「第41教育飛行隊」
隼18434 少年飛行兵たちの回想
全文掲載 |
これは平成2年6月、元第41教育飛行隊員だった仙石敏夫さんが
同期の方達に募集した「思い出の一文」をまとめ、自費出版にて発行したものです。
仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。
思い出すままに(2) 伊田哲男さん
五 会寧飛行場
特攻機受領の為内地に帰った時のことである。昭和二十年四月水原飛行場より双高練に便乗して米子市両三柳飛行場迄細川隆治(古河十二期)操縦に送って貰い、その後列車にてそれぞれの郷里に帰り休暇を取り、岐阜に行き各務原飛行場で整備済機が出来次第朝鮮へ帰ったが、私は真壁中尉の指揮下に入り米子飛行場(当時は地方航空機乗員養成所に陸軍が入らせて貰っていた)にて集結、三〜四日待って会文へ出発したが、何故か会文上空に来た時は小生単機であった。
あの日咸興上空は雲一つない快晴で霧の心配等全然念頭になく会文に到着したのであるが、上空より初見の会文は一面霧の海で牧場(牧場を飛行場にしてあった)があるのかないのかサツパリである。止むを得ず他の飛行場へ着陸せんとするも宣徳迄は燃料不足、辛うじて到達し得る会寧(ソビエト国境の傍)飛行場のある北方は墨を流した様な暗雲で今夕立の最中で自信なく、海岸線の平坦地を探すつもりで南西に針路を返したが、不時着すれば機体の損傷は目に見えている、そうなれば終生の誹膀は免れないとまたまた若気の見栄に負けて機首を北方へ向け方位六度とコンパス測定し、目測で風速を出し会寧飛行場を目指した。
然し発達中の積乱雲の恐ろしさは南方空輸当時の台湾坊主で身に泌みて居るので心細い事この上なし、もし航法ミスが有れば雲中降下で山に激突全員即死か、越境してソビエト軍に撃墜されるかの瀬戸際に立たされて生れて初めて膝が震えた。
漢口で戦闘機の時は空中戦でもどうもなかったのに膝が此処で震えたのは矢張り同乗者が居た故だったと思う。心配そうに見つめる紅顔の少飛兵の瞳が私を男にして呉れたと思う、絶対に失敗しない…と。
然し強運にも高度四五〇〇米から雲中降下、ビクビク、ガクガクしつつ雲の中の長かった事、僅かの時間を今激突か、今激突かと降下して七〇〇米の高度計を確認した途端周囲を雲の流れる山峡の会寧飛行場のピストの真上に出た時の嬉しさ、全員が吠えた。右膝の震えもピタリ、吹流しも下ろす直前でT型布板を確認するや早々に着陸場周経路もろくろく廻らず大型機(彼等にはそう見えた)が着陸したから、又又飛行場は大騒ぎで直々飛行場司令の誘導でエプロンに行き、不時着報告もそこそこに町の旅館に案内して頂き、その後数日間毎夜国境の町でカフェー通いをし、命の洗濯をさせて頂いたが、その時の同乗した飛行兵の方の名前が憶い出せないので誰か判ったら教えて欲しいものである。
六 会文飛行場 上へ
昭和二十年初夏、会文飛行場に於て薄暮飛行演習を行なって居た時のことである。昼間の体当たり専門の訓練は依然として続いて居たが、この頃から夜間訓線が始まり、教官、練習生共に張り切って居た。
あの日は飛行中時々霧に入り視界を遮られる天候で、あまり夜間飛行訓練向きの天候ではなかった。薄暮飛行と言っても完全に日暮れて会文飛行場の急ごしらえの夜間照明が点灯してあった。
気流も少し荒かったが、どうにか所定の科目を終了し着陸が始まり、私も降下着陸の為第四旋回後七〇米位の高度になった時、突然視界ゼロとなり、ハッとした瞬問、着陸復行を考えたが、もう少し下がって見よう…とその侭の姿勢で降下、小さな霧の層だったらしくすぐ照明が視界に一戻り、難なく着陸する事が出来た。が然し、次に降下して来た機が事故を起し地面に激突、夜空を染めて炎上する姿を地上滑走終了間際に準備線の直前で見た。全員死亡の為情況判断以外にないが、恐らく彼等もあの霧に入ったと思えるので、
一瞬着陸復行に切り換え操縦桿をゆるめた為失速墜落したのではないかと思う。機体は地面に激突、乗員は機外に幾体か投げ出されて炎上した。
運悪く事故機には練習生(特操二期)と機上機関のみ搭乗して居たと聞いている。投げ出された遺体を後日火葬にしたが、五体か六体あった様な記憶があるが、それより明確に憶えて居るのは雨降りの日に焼いた為、途中で積み上げた薪の火が消え、ドラム缶でガソリンを運びバケツで何回も掛けて漸く焼き切ったが、その晩のしかばね衛兵に立った時の燐の多く登る光景はさすがに凄く、あたかも魂の乱舞するが如き感ありて、同僚の方と共に個人の冥福を祈って夜を明かした。
七 終戦、復員 上へ
昭和二十年八月十五日、敗戦の日より旬日を経ずして宣徳付近に駐機する航空機全機に対し、入院中の傷病兵及び邦人妊産婦の方を三十八度線以南の米軍占領地域迄空輸する命令が出て、複座機以上相当数の機が集結空輸の任についた。その際の打ち合せにより、飛行場に赤のT型布板が出た時はソ連軍使が来た合図にして着陸しない様決めて出発し、
一回目は悠々と任務を遂行し二回目か三回目かはっきりしないが兎に角終って帰り、上空より飛行場確認、T型布板の白もその侭なのになぜか全機ペラを止め悠然と?(上空より見た感じではそう見えた)して居るのが少々変だな…とは思いつゝ白布板を信じて着陸して見てやっとソ連軍使到来、離陸禁止と知り憤慨し落胆するも後の祭り、兎に角何としても離陸しなければ捕虜と言う情け無い運命が待って居る。
兎に角離陸だ。夜間飛行が出来る出来ないは後の問題として日没と同時に飛び立とう…
と僚機(特攻編成時の少飛生)と相談し直ちに燃料補給に掛かった。それを見て他機も補給する準備をし初めて居た。
吾々は全機(六機)補給終り待機線より一斉離陸する為、当日の風向に正対して日没を待って居た所(午後三時頃と記憶する)本館三階の窓より一兵士の手を廻す姿を見付け「プロベラ廻せ」の合図と自分で決めた。手動で始動、病人その他は待機中に全機乗せ終って、飛び上がれば良い状態で待って居た。その上私の機には各機を尋ね歩くだけの力の無い重患の兵員一人余分に乗って通路に横に寝て離陸を待って居り、滑走路次第では浮揚するや否や…甚だ心もとない有様で、出来る事なら少しでも陽の有る内に離陸出来れば…と願って居たので、機を逸しては…と地上試運転などそこそこ一気に離陸滑走に入り、僚機と共にどうにか離陸して、さて行く先を何処にするか機上で考え、今から明るい内に降りられる飛行場は平壌(ピヨンヤン)が最も好条件と判断し、西南に編隊を誘導したが、もしか平壌も軍使が入って居るやも知れないので上空で充分見極めるつもりで飛行した。僚機以外にも後に続いて居た様子で責任を感じて勇み立った記憶がある。
幸いソ連の手はまだ入って居なくて全機悠々と着陸し、格納庫で寝るべく毛布一枚持って格納庫に入った。重患の兵員のみは緊急時に備えて機内に残して来たが、夕方(日没間近だった様に記憶する)突然爆音が耳に入り、慌てて庫外に出て暮れかゝった空を見て愕然とした。
見慣れないソ連偵察機が二機飛来し、内一機はすでに着陸すべく場周に入って居た。慌てゝ格納庫に飛び込み全員に出発を告げ、荷物はその侭、人員のみ飛び乗り、夜空でも止むなしと手始動に入った。吾々の横に襲撃機の一隊が停止して居たが彼等も事態の急変を知り、急いで機関始動に入ったため、あたかも戦闘機が迎撃態勢に入った様に見えたらしく、監視の為一機上空に残し着陸して来たソ連機一機もその侭離陸し、夕暮れ迫る北の空へ消えて行った。
やれやれと安堵したものヽ再び飛来されてはと暗くなる頃迄機を離れず、夜になって漸く格納庫で睡眠を取り、次の日早朝水原飛行場目指し喜び勇んで南下し、無事輸送を終り、元の四十一教飛に合流し次の空輸(新義州)指令を待って居た。
その頃の朝鮮半島は各所に暴動が起り、邦人の資産強奪の噂が毎日流れて居たが、軍隊との摩擦だけは流石に少なく、仁川に於て米軍将校二名が斬られたとかで軍刀に封印されたが、戦時中も別に抜く必要もなかった刀を封印されても余り感ずるものは私にはなかったが、その後に襲った事件が運命を決した。
永登浦の防空戦闘機が遂に義慣やるかたなく、京城市内の暴徒の集団に突込み自爆したとかで友軍機全機の飛行を禁止され、点火栓を抜かれ、吾等部隊全員飛行場を撤退し、完成間近の元陸軍病院(町外れ)に入れられて、甘薯作り等しながら本国帰還の日を待って居た。
その頃、ソ連占領地区より歩いて帰ったと言う飛行兵二名(内一名は内田さんだった様な気もするが?)朝鮮服のボロと足の見える様なボロ靴と言ったスタイルで辿り着いた。聞いてみると帰る途中朝鮮人集団に襲われて身ぐるみはがされたと聞き、その時からあの国の人が大嫌いになって現在に至っている、それ迄は好きだった、少飛にも千田さんという人もいるし、水原時代の伸良しの友達に京城三仲井百貨店の洋品売場の人もいたのでとても残念であった。
失意の内夏も去り秋に入った九月の中頃、部隊を小中隊編成から各県毎の編成に変え、鳥取県は私と鈴木とか言う上等兵の人とたった二名の編成で釜山へ向けて徒歩で出発した様な気がするが、何故か道中の記憶が少なく、疲れて小休止する際少しでも眠りたいので交替で部隊行動に合せる様にしようと話し合っていたが、彼の不寝番の時油断してウトウトとして部隊に遅れ、必死に追いついた事や、その後は最後迄いくら疲れても眠らず苦労した想い出、彼が休憩のたびに死んだ様に眠る無邪気な寝顔を見て兵隊は呑気なものだなあ…と感心もし、羨ましく思ったりした事位である。
漸く釜山の少し手前(北方)のキホ(当時そう呼んでいた)と言う町で若干の期間駐屯し、少し東寄りの「東らい」と言う温泉町の小学校に宿営、約一週間位(二、三日だったかも知れない)駐屯したが
その間の楽しかった事は忘れない。兎に角無心に眠る事が此れ程体調を左右する等と考えた事もなかった。毎日楽しく温泉に入るため小学校から電車でホテル通いをしていた。
その内どこから入った情報か不明だったが、引揚船が「ウルサン」から出るとの事で「東らい」を引き払い「ウルサン」に向け一日位歩いて到着、これで後は船に乗るだけで本州に帰れると全員解放された様な気分で呑む者、歌う者、大騒ぎ。
漸く寝静まった翌朝の午前二時頃、非常呼集が掛り、皆眠りと酔いに朦朧としている所へ大声で出発準備と叫ぶのが聞こえたので、船に乗るのかと思って居た処、釜山へ逆行との事、昨日漸く越えて来た道をまた歩くのか…と考えただけでも気の遠くなる様な現実に全員青菜に塩といった処。
然しそんな事を言って居たら置いて行かれるので何としても行動を起こす事、それには腹の中の朝鮮酒を排泄しなければ長時間の行軍等とても無理と言って生理現象は自由に出来ず、止むを得ず喉に指を入れ強引に嘔吐する以外に方法はなく、泪を流し乍ら吐き出したが、皆さんも考える事は同じで、あちこちでやって居た。
どうにか吐き出して出発の流れに入り、昨日苦労して越えた道へ逆行軍を開始したが、その苦しかった事、苦しかった事、今でもハッキリ記憶がある。兎に角頭がガンガンして痛い事、それに夜明けと共に昇って来た太陽が眩しく、まさに黄色な太陽とはこれ、いくら若者と雖も願いは路傍の草むらに横になりたい…只それだけを願い、夢遊病者の様な行軍を続けた。
途中の小休止でも油断すれば寝込みそうで必死で眠気を振り払い、出発の号令と共に鈴木上等兵の手を引きづり、どうにか皆さんの群れにはぐれない様にして釜山港に辿りついた時は、もうヘトヘトで埠頭の建物の床(コンクリート)でグッスリ眠り、乗船人員の操作で二日位後の連絡船(雲仙丸?)で大シケの玄海灘を越えて博多港で上陸したのは十月に入って居たと思う。
その博多上陸時、水を飲まして貫ったのが少飛生の玉井修治さんで、水筒も一緒に頂き昨年迄私の家に置いてあったが四十年余を経て漸く返すことが出来た。
その後博多より門司迄は列車で行ったが門司駅は復員兵で凄い混雑だった、私は門司の兵站司令部で白米三斗かます一俵受領し、引込線で飯盒炊爨し、眠りに入るべくホームの端に米俵を枕にして横になった
。
その際上等兵氏に、山陰線経由は不通箇所(台風のため)四ケ所、山陽線はニケ所あるので、山陽線経由岡山廻りで帰るから次にもし列車が入ったら出来るだけ遠方行きに乗って、下関行には絶対乗るな(門司駅の次が下関駅)と堅く言って泥のの様な眠りに入った。
何時間か眠ってさっばりした気分で目が覚めて気がつくと、あれ程の混雑が夢の様に辺りに人影はなくホームに閑散としてまばらに人の姿があるのみ、彼の姿もない。あゝもう此処からなら帰れるから一人で帰ったな…と気にも止めず、何時来るかわからないが次の列車を待とうとゆっくり腰を下ろして一時間か二時間待った所へ入って来た列車が大阪行(実際は竹原迄しか行かなかった)だったので、米俵を肩に乗り込み通路に置いて腰掛け代りにした。
(座席は少々空いていた)
海を潜り抜けて下関に着いて驚いた。居るは居るは門司駅の混雑がそっくり下関に移った様に復員兵で下関駅はあふれ返って居た。
列車の停るのを待ち切れず窓から飛び込む者や乗降口につかまって併走する者、大騒ぎの中に彼の上等兵殿泣きそうな顔でもみくちゃになって居たがどうにもならず、そこで永久に別れ今日に至って居る。
そこで特攻機よろしく突入して来た人に群馬県出身の小池曹長がおられて途中の不通箇所迄ご一緒した記憶がある。
ニケ所の不通が最初の所は応急修理の鉄橋で通過し、ニケ所目の所では降りて徒歩通過し乗り継ぎ、広島市の焼け跡を横に見て岡山駅迄辿り着いたのは夕方で、再度駅前の焼け跡にて飯盒炊爨すべく米俵を開いた所へ数人の子供が集まり、何日も食べて居ないので少し呉れとせがまれ、いろいろ話して初めて空襲に依り家も親もない子供の現実を知った。
駅前の交番の巡査に聞くと大体この付近に三十人位駅舎をねぐらにして居ると言われ、皆を呼び集め飯盒の廻し炊きで夜中位迄に残りの米俵が空になった。今の時代では一寸想像の出来ない事だが、経験した吾々にはむごいけれども青春の想い出である。
副食(おかず)全然なしで唯米飯のみを食べ尽した幼児の群を傍で見る吾々(同伴の岡山出身の整備兵)の眼には初めて見る内地の悲惨な光景は何か遠い国の出来事の様に見えた。
その上食べ終った子供達がそれぞれにタバコの吸い殻を何本か取り出して、お礼だと差し出したのには泣かされた。聞いてみると当時物資不足で僅かの物を手に入れるのにタバコ(吸い殻)は最も手に入れ易く交換し易いため、ホームを探し歩いて貯めておくと言っていた。
吾々はタバコ等に一切不自由して居なかったし、又吸うと言っても若者の見栄タバコの様なもので吸うも吸わぬも気分次第と言った程度のものだったので、手持のタバコを(一人に三本か四本位になったと思う)全部渡し、集団の中に居た二人の兄弟が語った身の上話に義憤やるかたなく、駅駐屯の憲兵曹長に依頼し翌朝の列車で神戸迄送って貰った。
二人の身の上は空襲に会い、両親と家を失い、区役所の斡旋で豊岡市の叔父の家に引き取られたが、食糧不足の時代故子供乍ら居りづらさに堪えかね兄弟手を取り合って線路を歩いて何日もかゝって岡山迄来て浮浪児の群に入ったと聞いて、若い血を沸き立たせた青春の想い出である。
以上、四十数年前を想い出し、せい一杯生きたあの頃の出来事を綴ってみたが、人名、場所、日時等皆様の記憶と違っている点があるかも知れず、お気付の点があれば是非お教え頂ければと願うものである。(了)
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平成2年6月発行
「第41教育飛行隊 隼18434部隊 少年飛行兵たちの回想」より転載
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