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 「第41教育飛行隊」
隼18434 少年飛行兵たちの回想


全文掲載

これは平成2年6月、元第41教育飛行隊員だった仙石敏夫さんが
同期の方達に募集した「思い出の一文」をまとめ、自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

終戦の思い出                  有賀守正さん

 あれから四十余年の歳月が流れたが、昭和二十年八月十五日、終戦の日は宣徳で迎えた。

 朝、今日は重大なラジオ放送があるので正装の上集合とのことで、全員食堂付近の営庭に集合、天皇陛下の玉音放送が始まったが大変な雑音で聞きとり難く、ソ聯が参戦したので益々頑張るようにとのお言葉のようであった。又中隊長も同じような解釈の訓示をして解散し昼食になったが、その食事中週番士官が慌てて飛んで来て、先程の放送は日本が全面降伏したとの事で、百八十度反対の話に一同驚いた。

 それからは重要書類を焼け、私物も焼いてしまえとテンヤワンヤの大騒動であった。そのうち、二、三日すると南鮮に移動するが将校の家族等を優先的に空輸することになり、八月二十二日午後六時迄は日本軍の飛行機は飛行出来るとの事で、八月二十日頃より宣徳から現在のピヨンヤン飛行場迄ピストン空輸をし、そこから一般の人達は汽車で南鮮へ向かったようであった。

 私も宣徳を八月二十二日午前十時頃出発、ピヨンヤンヘ… を宣徳の双練は私達をピヨンヤンに置いて又残留者を迎えに宣徳へ向かったが、ソ聯軍が既に進入していたのであろうか、全機二度と戻ってこなかった。 私は運よく水原より迎えに来てくれた笹倉隊の長谷川中隊長の飛行機に乗ることが出来たが、ソ聯機が次々と着陸して来る隙間をぬって五時半頃離陸することに成功、開城を通過する頃には約束の六時近かった記憶である。ピヨンヤンに残された戦友も多かったようであったが実に幸いであった。

 水原の兵舎に数日いたが、後に水原病院に移動し水原を離れる迄ここが宿舎になった。

 その頃、朝鮮が軍隊を作るので、兵は下士官、下士官は将校ということで募集しており、徳永准尉と他に人数は不明であるがこれに参加したことが思い出される。後にその任務も終り全員無事に内地に帰ったと聞いている。

 それから一ケ月余、水原を離れる迄は毎日なにもすることがなく、ドサクサに紛れて倉庫の物資を無断借用したり、夜間の無断外出等かなりの非行兵ぶりを発揮したものであるが、いよいよ内地引き揚げの時がきて汽車で水原を出発、釜山へ向かった。

 釜山の手前まで来て近くに東来温泉のある小学校へ宿泊し、九月末頃引き揚げ船の一番で乗船するとかで三十日頃釜山港へ到着した。港で一泊して十月一日乗船、夕方出港した。

 富山の伏木港へ上陸という話であったが、夜中になり富山には向かっていない、反対方向だとのことで、私達をだまして乗船させアメリカの強制労働に連れて行かれるのだと大騒ぎになった。しかし、まもなく台風が近付いているので方向を変え九州の博多港に向かっているということが分かり、騒ぎは治まった。

 朝、博多港に到着、解散してそれぞれ各人の郷里へという次第であった。(了)
 

    平成2年6月発行 
    「第41教育飛行隊 隼18434部隊 少年飛行兵たちの回想」より転載


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