平成七年、今年は戦後五十年という事で、旧陸海軍関係諸団体による集いが各地で行われている様
である。確かに本年は年数的には五十年という極めて区切りの良い年ではあるものゝ敗戦という未曾
有な事態は何年たっても当事者の頭から消え去る事は出来ないと思っている。特に我々の様に十四歳
(現在の中学三年生位)という若年で、国家の危機を救わんという真心一心で志願までした少年兵の
考え方にはとても賛同は出来得ないと思われるが、当時の世相、社会情勢からしてある程度若者の方
向が決定づけられていた様である。それは戦争であった。大東亜共栄圏という理想郷を目指し、アジ
ア民族の共存共栄、日本国家の安泰を願ったこの遠大な計画にはそれなりの国力、いわば兵力、軍需
力が確保されなければならない。その戦力源は当時の若者が第一のターゲットとして狙われていた。
当時の若者の戦争観はすべて語りつくされている様に感じられるが、日本という神国が戦いに敗れそ
して敗戦国という最低のレッテルを貼りつけられ、現在の若い人達にはとても表現しつくされない程
の実に悲惨な経過をたどり、又、それぞれの絶大な努力の末、漸くのこと世界各国に比する程の進歩
を遂げた事は紛れもない事実。戦争ともなれば勝敗を決するのが当前、華麗なスポーツの様に参加す
るだけとか、引分けというあやふやな決は無駄、率先して人の殺し合い、徹底的に相手を打ちのめさ
なくては結局自己を失い、そして国家そのものゝ存在は危くなる。これは、若年の我々の時代に教え
こまれた軍国主義の一端で、このコースに沿って続々と苛烈な戦線へ投入、優秀な若き生命を散らし
て行ったのであった。
五十年前の八月十五日、いわゆる終戦の日は強烈な真夏の太陽が照り輝いていた。私の配置されて
いた天草諸島は南国的な島、だから内地より余計に暑さが厳しかったのかも知れないが、この夏の暑
さが身に応える季節になるとよく思い出されるのが、神風特別攻撃隊で沖縄周辺の米国艦艇群に突入
戦死された石川県粟津市出身の根上行介海軍一等飛行兵曹の遺書である。昭和十九年五月より飛行予
科練練習生新制度に伴い、私達は身上は飛行兵ながら飛行機整備教育を六カ月スピード終了、実戦部
隊の天草基地へ転勤して行ったのは二十年二月の十日頃、十四・五歳の若い飛行兵がこれから実戦機
の整備する新天地は風光明媚な天草諸島の中で一番大きな下島であった。島のあちこちに十字架の墓
が見られるセンチメンタルなクリスチャンムードの漂う人情味豊かな天草でも基地のある下島では異
様な空気であった。十六・七歳の少年搭乗員、十八・九歳の若き操縦、偵察の教員、それに高専、大
学出身又は中退の二十二・三歳位の秀才な教官等で決死隊、特別攻撃隊がやがて編成される事になっ
ていた。
私達はそこで練習機の他に出撃予定特攻機の整備作業に当る事となり、否応なしに飛行科ならず整
備科分隊にたゝき込まれた。この兵舎内で科目の違う兵隊、それに整備兵よりも進級速度の早い若年
兵とて古い整備兵からは目の仇にされ、気合いを入れられる事がやたらと多かった。ある日の飛行作
業の折、 一寸したミスで先任整備員からひどくどやされ意気消沈していた時、近くに着水して飛行訓僚の終了した搭乗員が″ポン″と頭を軽くたゝきながら「オイ!お前まだ坊やみたいだが年令はいく
つだ? それで生れはどこなんだ?」
少々落ち込んでいた私にこう言って話しかけ
てくれ、それ以来ごく気軽に話合える様になっ
た先輩搭乗員、根上操縦教員〜特攻隊区隊長機
の操縦員に指名されていた。 飛行中や、離水時の容姿の実に美しかったあの特攻機、零式水上観測機は水上機独特の大き
な単浮舟をつけ、設計上は単葉機なみの性能と
いうものゝ複葉機という不利な構造でどうして
もスピードの低下は免れない機体、それに爆弾
搭載となれば相手戦闘機の格好のえじき。その
被害軽減には月明を利用した夜間攻撃となった。
昭和二十年六月二十一日、夕間迫る天草本渡沖
の海上を特攻機は猛烈な水じぶきをあげて発進、
待機の隊員の決別のしるし、「帽ふれー!」白
の略帽や、国防色の略帽を千切れる程振り回す
その上空を別れを惜しむかの様にバンタをしな
がらやがて南の方向へ………。途中、九州指宿温泉近くにあった指宿水上機基地にて燃料、そして二
五〇kg爆弾を浮舟と胴体の間に固縛して爆装完了、苛烈極まる最前線、沖縄周辺の敵艦隊との決戦に
肉弾と化して鮮やかに散って行った。
昭和五十年、私も加入させて頂いている隊友会″天空会″の機関誌によって漸く根上兵曹の住所が
判明、三十年という長い年月を経て生家へ念願の墓参が実現した。北陸の温泉地粟津温泉街の裏通り
静かな墓地に「故海軍少尉 根上行介之墓」と苔むした古い墓石にはっきり刻まれ私を待っている様であった。
「根上兵曹! おそくなってまことに申訳ありません―――。」
出撃のあの日、私は下級の若年飛行兵のくせに、先輩整備員の先任兵長にお願いし、私自身の手で
エンジンを始動、そして発進前の各部点検も念入りに済ませ、水上機搭乗も海水で濡れない様にと私
が背負ってフロートまで乗せて「願いまーす!」とさっと敬礼をした。飛行服の腰のベルトの所に、
隊外に可愛い娘がいたのか、愛らしい小さなマスコット人形を一杯吊した出撃搭乗員の姿はやはり絶
大なショックであり感動であった。
この墓参りに同行してくれた家内共々、生家に戻って遺品となったアルバム、遺品の数々を拝見さ
せて頂いた。戦時中の赤茶けた粗末な素材の手製のアルバムの中に私の予科練時代の写真があるのに
驚いた。よく考え見たらあの頃流行的であった隊員の写真交換したものであった「いつ、どんな戦い
で死ぬか判らない時代にせめて写真を写してそれを交換する事によって一つの慰めの様な気がしてい
た。そして何よりも私の胸にぐっと迫り来るものを感じたのは別の包から出された根上一等飛行兵曹
の出撃前の遺書であった。
――笑って死す――
花は桜木 人は武士 父上、母上様、行介も皇国の為に散る時機が参りました。御安心下さい。
笑って死につきます。生あるもの必ず死す。
なつかしきふるさと坂田山
かおる桜花も散りはてし
征くで雄々しき稚児桜
――轟 沈―――
神風特攻水心隊 出撃前三時間
いつ、どんな気持でこれを記されたのだろうか?昼間の厳しい飛行訓練が無事に終り練習生も教員
もぐっすりと寝静まった教員室の片隅であろうか、それとも格納庫の中の愛機の操縦席かも知れない。
六月のあの出撃前夜だったと思うが隊員の送別会とやらで搭乗員兵舎は無礼講に近い宴、日本刀を引
抜いてテーブルの上に立って振りかざす若き隊員、腕組みをし、柱に寄りかゝり、じっとそれを見つ
めている古参の教員搭乗員、それぞれの思いを胸に宴は巡検ラッパが鳴っても未だ止まらなかった。
この遣書はただ単に十九歳の一青年の書いたものにはどうしても思えない。明らかに家族の安泰、
ひいては祖国日本の繁栄のため、自らの生命を投げ出してつくそうとするその魂のみちみちた素晴ら
しい文字である。
私の手許には遺書全部のコピーが大切に保管されているが、たまたまこの特攻作戦に関係あるもう
一人の方の遺書の写しも大事に本棚に保存されている。静岡県岡部町出身でいわゆる私達の同郷の先
輩士官、静岡師範学校より予備学生として又、偵察士官として奇しくも根上兵曹と同じ第二次攻撃、
第一区隊三番機として二十一日天草を発進、沖縄爆撃後一度近くの古仁屋に引返し、七月三日再度沖
縄に突入戦死された須藤竹次郎海革少尉の墓参りした年の天空会機関誌に生々しい遺書が写真版として発表された。
遺 書
天草海軍航空隊
特別攻撃隊区隊長
海軍少尉 須藤竹次郎
御両親様
長い間お慈み下され誠に有難う存じました。
今日の光栄を得たのも偏に皆様のお陰と幸福なりし歩を竹次郎は心からお礼申し上げます。
何時も御迷惑をおかけしたばかりにて何等為すところなく今日まで過ぎ甚だ残念でありま
すが、 一撃必沈を以って皆様の御恩に報いる覚悟であります。信念の下必ず日本男児らし
く須藤家の人間らしく全力を挙げて突撃致します。青年の熱と意気こそ必勝の基なりと信
じ勇んで征きます。肉体は亡びるとも魂は不減、靖国の空から帝国の必勝と皆様の御多幸
をお祈りして居ります。
御両親様、呉々もお体大切に、御無理なさっては駄目です。何時までもお元気でお暮し下
さい。
泣かないで下さい。よくやったと笑ってほめて下さい。
種々お考へになるのはお体 に毒です。
では元気で征きます。 終
尚、恩師はじめ諸先生、親戚同級生各位に宜しくお伝へ下さい。では御機嫌宜しく。
出撃を前に 二十日昼
竹次郎
師範学校から志願した二十三・四歳の教育学専門の青年と、十九歳の旧制中学中途で志願した血気
盛んな少年とでは書き残した文字の形は異なれども、祖国の安泰を願う事は同一の精神。このお二人
の特攻攻撃戦死者のみならず、すべての作戦、あるいは内地の戦火で生命を全うされた御霊に、私も
悔いのない一生を過ごしたいと思う五十年であり、そのすべての御霊に安らかにと合掌致します。
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