戦後五十年にあたり戦争をよく知らない私ですがあの時の母の気持を思い胸のいたみをおぼえます。
小学校低学年だった私は学校からただいまと大きな声で帰りました。いつもお帰りとむかえてくれ
る母が茶の間で泣いていました。 ″なにした、なぜ泣いている″と何度も何度も母にききました。母
は私にざしきにいくよううながしました。床の間に自い布に入った小さな木箱、姉がその中を見てい
るそばで私は何だかわからなく見ていました。それから母は私に何が入っていたとききました。つめ
とかみのけだよ、お母ちゃんも見たら、ただそれだけの会話でした。後から思うとその時の母はこわ
くて見れなかったのではなかったかと思います。
あれから何十年もすぎ私も母になり子供を亡くしました。あの日の母と同じ思いで悲しい日々がす
ざました。それから子供にも恵まれ幸せの日がすぎました。
一九八九年シベリア墓参の話があり、兄 に逢いに行こう、そして父母の気持をつたえ故里の話をきかせるため墓参に参加しようと心にきめま
した。二十年つとめている会社の社長に一週間の休みをいただきシベリア行きの準備に入った。
一九八九年六月二十五日新潟空港からハバロスクヘ、シベリア鉄道十八時間の旅が始まる。車中ね
むれず兄の事ばかり考え窓の外を見ておりました。
シベリアのねむれぬ汽車の窓辺にて
恋しき兄の名を呼びし我
涙して語れぬ兄のおもかげを
おいし白夜を窓ごしに見る
六月二十八日ナホトカの墓地に向う。ナホトカには五三七墓があり肉親のこれなかった墓に姉と二人で花と線香をあげて回った。
ナホトカよりウラジオストックヘ抑留され生きてかえった戦友が、あの丘にシベリアの地に無念の戦友がねむっているのだと泣いている姿を見て、私は生きて帰った人をうらやましく思う事をやめました。兄もあの丘で日本を思い母を思い毎日涙したのではないかと思うと私も涙がとまらなく悲しく泣けてたまらない苦しい時をすごしました。シベリアの地に七万という命がねむっているそうです。桟橋をあがる正面広場には無名戦士の記念群像があり、永久に消さない灯が燃えているそうです。
六月二十九日、兄のねむるアルチョン墓参日。兄は大きな木の下でねむっていました。頭を日本の
方向にして三〇一の墓があり、兄は日本数字で一二二番ロシア数字で6/1の場所です。私は姉と夢
中でさがし、父母や故里の話をし、時間のゆるすかざり兄といっしょにいました。
はるかなるシベリアの地で語るなき
兄のかたみいとうしくだく
兄の墓の石を故里へ、そして父母の墓にいっしょにと、もちかえりました。この海をわたることの
出来なかつた兄の悲しみを思うと涙にくれた一週間でした。
兄は昭和二十一年四月二十九日アルチョン抑留中死去二十二歳でした。遺髪と爪が遺骨代りに送
られて来たのを今でもはっきりとおぼえております。それからアルチョンの石は父母のねむる墓に、
何十年ぶりの対面に父母も兄もよろこんでいると思います。私も墓参に参加して本当によかつたと
思いました。
この悲しみを二度とくりかえさないよう私達は平和を守っていかなければならないと思います。あ
の悲しみにくれた一週間涙の墓参の日々を大切に兄の分までしっかりと生きていきたいと思います。
|