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 「第41教育飛行隊」
隼18434 少年飛行兵たちの回想


全文掲載

これは平成2年6月、元第41教育飛行隊員だった仙石敏夫さんが
同期の方達に募集した「思い出の一文」をまとめ、自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

飛行兵生活を顧みて                石 倉 繁 樹さん

 大同で秋も深まった頃渡辺はま子一行の慰問団が訪れた。彼女以外にどういう歌手がいたかは記憶はない、彼女は軍属という身分で半長靴、服装は地味だった。しかし女気のない環境の中ではなんとなくほのぼのとした温かみを感じたのは私だけではなかったと思う。

 そして歌ったのは「長崎物語」これだけ覚えている、元来歌好きだった私は大変感激すると共に親、兄弟を思い出し胸を熱くした。

 水原で最もばかばかしい思いをしたのは燃料のドラム缶を近くの小高い山というか丘というか、そこの上まで転がして隠したこと。満タンのドラム缶は大変な重量だ、 一本を二人でよくやったと思う。これを又飛行場まで戻したのだから大変。

 もう一つはたこつぼ掘り、水原の寒さは北海道なみだ、カチンカチンに凍った地面をつるはしで掘るが鉄板の上をやっているようなもの、しかも小さな破片が顔にハネ返り痛かった。ゃっと出来上ったもののそれこそ一回も使わずに春になった。今度は霜解けでどろどろ、十分もやればでき上がってしまう状態だ、何のため苦しい思いをして掘ったのか、全く腹の立つことだった。

 水原では双練を徹底的にやったという感じだ。特操二期とはやはり一緒だったが後半は彼達の方が着陸などはうまいなと思った、助教や教官などもそれははっきり言っていた。つまりお前達はたるんでいる、しっかりしろということであった。

 編隊飛行は随分やらされた、三機編隊から九機編隊まで、そして飛行場上空を通過したときのそれぞれの機の位置を図で書いておいてくれていたのは自分のくせなどがよくわかり大変良かった。編隊は長機が最も安定性を要求された。長機がふらついていると僚機はついて行くのはむつかしい。又戦闘機のように小型機では地上で編隊を組んで同時離陸をやるが大型機は上空で編成する。したがって長機を二番機が、以下それぞれの順で追って行く、この低空で這いながら追いついて下方から一気に浮き上るような形でポジションにつく過程が実に壮快感があり好きだった。

 下士官上がりの長谷川守正少尉という年配の教官がいたが彼については二つほど印象がある。
 その一つはある日突然飛行場に集合させられた。何事かと思ったら空を見ろと言われ、そしてあれが不連続線だと教えられた。今で言う前線のことである。南に広がる晴天域とはっきり雲の帯が連なっていたのを今でも想い出すことができる。

 もう一つは夜間飛行で彼と同乗したとき飛行場の方向を見失った。そのとき彼は「こういうときは落ち着くことだ」と操縦をこちらに任せてたばこを吸い始めた。当時の我々のレベルでは到底できることではない、ポケモン(ポケットモンキー)という仇名で呼んでいたがこの時はさすがと思い知らされた。

 終戦の前日、新義州飛行場で我々は屠龍の離陸訓練をやっていた。今迄の双練よリパワーがあるので勝手が違い実の所少々戸惑っていたことは事実だ、この日私は地上滑走で出発点に向かっていたがまだ自信がないので大きな不安感があり、やってもうまくいきそうもない、できればやりたくないなどと思っていた。

出発点で百八十度向きを変えOKの白旗を待った。なぜかなかなか旗が振られない。そしてやがて振られたのは赤旗であった。なぜかわからないままピストに帰った。つまり終戦だった。

 この経緯は強烈な印象で今でも鮮明に想い起こすことができる。それはやりたくないといった気持がなぜかぎりぎりの出発点で終戦というそれこそ思ってもみなかった大きな幕切れに結びついたその奇縁にある種の興奮を覚えたからでもある。

 やがて十五日は例の天皇の放送、そして多分その日か翌日か部隊長から訓示があった。それは「これからの日本は武でなく文で立たなくてはならない」と。その時の部隊長はいかにもこの訓示の内容に相応しい態度というか雰囲気であったこと、そして何か本を持っていて英語でも一言しゃべったように記憶している。

 群山では内務の曹長に頼まれて街中の文房具屋さんへよくガリ版刷りに行かされた。塚本(当時の松岡)とコンビで字のうまい塚本がガリを切り私が刷りあげる役だった。この文房具屋さんは長崎出身と聞いたと思ったが正確には覚えていない。

 そして暇な一日のど自慢をやった。中村曹長という人がなかなか上手でたしか優勝したと思う、当時の神谷や私などがその次あたりだったと思う。このように群山は街にも出歩けたし日本人もまだ大勢いた。そして銭湯にも何回か入った。このように当時の群山はと言っていいのか、韓国はと言っていいのか兎に角平和でおだやかであった。 (了)
 

    平成2年6月発行 
    「第41教育飛行隊 隼18434部隊 少年飛行兵たちの回想」より転載


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