長年水につかった運 河の材木にも火がつき、河に飛び込んだ全員が死亡、神戸市の調べでは広場にいた人は五百人で全員 焼死んだそうです。橋の上へ行くと橋の上にいた人達も皆熱風で焼かれ、この人達も真黒の焼死体、 私の横にいた女の人が子供を抱っこしていましたが、そのまゝの姿、子供をしっかり抱いたまま真黒 こげでした。あの時川へ飛び込んで死のうと思わなかったら……広場へ行っていたら……今思うとぞ うっとします。

 さあ病院へと思いましたが、あたりはまだまだ盛んに燃えていました。下火になるのをまって病院 を探しましたが見渡す限りの焼野原、ほとんどの人は半狂乱に近いほど興奮して取り乱しているか、 あるいはすっかり放心して己を失っている状態でした。あたりは死人の山また山。爆風のため首が千 切れ、長い髪の毛が電線に巻きつきぶら下がっている頭、庭の石燈篭の上の丸石が爆風で電柱にグツ サリ食い込んでいる様、コンクリートの塀にからみ合って倒れもせず立つ数体の白骨を見かけた時は 悲惨というも愚かこの世の地獄図かと思いました。直撃弾を受けて逃げるいとまも無かったのでしょ うか。焼け跡をみると一軒も残っていない焼野原でよく我慢し助かったものだと我ながら不思議に思 う。病院はどこかと警防団の人に聞いても見向きもして下さらなく泣き出したくなっている時、キリ スト教の牧師さんの三島先生が私を見て交通病院へ連れていって下さいました。そこにもまた傷つい た沢山の人々で廊下も通れない位でした。私の傷は重いと思ったが、まだまだ軽い方でした。いよいよ私の番になった。何だか針で縫われる様な気がしたので、「痛い、痛い」と声をあげた。看護婦さん は、「泣いてはいけません。日本人でしょう。」と叱られました。「あゝそうだ、私は日本女性なんだ、 あんなアメリカなんかに負けてたまるか。」と歯をくいしばった。病人が一杯で、たった二畳の所で 八人の人が横になったり壁にもたれたり、私は腰から上だけ横にして二日日の夜を明かしました。で も誰一人不平を言う人はありませんでした。食糧の無い時代、隣県も空襲にあい、おにぎりの差し入 れは三日に一個でした。三日目にやっと三鳥先生が祖母の家に連絡してリヤカーで運んで下さいまし た。先生は三日間ずっとついて下さり、三月の寒い時なのに御自分のオーバーを脱いで着せて下さい ました。先生もこの空襲で家を失われたのです。先生に助けて頂けなかったら、私はどうなっていた でしょう。全然知らない人にこうまで親切にして頂いた事はない。 一生忘れることの出来ない命の恩 人なのです。それから県立病院に入院、約三ケ月して退院しました。病院にいる間も母の最後の言葉、 「早く逃げなさい。お母さんは後から行くからね」の言葉を信じ、どこかに生きている、きっと、きっ と……という思いで待った。でも焼け跡から。父、母、兄、姉の焼死体が掘り出されたとか、きっと 生きている。きっと今に逢える、どこかの病院にいるのだ―と信じていた数日が幸せだった。そして 病院へ入院している間も、きっと日本は勝つのだ。それのみを信じきっていた私でした。「頑張りま しょう勝つまでは」「欲しがりません勝つまでは。」「銃後を私達で守ります」幼児まで日ずさむ日々、 一歩外へ出れば千人針をと、わが父、わが夫、また兄へと武運長久のしるべと道行く人に一針々々む すんでもらう、(これを胸に巻けば弾があたらないというのです)しかし毎日報道される臨時ニュー スでは、勇ましい軍艦マーチをとヾろかせ、日本軍の不利なことは少しも報告されず、米艦隊の撃沈 だ、B29○○機撃墜と、相手の被害状況のみ、それを国民は皆信じ切っている。私達は、祖母、両親 から、日清、日露の戦争の話を開かされては「日本は絶対に勝つんだ、他国にない日本魂があるんだ。 いざ!となれば神風が吹いて勝利を得るんだ。」と言葉を信じて疑わなかった。八月十五日、とうと う日本は敗戦国になったのだ。あゝ、何ということでしょう。親兄姉、家財産を失いそして敗戦国焼 都に立つ私の心は……

 戦争犠牲者は軍人であつて、 一般国民(非戦闘員)にはないのか、軍人遺族には、いさゝかの生活 の保証もあると聞いています。英霊は護国神社に、靖国神社に永久にまつられている。戦場と化した 空襲のなかで死んでいった数限りない多くの国民は犬死にも同然だということであろうか。そのこと を、いまでも私よりもっともっと怒り悲しんでいる人がいるでしょう。「国土防衛」「銃後の守り」の 掛け声の中で爆弾に又空襲の猛火に焼け死んだ友達は、またその遺族の方はどう扱われて来たか。非 戦闘員は全く一方的に無抵抗の状態に於いて煙にまかれ、窒息死、炎に蒸し焼きにされ、爆弾で爆死、 軍人となんら変わらないではないか。

 三月十七日の命日には神戸へ行き戦災者をお祭りしてある薬仙寺へお参りし、皆が死んだ家の前あ たりを通る時は胸を締めつけられる想いになります。

 戦争、空襲を体験した私達が声を大にして戦争によって、どれだけ多くの人が傷つき悲惨な日にあっ たかを後世の人達に伝えるべきだと思います。でも戦争を知らずにたまに見る映画の戦闘場面や自衛 隊の群をみてはカッコイイと思う若者達にどれだけわかってもらえるか疑問ですが…… 私はこのよ うな事は二度とあってはならないと心より願い今日の平和をしみじみと感謝しています。

   母が呼ぶ声や聞えしうなづきて
    眼を開きしが終りなりしよ

   ふと夢に立つ面影をまさぐりて
    うつゝなれば声あげて泣く

   五十年われを見つめて物云わず
    若きまゝなる黒枠の父母

    父母恋し

一、あの日逝かれしお父様
  いづこの空におはします
  優しく清く進み行く
  我の行く手を照しまし

二、今は世になき母様の
  優しき御手に育てられ
  乙女となりし山の日頃
  思い出せば母恋し

三、過ぎじ月日を共にして
  楽しく遊びしお兄様
  御空の星になられても
  我を忘れずみちびかせ

四、姉と睦びいついつも
  或はなきつ慰めつ
  過ぎしは恋し八カ年
  共に語りしあの日頃

五、寂しく残るは我一人
  はかなき命思いつゝ
  我家を興すこの使命
  みそなはしませ亡き父母よ
     (昭和二十一年八月十五日作)

戦後流行した映画愛染かつらの中の「朝月夕月」の節でよく口ずさみました。


平成7年発行「富士宮市民がつづる戦後50年」(地方公共団体発行分NO.9)より転載しております。
転載は、静岡県富士宮市役所社会福祉課のご協力により戦争体験記をつづられた方の許可を頂いております。
無断で転載・引用は厳禁です。  


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