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 「第41教育飛行隊」
隼18434 少年飛行兵たちの回想


全文掲載

これは平成2年6月、元第41教育飛行隊員だった仙石敏夫さんが
同期の方達に募集した「思い出の一文」をまとめ、自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

思い出すままに(1)              伊田哲男さん

  大同会の便りに接し驚きと喜びで一杯である。敗戦より四十有余年、よくぞ生き長らえたものである。懐かしい名前、内務班の列順等四十余年昔に帰ったような気になり、悪がき大将の神谷卓志さん、内気な少年内田さん、熊飛で成績不良四一教飛で優等生の錦戸伝ちゃん、負けず嫌いなチビの作ちゃん、そして痔が悪く難儀して居た上田の敏さん等々憶い出はつきない。
 そこで思い出すまゝに綴ってみることにした。

一 浜松 三方原
 昭和十九年の早春、浜松三方原の中部百十三部隊二中隊はそれぞれの配属先が決まった若鷲の熱気で湧き立って居た。
 
 その中で意気消沈組が吾等数名、正確には七名位だったと思う、即ち残留組である。或る者は空輸隊、又の者は航空本部付、中でも中華航空復帰の中嶋、下地等は小躍りして喜んだ。事実営門を脚袢なしで帯剣もつけず出て行く二人を見て泪が出る程羨ましく感じたのは私一人ではなかった筈、そして次の日から助教要員として教育法の教育とか称して再び訓練が始まった。

 そんな吾等にも運が廻り、南方へ兵員輸送の命令と浜松沖の船舶警護の任が下り、失望から救われた。浜松沖の船舶護送は上空より潜水艦の接近を排除する目的で船舶の周囲を後に先にとつき、二時間位警戒した様に記憶する。

 それで時には夜間になり飛行場が判らず、中隊長井口大尉に手取り足取りで教えて頂いた。夜間飛行は此の船舶護衛の任務中に中隊長にマンツーマン教育を受けたのだから相当ボンクラでも物にならなければ不思議である。

 然し最初の着陸は度肝を抜かれた。無灯火の飛行場へ前照灯を点滅しつヽ降下して行かれる井口大尉が神様の様に見えた。あの頃中隊長の飛行時間は九〇〇〇時間とか聞いていたが、吾々初心者には別世界の人としか見えなかった。兎に角その頃はまだ着陸はおろか、上空より飛行場の位置すら判じ得なかったのである。

 そして憧れの空輸に入り何機か共に九七重一型にて浜松―嘉義間の兵員輸送が始まり、九州甘木飛行場の周囲の山に雪の残る二月か三月頃、南方赴任の見習士官(七名位)を嘉義飛行場に送り、台湾の気温に辟易しながらも帰りに黒砂糖やバナナを爆弾倉に吊り下げて意気揚々と帰って来た。

 然しその何回目かに沖縄―台湾間に発生した低気圧(台湾坊主)に遭遇し沖縄へ引き返す途中、片発故障となり水平飛行不能の為、沖永良部島へ不時着した。

 その時の状況も実にみじめで、引き返す途中も編隊飛行で雲上飛行六〇〇〇米位を一時間二十分飛んだ、編隊長機や他の機は酸素設備があったらしいが私の機にはない為、 一時間位から先は半分居眠り運転の様な危険極まりない飛行を続け、遂にたまらず単機雲下に下がるべく手真似で長機に連絡し、降下する頃から片発不調となり、人家のある島を見つけて海中に着水し辿り着いた島が沖永良部島だった。その時にご一緒したのが市田少尉(正操縦士)氏名忘却(機上機関)及び同乗の輸送見習士官で、その後約一週間、沖を通る船をつかまえる迄(飛行機は不時着十数分後海中に沈んだ)島の方々のお世話になった。

 やっと一週間後、沖を通りかゝったのを見付けて便乗させて貰った船の素晴らしかった事、 (船乗りの度胸の良さは今でも忘れない)僅か百噸程の小さなボロ舟で南方迄船団を組んで石油運送に行く途中と聞いてビックリ、そして、その後がまた凄い。沖縄迄十二時間か十三時間と言うからそのつもりで乗った所、 一日過ぎても一向に到着の気配がないので聞いてみると、わざわざ船尾に私を案内し、スクリューを見下ろして「あの状態ですから進まないのですよ…」とケロッとして居る、見れば船のピッチングで船尾の下がった時はスクリューが水をかいて居るが、上がった時はカラカラと優雅な音を立てゝ空転して居る、気が遠くなる様な光景だった。

 そのうちに生理作用を催してきたが、便所のない船でとてもあの二本の棒で用を足す事は出来ないと諦めて二日間船酔いと両方に攻められて、夜昼共甲板で空を見て暮した。勿論食事どころではない、 「パイロットが船酔いとはおかしい」と彼等は笑ってもりもり食べて居たが、私は見るだけでもムカムカ・・・

 漸く沖縄本島の名護と言う港に入った時は、もう這う様にして下船し、陸路を那覇飛行場迄バスで行ったが、又そのバスがボロで今では想像も出来ない程な長時間で、それでも遂に那覇市迄辿り着いた。
 その後那覇の旅館で一週間位女中さんにかしずかれて殿様になった様な気分で浦島太郎の生活を送らせて貰った。やがて同期の北川が百式重爆で迎えに来て呉れた頃になって、朝夕微熱が出て体調不良となり、その後大同移駐迄余り軍務に精励した記憶がない。

二 小林軍曹         上へ
 小林軍曹は少飛七期出身のお人好しで片肺の傷病兵バイロツトであった。

 岡山県出身で私の家から車で四十分位であるが敗戦当時は交通機関がなく列車利用なら一日掛りであった。撃墜された四号機は小生の搭乗機で何時も四号機は皆が嫌うので私と決って居たが、あの時は何処かへ連絡任務についていたため止むを得ず彼が予備員として搭乗し運悪く友軍高射砲に撃墜されたのである。遺骨には「戦死中支にて」となって居たが、同僚は全員真相を知って居た。

 全身火に包まれ乍ら、機上機関その他全搭乗者を機外に出し、最後に自分が出たとの事で他の者は全員軽いやけどで無事、彼のみ三日位だけ生きて居たとかで、流石少飛魂と当時部隊の語り草になっていた。

 その小林軍曹に助けられたのは、身代り撃墜の他に大同飛行場に於ける払暁飛行演習の時にもある。

 昭和十九年夏、払暁飛行を終え着陸後準備線にて地上勤務の方に機を渡す時、原則として機関停止後操縦席を交代すべき所、当日の朝は機関調整がしたいのでその侭で替って呉れ、との依頼を機関係(某軍曹)より受けたので、その侭渡して降りるべく乗降口に向かって機内を数歩移動した直後、慌ただしく「機関停止!」と叫ぶ声と共に入口に兵員が駆け寄って来たので、何事ならんと急いで飛び降りて見た所既に一人の兵が倒れて居た。

 後で聞いた所、車輪止めを掛けるべく機体下に入った兵士一名プロペラに叩かれて倒れたとのことであったが、そこで事故のあった時点での操縦席が問題となり、当然私が当事者(原則通りとして)の為、過失致死が問われ中隊長井口大尉に呼ばれて詰問された。

 がしかし、当時としてはそれはこうこうと言い訳する事も出来ず、只々機関係よりの申し出を待つより術なく(今の時代の人に言えばそんな馬鹿な…と一笑に付されるだろう)辛い想いをして居た。又これで一生終りだな…との想いに胸を痛めていた。

 その時、その話を聞かれた小林軍曹が、ビストで見ていたが事故の起きる前に、伊田機の操縦席で飛行帽の兵員と作業帽の兵員が確かに交代したと中隊長の所迄証言に来て下さった。

 おかげで急転直下事件は解決し(その頃整備下士の方も真相を話したらしく)私は規則違反の機関運転中の操縦席交代を厳に戒むとのお叱りのみで終り助かった。

三 朝鮮神宮 空中参拝   上へ
 昭和二十年一月一日、水原飛行場上空はどちらかと言えば好天の部類に入る天候で、風もおだやかな元日を迎えた。

 此の日、上空より京城市内の朝鮮神宮初詣の為午前八時〜九時頃水原飛行場を離陸した隼一八四三四部隊の一式双発高練二〇〜三〇機位は高度一〇〇〇米位で編隊構成し、朝鮮神宮に初詣迄は順調だったが、いざ解散、着陸という頃、冬空特有の雪嵐となり飛行場は降雪の為視界不良、止むを得ず各機個別行動するべく、それぞれ着陸可能な飛行場を探して水原上空で僚機と別れ、私は南ヘ機首を向けた時地図を持って居ないのに気付いた。

 如何に近くの初詣とは言えパイロツトの基本の地図を忘れ、天気図も見ず搭乗する等、これで一人前面をしていたかと今にして思えば赤面の至り、然し当面はそんな事より早く飛行場を見つけて降りなければ…と、各地の飛行場を頭に浮べ、まず最も近い太田飛行場を目指して南下した。

 上空に張りつめている雪雲を避けて雲下を鉄道線路伝いに下った。然し鉄路は山に当たればトンネルに入り飛行機は上空に向かうより道はない、止むを得ず迂回するにも地図がない、あの時位地上の乗物が羨ましく感じた事はない。煙をはき乍ら悠々と走って行く列車の姿が今でも瞼を閉じれば浮んで来る。

 沿線の農家からもオンドルの煙がゆらゆらと立ち昇り、実に優雅な眺めではあった。然し吾等搭乗員は真剣そのもの、迂回したり、鉄道線路を辿ったり、悪戦苦闘の末漸く太田上空に到着、喜び勇んで着陸態勢に入り、飛行場の大きさに気付いた時は第三旋回の開始と同時とはお粗末此の上なし、それでも若さとは楽しいもの、己れの技術の程も省りみず、第四旋回終了後飛行場へ向けて機関停止で降下着陸、オーバーランを防ぎ、此処でも司令にお褒めを頂いた。

 その後は太田温泉に浸り命の洗濯をしつゝ部隊へ報告、井口少佐(当時は大尉より昇進して居られた)より迎えに行く迄待機との命令で(二日か三日位だったと思う)のんびり湯治と酒落たものの、着陸できたのに何故離陸させて貰えぬかと少々不満を感じたが、中隊長から見ればまだまだ未熟者、狭い飛行場(練習機の飛行場で双発機の離着陸は若干無理ではあった)から離陸して万一事故でも…と心配されてのご配慮であった。

 後日迎えに来て頂いた時には無事故着陸を褒めて頂き面目をほどこしたものである。

四 アルコール燃料     上へ
 次に思い出すのはアルコール燃料による試験飛行である。 (同乗の飛行兵の方氏名忘却)機上機関はヤスマツ曹長だった様な記憶である。飛行兵の方は不時着時の衝撃で負傷し報告後医務室ヘ直行してもらったと思う。

 飛行場手前で一度接地、パウンドして場内に飛び込み逆立ちして機関部より発火したが、消火器で消し全焼は免れたがお蔭で後日の事故調査で確認されてキャブレターノズルの穿孔不良による整備ミスと決定され、私の操縦ミスではないと言う結論に至り後日、上官同僚全員の前で事故報告をすることになったが恥はかゝずに済んだ。

 事故に至る経過は着陸体勢に入ってからで、千米から五千米迄、各高度千米単位でテストした結果ガソリン機に比しそれ程の優劣はなく、回転数を上げる為(馬力保持)燃料消費量の大なるは止むを得ずとの結論で降下に入ったが、気になって居た気筒温度の低下を恐れ、最低限度八〇度?を一〇〇度に保ち降下、第四旋回を終えた直後に機関停止、直ちに機上機関が始動を試みるも効果なく、突差に胴着の決心をしたが未熟者の悲しさ、この侭で飛行場の端に接地出来るやも…と考え、もしそうなれば機体損傷の汚名はないと判断し急遽手動脚出しを機上機関に依頼、漸く脚出し完了のランプ点灯の時は目前に飛行場の土堤が迫り、この侭だと土提に撃突必至と判断し、故意に接地して引き起こし飛行場に入った為、失速して逆立ちという結果になったのである。

 後で思えば、あの際脚出しせず初志の胴着を決行すればあれ程大きく機体をこわす事もなかったであろうと悔やんだものである。(つづく)
 

    平成2年6月発行 
    「第41教育飛行隊 隼18434部隊 少年飛行兵たちの回想」より転載


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