「第41教育飛行隊」
隼18434 少年飛行兵たちの回想


全文掲載

これは平成2年6月、元第41教育飛行隊員だった仙石敏夫さんが
同期の方達に募集した「思い出の一文」をまとめ、自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

シベリア抑留記               長野藤一さん

 終戦当時の宣徳部隊の十四期、十五期生の少飛諸兄の行動記録について知りたいとのお話でしたが、どのあたりから書き始めればよいのか判断に苦しむところですが、終戦直前は移動が激しく自分の行動だけは記憶明瞭ですが、何月何日に何処と細部は忘却し不詳です。

 また少飛の諸兄について誰が何区隊だったのか或はシベリアで何中隊だったか余程の事情がない限り忘却しましたので、貴意に沿いかねる点多々あると思いますが、宣徳部隊の歩いた行動について記述すれば判断が出来る事と考え、当時を回想して記述する事といたします。

 書き始めは昭和二十年六月下旬頃でしたが、四十一教飛が大同から水原に移駐してから後にガソリン不足により操縦基本教育全面停止となり、錬成教育のみ教育続行となった頃からと致します。

  一 宣徳   上へ
 あの日は昭和二十年六月下旬か七月上旬だったと思う。四十一教飛も教育停止となり今後どうなるのか皆思案している時に宣徳第二十五錬成飛行隊附の転属命令が私以下数名の助教にあり、飛行機一式双高練六機だったか九機だったか詳らかでないが空路赴任した。

 出発当日は太陽はかんかんに照りつけ唯でさえ汗の出る暑い日であった。エンジン始動の音が冴えて来たので本部を出て暑いので上着を着ず一肩にかけて歩き始めた時、傍の兵舎の窓から誰かゞ(氏名不詳)呼ぶので近づいたところ、紅茶を作ったので一杯と飯食の蓋についで差出してくれた、当時は得がたい物だった、聞けば水飴で作ったと云う。有難く頂戴して飛行機の方向に向かって歩くうち蕁麻疹が発生し、かゆくてたまらず、皮膚を冷やすが得策と考え打合せも簡単に急遽離陸、一高度五〇〇〇米、かゆいのもどうにか鎮ったが間もなく宣徳である。

 「ムッ」とする地上に降りた途端にまたかゆくなり医務室へ行ったが、薬物では完治せず慢性となり、その後入ソしてニケ年余り毎日苦しんだが自然に全治しホッとした。

 余談はさて置き、宣徳へ転属後は水原四十一教飛より転入の特操二期生に百重の未修と特攻訓練を教えたと記憶している。当時は一区隊〜三区隊編成で私は第三区隊で百重保有、他の一〜二区隊は一式双高練でそれぞれ特攻教育を実施していた。

 少飛十五期の諸氏は第一か第二区隊に転入したと思う。 そして七月末頃から当時沖縄を攻略した米軍機動部隊ニミッツ艦隊は突如北上して東支那海に出現した。敵の企図は日本本上と朝鮮、満州との補給路遮断せんとするに在りと判断され、南鮮方面空襲必至との情況判断から当時の在鮮、満、各飛行部隊に特攻隊の展開待機命令が下達された。我が宣徳部隊から一隊(双高練三機)を急遽水原に派遣、飛行第五〇師回長の隷下に置かれた。私は特攻隊作戦指導将校の命を受け特攻隊と同行し、同師団長の指揮下にはいり敵情及び同方面の気象情況等の蒐集に日夜緊張の連続の毎日を送っていた。

 日一日と死に近づいていく気持で夏の暑さも飛行場の緑の草も総て枯れ果てゝ了った様な感が今も脳裏から去ることはない。

 そんな毎日を過ごすうち、月変り八月始め敵ニミッツ艦隊は忽然として我が警戒面から姿を消しその動向を捜索中に敵は反転して東北、北海道方面を空襲した。再空襲に備え依然即応の態勢で警戒していたが、八月六日広島、八月九日長崎とあの忌わしい原爆投下、これに追討ちをかける如く北方、鮮満国境からソ聯軍の侵攻が始まり、八月十五日ボツダム宣言受諾、無条件降伏決定。

  二 終戦   上へ
 だがソ聯軍は既得権益の拡大を狙って侵攻を停止せず、その先鋒は清津付近を南下中で威興侵略は三日後と判断され、各地の占領下の略奪状況は目に余るものあり、被害を少なくする為には邦人の現地離脱あるのみの結論から、既に地上輸送機関は朝鮮人の手中にあり、無政府状態のため使用出来ず、空輸と決定、優先的に病人、婦女子から平壌飛行場に輸送計画が立てられた。

 私等にも師団命令で朝鮮出身の軍人軍属を現地除隊せしめた後原隊復帰せよと下令あり、特攻隊員の半島出身者を現地除隊の手続きを済ませて特攻隊三機は空路宣徳の原隊に復帰した。

 翌朝より部隊保有機全力を挙げて飛行場に集合した病人、婦女子等を乗せて平壌飛行場へ空輸を開始した。私は第三区隊に戻り、百重五機のうち一機(高久機)を除き四機だったと思う、をもって輸送一回終り、格納庫前で二回目の人等を乗せている最中にソ聯の軍使が突然到着し空輸ストップとなった。

 その頃、この空輸応援部隊として水原から真壁中尉指揮の双高練の編隊が飛来した。ソ聯軍使がまだ居るので着陸すれば結果不幸になる事を考え着陸方向指示布板の頭に×の布板を置き、そのまま引き返す事を祈った。辛い在空中に了解し翼を振って水原方向に飛び去ったので安心した。

 また当口興南の海軍研究部の依頼で特殊鋼材(イリジュウムとか云う金属約四噸)をソ聯側に没収されることは日本にとり損害大であるので、日本本土に是非空輸をお願いしたいと申し入れがあり、第三区隊長高久大尉機に之を積載して部隊本部で軍使とゴタゴタして居る間隙を縫って百重単機が夕暮れ迫る宣徳飛行場を離陸、超低空のまま一直線に南の空に消えた。

 ソ聯軍使はその夜だったか翌朝だったか、他の在鮮(日本軍)部隊に向い出発した。その後は内地又は南鮮に転進するのは容易であったが、大勢の同邦を残して去る事は堪え難く、潔よくソ聯側に降伏するのが最善の策との結論から我が宣徳部隊の終幕となったのである。

 八月、下旬になリソ聯軍地上部隊到着と共に飛行機及び他の兵器車両を格納庫に陳列し、飛行場設備と共に進駐のソ聯軍に引渡し、部隊は官舎に引越し、帰国命令を一日千秋の想いで待つ事となっ た。

 この頃、ソ聯軍に百重の操縦法を教える様にとの命あり、相手はソ聯空軍の少佐と名乗るので当方も日本空軍の少佐と云う事で百重に乗り込み、先ず当方が二回程離着陸を実施、次いで相手が一回無難に実施し、相手が「OK」と云うので私が機から降りた後、単独で数回離着陸を繰返していた様だった。

 あとは壊そうが死のうがこちらの責任ではないと早々に官舎に引き上げた。二〜三日して用事のため格納庫へ行った時に見たのはパンクした百重が並んで駐機していたことだった。

 彼等は地上滑走で方向変換する際、内輪を軸に急回転するため内側のタイヤをねじ切ってバンクさせた様子であった。

 之でよいのだ、車輪パンクでは動かす事が出来ない「百重よ、お前達はソ聯へ連れて行かれずに済むかも知れないよ」と心で思った。

 それから官舎生活数日が過ぎた、ソ聯兵の将校が何回か見廻り物色しては何でも持って行った。空家の官舎は現地朝鮮人が荒らして何も残らず、家の外郭だけが残っていた。

 その頃宣徳の箕浦部隊長はソ聯軍参戦以来其の対応や終戦後の対策に心労のため倒れ、高熱を出し闘病の毎日を続けて居られた。そんな状況の或る日私が枕元に呼ばれて、ソ聯軍の要求により作業大隊なるものを編成し、その大隊長を被命した。

 この時から宣徳部隊と隣接する連浦部隊(戦闘教飛)と合併、将校は将校団に、それ以外の者は第四作業大隊の編成要員となった。

     上へ
 将校団の方は詳でないので省略する事にして、

作業第四大隊編成は
 大隊本部
   大隊長 長野中尉     (宣徳)
   副官 某(氏名忘却)准尉 (宣徳)
   主計 宇野宗佑少尉    (連浦)
   通訳 高橋 温      (咸興)
   軍医 浜田節太郎見習士官 (宣徳)
 第一中隊 (宣徳) 二五〇名
   中隊長 上野 顕少尉
 第二中隊 (宣徳) 二五〇名
   中隊長 大塚 明 少尉
 第三中隊 (連浦) 二五〇名
   中隊長 守山 豊 中尉
 第四中隊 (連浦) 二五〇名
   中隊長 辻 守之助中尉

 大隊編成完結により移動近しを感知し、兼ねて準備して置いた格納庫や兵舎の窓のカーテンや落下傘等を使用して各人リュックサックを造り、必要最小限の荷物を各人毎に準備した。

 作業第四大隊にソ聯側より出発の指令が来たのは九月下旬頃だったと思う。

 果して帰国出来るのかどうか、ソ聯側では帰国と云うが何れにせよ移動があれば近づく事であり当日早朝宣徳の官舎横の通りに整列、将校団の方々に見送られ乍らリュツクを背に出発、車では何度も通った威興への道も徒歩は初めて、しかも敵兵に監視されながら。

 昼過ぎに興南小学校跡へ到着、校庭を基地として日本窒素の構内引込線の貨車から埠頭に横づけされたソ聯貨物船(一万噸級)へ距離概ね二〇〇米位の間を人力で運搬する品物は、彼等が各地から掠奪して来た穀物類(米や麦、豆等)や各地工場から解体した機械類や各種モーター類、其の他馬匹、車師等の運搬積載作業である。

 夜は日本窒素の倉庫の肥料の積んだ袋の上で寝て、夜があけると小学校校庭に集まり運搬作業、三泊四日位かけて行ない運んだ数は米だけでも二千五百俵はあったと記憶する。

 夜間用便のため隊を離れると忽ちソ聯兵の掠奪に会う、そのため隊から離れる事が出来ずに用をすますため日を追って数が増え、足の踏場のない状態と悪臭に悩まされた。而も無灯火なので暗黒の世界である、敗戦の憂目を毎日の様に感じさせられた。

 連日の誠意の全く見られないソ聯側の態度に明日からの生活が案じられ、少しでも対策をと考え宇野主計少尉と計り、運搬中の白米を横取りして妙米(イリゴメ)をつくり、携帯すれば相当日数食糧無配であっても心配はないと結論、早速運搬途中を歩哨の目を盗んでは屯(タムロ)する友軍の隊列の中に駆込み炊事係に引き渡す。結局数十俵の米を失敬して妙米を造り、軍足(クツシタ)ニケ宛を一人当りに支給携行した。量としては一人一升位になったと思う。

 之があったので爾後の船旅に大きな役割を果たしたものと確信している。

 船積完了の翌朝人員の乗船となリソ聯兵の誘導で作業第一大隊〜作業第三大隊が乗船、之が終って我が第四大隊が乗船終了したが、出港まで長い時間出港の気配もなくイライラが生じ始める頃やっと出港、夕方近かった。

  三 シベリアヘ   上へ
 出港後は陸地の灯火を左に見乍ら陸に沿って北東進、どうやらウラジオ港方面に向っている事が判断されるが、それでもソ聯兵は日本に向っていると云う。この頃になリソ聯兵は平気で嘘を云い全く信用出来ない事を頭の中に置き始めた。

 二日二晩位かゝり停泊したところは街の灯りの賑やかな港湾の形からウラジオ港と判断された。

 投錨して数時間経ち漸く行先を決定したのか抜錨して出港、また一昼夜かゝってナホートカ港の貧弱な埠頭に横づけになり下船、第四大隊から第三、第二、第一の順で下船した。

 第四大隊は荷物の卸下をするため四〜五〇〇米離れた砂と石の混在する海岸に誘導され、他の作業大隊が下船して何処かに連れて行かれた後に第四大隊の手で船の荷物の卸下が始まった、ここでも二泊三日位かゝったと記憶する。

 宣徳を出て一週間米飯は一回も口にしてないので、船の荷物の卸下作業開始と共に飯盆炊爨を実施すべく、通訳に交渉せしめたが水が入手出来ないと云う。薪は付近海岸に自然放置されていて豊富で容易に入手出来た、水の代りに潮水を使い飯を煮た、久しぶりの米飯だったし塩味もついて美味だったが、潮水煮詰めて塩となりそれを食した後の喉の渇きには往生した。

 こゝでの二泊三日の野宿も石コロの上に霜の降りる頃なので寒く、着のみ着の侭の上に外套を着て毛布一枚の姿で寝るのだが、石コロの角が身体にさゝる様な感じでとても熟睡出来るものでない。

 また毎夜監視兵のダワイ、イヂシュダー(こちらへ来い)の声に怯えた、用を足すため群を離れる時は大切なもの持たないこと、之が鉄則である。相手はマンドリンに似た自動小銃を持っているのでどうする事も出来ない。

 漸く荷揚げ作業も終了し監視兵に誘導されて程遠からぬナホートカ囚人収容所(空屋)に送り込まれた。四重の鉄条網を張り廻らした中に家が数軒あり、どの建物も白ベンキの剥げ落ちた木造平家の建物であった。

 収容所内中央広場に全員小休止し、建物の割当て部屋割をしてそれぞれ家に入り、丸太造りの二段式ベッドの一ケが滞在間の各人の住屈となったのである。

 入居と前後して糧株受領あり、宇野主計の報告に将校の食料は若干異なるがどうするかとの質問あり、今は上下の差はなく共に苦しむ環境であるから調理は同一、差をつけない様にした。

 大隊本部及び各中隊の建物の他、医務室、炊事場、便所等お粗末であるが形だけは整っていた。しかし風呂だけは無く週に一度位他所の公衆浴場に連行されてロシア式のシャワーと滅菌室のある家で頭上から落下する湯で垢を流した。

 ここでの作業はナホートカ港の築港作業、コルホーズ農耕作業、セメントエ場、住宅建築作業、千島、樺大方面から到着する筈の日本軍収容所建設作業等であった。

  四 伐採作業   上へ
 秋去りて白いものが降り始めた十一月下旬、伐採作業に行く事となり、我が第四大隊は二分され八〇〇名が山へ、二〇〇名は残置して現作業続行する事となった。

 この頃、頼みの綱とする通訳が予告なしに何時の間にか何処かに連行され、日常の対ソ接渉が難行を極めた。第一中隊長上野少尉は早大出で英語が出来るのでソ側と英語による接渉をこころみたが、相手には英語を話せる者がなく途方にくれた、さりとてロシヤ語はわかりませんで済まない、相手の話すことを理解して要求通りに行動しなければならないのである。

 毎日定時に歩哨が「カマンジールイヂシュダー」(責任者来なさい)と呼びに来る、通訳を欠いた後は単身彼等の事務所に呼び出され、明日の作業と就労人員数の指示、その他もろもろの事項について打ち合わせをするが大隊全員の運命がかゝっている事であり、手まね足まね一生懸命その理解とこちらの要求達成に努めた。

 敗戦のため異国に連行され、毛色目色の異なった異国人に銃口を向けられ、行動の自由を束縛され、言葉が通じない、日本帰国も全く不明である。 こんな境遇下に部隊の主力から離れ残置される者としては、悲しく淋しさが身をつつむのであろうか、編成発表後是非一緒に連れて行ってほしいと涙を流し午ら頼みに来た方々もあったが、伐採作業と云うものは積雪のある間だけに出来る作業で、来春雪溶けの頃には必ずこゝへ戻って来るからそれまで一時的な別れであるから、心配しないで元気を出して健康に注意して帰りを待っていてくれ、その頃には帰国出来る時かも知れないと説得に努めたが、緊迫した当時の情勢は経験者のみの知る男同志の涙であったと思う。

 出発の日が来て残置組が当日の作業に出発した後、八〇〇人全員広場に集合して徒歩にて程遠からぬナホートカ駅に至り、同駅の引込線に停車中の貨車(無蓋革)に乗せられ発車、機関車の吐出す煙と炭車から飛散する粉炭が私等八〇〇人の身体を覆いながら後方へ流れて行った。

 汽車の針路が気になるのだが全くわからぬまゝ陽が暮れた、人家等見かけない数時間、山の奥深く来た模様で白銀の世界である。仮眠の夢破られて汽車は静かに停った。家一軒ない山奥のセルゲーフカ駅である。
 全員下車、監視兵の長時間かけての人員点呼が終ると行く先知れない山道を歩き始めた、肩の荷物の重い者もあるので十五分歩いて五分小休止とした。時間経過と共に飢えと疲労に声を出す元気もなく、目を開ける力もなく唯黙々として歩いた、小休止の声に崩れる様に雪の上に倒れ、束の間の眠りを貧った。

 八〇〇名の列も疲労と共に長くなり、先頭の速度の調節ほ後の部隊の動きに応じなければならない、また落伍者が出ては一大事である、私も疲れた身体に鞭打って後方に廻り先頭に廻り、全員を無事に何処まで行こうとも連れて行かねば、と去う一念に渾身の力を絞って前後に動いたあの時の言語に絶する苦しみは生涯忘れる事はないと思う。

 かくて苦しい夜行軍を続けて翌日昼頃だったと思うが、山の中のセルゲーフカの旧囚人収容所に到着、宿舎割当を早々にして全員死人の様に寝たものである、この伐採に加わった少飛諸氏もあの苦しさは生涯忘れない事であろう。

 ここの収容所の構造は何処も同様な構造で、広い収容所の周囲には高さ三米位の丸太杭が四〜五列並びに建植され、鉄条網が蟻の這い出る隙間のない間隔で張り巡らされ、四角には監視用の望楼があり監視兵が常時監視していた。

 収容所への出入回は正面に一ケ所だけあり、トラックの出入り可能の大きな門をつくり、両開きの材木製の扉に鉄条網を巻き付けたものが取り付けてあり、入口外側に歩哨の控所(少尉級が長となっている)があり、用事のある時はこの窓口に連絡した。

 入ソして本格的な作業は到着したその翌日から始まった、到底休ませてくれるものではない。

 ここの日課は時間は詳らかでないが起床午前五時頃、朝食五時三十分、作業出発の為の整列六時(各作業班毎に歩哨が付き点呼をうける)随時出発、まだ暗くキラキラ輝く星を眺めながら雪あかりの夜道を出て歩くこと約一時間程、現地に着く頃夜が明ける。 一時間も歩く道は既に囚人等によって伐採済の地域で伐採地域はそれだけ遠のいているからである。

 山と云っても緩勾配である、現場に到着して小憩の後作業開始、ノルマとの闘いが始まる。

  四 伐採作業班の編成について   上へ
(一)伐採班二名一組、大鋸一丁、この組が数十組で一つのグループ構成。各組は二抱えもある原木を切倒して枝を落し 長尺の原木をつくる。

(二)運搬班二名一組、馬一頭、伐採班の切った長尺の原木を鎖で馬に繋ぎ雪の斜面を麓の駅まで引いて運ぶ、生木の重い原本は雪の上でよく滑るのでスピードが出過ぎると危険である。

(三)貨車への積載班
 引込線に停車する貨車に枕木を斜めに渡してその上を重い原木を転がし上げて積載する。長尺で重量物なので大勢かゝり転がし上げ乍ら二本のロープにて操作するので体力を必要とする。

(四)他に農作業や家屋建築の雑作業あり。
 右の各作業にノルマが課せられ、之を完遂する様に常に要求をされる。当初は体力的に余裕があり要求通りの仕事は出来たが、月日が経つと共に体力がなくなリノルマに泣く事になる。

 日没近くなリセゴーニヤ、ラボート、カンチャイ(今日の作業終り)を歩哨に告げて夜空の星を眺めながら帰路につく。各人思い思いに手には採暖用の薪、或は灯火用の白樺の木の皮を持って表門入口で歩哨の点呼を受け、扉が開いて収容所内に解き放されてやっと自由な?身になり、今日一日の仕事を終えてホッとするのである。

 それから八時三十分の点呼まで自分の時間であるが、電灯はなく白樺の皮を燃やして灯火とするのだが家の中で何ケ所も燃やすと煤煙がひどく、朝起きた時の顔は煤で真っ黒であるが、皆同様の顔であるから相手を見て笑う者もいない。さて、午後八時三十分になると全く嫌な想いを毎夜していた。それは点呼である。彼等は人員点呼に一列、又は五列、又は十列でないと数えられない、数える途中でおかしくなりまた元へ戻って一から数え直すのが再々である。それがソ聯軍将校であるから驚くと共に、こんな頭脳を持った奴等に降伏したのが残念で仕方がなかった。

 凍てつく夜の雪の上で寒さに震えながら早く終ってほしいと願う気持は全員の気持だっただろうと思うし、彼等の知能の巡りの悪さにも強い不満を持ったと思う。

 以上が入ソの年の冬の伐採作業の日課である。

 日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、南方作戦のため全くの無防備となった北方を火事場泥棒の様に侵略し来り、健康な男性を根こそぎ連行、その労働力を自国の戦災復旧に当て満州、北鮮、樺太、千島の産業施設の官営、民営を問わず総ての施設を之等日本人を使って解体、運搬、設置使用した。

 こんな勝手極まる泥棒の手伝いをする必要は更にないと考えるのは普通であろうと思う。

 穀物にしても多量の米穀を持ち去ったのに私等には一度も支給されなかった。小型マッチ箱大の一片の黒バンと雑穀のスープ少量、平常給食の三分の一の量である。之では作業も手抜きして作業量を減少しなければ身体が持たない。生命を落しては永久に日本に帰れない。ところがソ聯(共産主義国)は手抜き防止にノルマと言うものがあり之を達成しない者は処断される様に出来ている。

 土を掘るにも材木を切るにも之等を運ぶにも、煉瓦をつくるにも何をするにも事細やかに一人一日のノルマが定められ、之が達成されない時は時間延長して達成するまで実施し、それでも未だ作業が残っていて切り上げる時は給食減量である。

 之と反対に規定時間より早く完成した上、時間内働いた時はその分食糧増額支給であると彼等は説明する。この頃はまだ体罰がなかったので幸いだったが二年後半になる頃には早く帰国したい一心から発していると思われるが、スターリンに忠誠を誓い生産向上を叫ぶ洗脳教育が始まる頃になると、ノルマの達成出来ない者はサボタージュした者として、収容所内に設置したボックス(人間個別に中に入れる、内部は一人立つ事が出来、屈む事は勿論坐る事が出来ない細長い建物)にソ聯軍の歩哨に強引に入れられ、朝迄鍵をかけ放置される。

 凍死しないのが不思議な位である。朝の点呼時に全員をボックス前に整列させて鍵をあけ、中から出して皆のみせしめにした。

 生産向上を叫びノルマ達成させようとする彼等(洗脳された日本人含む)の仕業には涙を飲んだものである。

  五 収容所生活   上へ

 余談はこれ位にしてセルゲーフカ収容所生活中に発生した問題で四、五件程回顧してみると

(一)入所当初は皆若年で体力的にも余裕がありソ側の要求に或る程度応じ得たものと思うが二月頃栄養失調状態が現われ始めた、それは歯茎の間から出血が始まった。その症状が日一日と人数が増加し始めた、ビタミン不足である。

入ソ以来野菜は一度も口にしていない。冬期地上には青い草は何もない。そこで考えた。毎日伐採している常緑樹(多分樅の木と思う)の緑の葉を昼食時に焚火で飯盒の粥を温める時に之に入れ、 一緒に温めてその粥を食べる事にした。これによリビタミン補充が可能かどうか不明であるが全員が之を励行する事にして心に祈りながらその経過をみた。

一週間から十日経つうちに出血が全員止りその成果には大きな喜びであった。

(二)身体の動作が緩慢となった事である。
原木を切り倒す方向が山の傾斜面に横になる様倒さなければならないのが、何等かの原因で山上に向い縦に倒れた場合、雪のため辷り落ちて来る場合がある。自分に向って突進してくるのだから早く逃げなければならないのだが、分っていて気ばかり急いで身体がついて行けないため、切株と走って来た原木に挟まれ足を骨折した事故もあった。伐採する常緑樹は成長が良く成長の遅い白樺の木等の雑木は取り残されて大木の枝の間を縫う様に細く長く伸びていた。雑木は切らないで大木だけを切る。倒れる時にはそれ等の雑木を押し倒しながら枝葉に積もった雪を散乱させ雪煙を上げて倒れて行き、押し倒される雑木は凍っているので弓なりになった頃、大きな音を立てゝポッキリ折れて根本側は凄いスピードを以て復元する。同時に大音響を発して大木は大地に横になり、粉雪が舞い暫くはあたりが見えない。この時が要注意の時で折れた小木がはね返る時に枝木を折れた付近に引っかけて跳ね飛ばし、矢の如く飛来するからである。不幸にも少飛十五期生大平孝長君は作業中飛来した木の枝が頭部に命中し、防寒帽の上から突き刺さり、その場に倒れ即死状態となり異国の空で遂に帰らぬ人となった。大平君の場合も栄養不良から身体の動きが鈍く瞬間避ける注意力があっても身体の動きが即応しなかったものと考えられる。雑木を切り急造の担架をつくり収容所に運び、ソ聯側に話して寝棺を取寄せ遺体を納棺して当夜のお通夜は凍傷の作業休二十数名が徹夜で故人を弔い、翌日収容所横上の山の斜面に穴を掘り丁重に埋葬した。

ロシア人は火葬を嫌い許可しない、千島方面から来る鯨や鮭等も決して焼いて食べない塩漬そのまゝを生のまゝ食べるのである。

国で待つ遺家族の方に遺骨をお届けしたい、故人も故郷に骨になっても帰りたいだろう、連れて帰るのが残った我々のつとめであると考え、お通夜の時はソ聯側は誰もいないので頭髪を少し切り取ると共に、軍医に頼み故人の遺骨を作るため右手首を落し、布巻きにして私が受取り懐に隠し持ち、翌日伐採の作業現場の昼食時の焚火でソ聯軍の歩哨の目を盗んで遺骨とし、収容所に持ち帰り名は忘れたが同郷出身者が居たので、遺骨と遺髪別々に服の中に縫い込み、無事に故郷の土を踏んだ時は遺家族の方にお届けする様託した。
(いわき市在住の実姉に会う機会あり伺った所、遺髪は届いたが遺骨は届かなかった由)

(三)次は風呂の問題である。こゝの風呂は日本式にお湯を沸かしてはいるのであるが、材木を何本も四角に組み合わせて桶の様につくってあり、大きさも一度に五〜六人入れる大きさで、 一晩に百人くらい入浴して全員入るのに一週間必要とし、週に一度の入浴である。

 その排湯であるが翌朝になると湯は水になり之を屋外に排水するのだが、毎日の事だから谷間に流れ出した水は流れるうちに氷となりだんだん積み重なり一面の氷原となり、遂に風呂場と同じ高さとなり風呂場の床も氷に開ざされ、排水不能となり風呂を沸かす事が出来なくなった

 氷の除去を思案したが、谷を埋め尽くした一面の氷原には手の下し様がなく、山を去るまで二ケ月余り人浴が出来ず、水洗の設備なく雪で顔や手足を拭く始末であった。

入浴停止してから半月も経つと少なかった蚤とピンデ(南京虫)が急に増え、夜は熟睡が出来なくなり暇さえあれば之等の駆除に勤めなければならず往生した。

電気も灯油もなく夜は屋外は雪明りで歩行等に不自由はないのであるが、屋内は一寸先も見えない暗闇で、難敵のピンデや蚤をとる事も出来ない、その時に発見されたのが自樺の皮を燃やす事であった。大変よく燃えて灯火の役目を果たしたのであるが煤煙の副産物には閉□した。毎朝各人の顔は煤煙で真っ黒になり紅顔の美少年も台無しの姿である。

(四)次は作業休の病人の事である。ソ聯軍の軍医は女医が多く能力的には日本軍の看護婦の方が優れていると思われた。病休か否かの診断は熱三十八度以上であること、栄養失調による者に対しては腹の皮をつまんで離し復元の時間によって決める等、之等は各ラーグル共通の事であるが、こゝでの病は凍傷(足指)であった。指先が黒くなり全体が腫れて膨張し靴を履く事が出来ない。

手製のサンダルを作り履いているが重労働は無理と考え、毎日二〜三十名のこの患者を作業休にするため「凍傷等は病ではない作業に出せ」と要求される。こちらは「病人だ」と譲らず一歩も引かず最後まで通した。

この頃であった。凍傷の嵐の吹く最中、或る日西川氏が戦友一人連れて私の前に現われた。その戦友の説明によると西川は強度のドモリで悩んでおり、今回の凍傷により皆と共に作業に出られなくなり、毎日ノルマで苦しむ戦友等に申訳なく苦痛であるのでこの際出来れば大隊本部当番勤務にでもしてほしいとの事だった。

本人に正してみると成程、納得である。このときはソ聯軍の収容所管理事務所の当番勤務だったか、大隊本部の当番勤務だったか善処した様に記憶している。

(五)次は言葉の問題である。或る日突然に異人種、社会風俗、生活様式、言語の異なった国に強制収容されての強制就労である。その情勢下に於て他の事はともかくとして言葉の通じない事は不自由この上ない、頼みの通訳不在となると尚更心細い。

毎日作業に出る各グループの指揮者も毎日この想いで居た事と思う。日本語の通じない世界である、彼等の言葉をこちらが理解しなければ意思の疎通が出来ないのである。

その意味においても語学の習得は真剣そのものであった。対面するロシア人の口元を注視してその発音要領を真似ながら、先ず数字の数え方から始まり、各作業場の名称と衣食住等の必要の最小限から始まり、毎日午後三時三〇分からの明日の作業と差出し人員の打ち合わせをソ聯側の事務所で行なっているが、之が解って来た頃には春となり伐採作業中止になり、故大平孝長君の霊に別れを告げてセルゲーフカを後にナホートカに戻った。残置二〇〇名の待つラーゲルには戻れずに山一つ離れたテント張りの山の斜面に新設のラーゲルに送り込まれた。こゝの作業はナホートカの築港工事が主で、 一部コルホーズや煉瓦工場、住宅建築等の作業で、総員二千五百名程の大世帯であった。収容所のある山の斜面の下は築港の作業現場であり、山の作業現場の様に朝暗い内に起床する事もなく、夕方西空に太陽のまだ残る頃帰る事も出来、電灯もあり設備もどうにか整備され、人数も多いので対ソ的に波風立つ事なく、ひたすら帰国の出来る日を待つ毎日であった。

 六 帰国   上へ
 かくして昭和二十一年十一月、嘘か誠かダモイの指示があり、宣徳部隊、連浦部隊の諸氏が喜び勇んで山向こうの最初入った収容所第一ラーゲルに向った。

 この時の帰国者は何名で、尚残されたのは何名か詳らかではないが、殆どの方々は帰国出来たと思っている。

 復員後知り得た所ではシベリヤでの死没者は八名(少飛関係一名大平孝長君、徴収兵五名、下士官二名)となっていた。私の連れた八〇〇人の内死没者一人だけであったので、ナホートカ残置者の内から七名の死没者が出たのか、帰国のため私と別れて後死亡されたのか詳らかでない。

 私は入ソ以来その不当要求には強く反対したのでソ聯に不利益を与えたとして残置され、皆様と一緒に帰国出来なかった。ハバロフスク方面より帰国のためナホートカに送られて来た人等のうちふるいにかけられ残された憲兵、警察官、特務機関員、外交官等に奉職していた人等約三十名を連れウラジオ第二収容所に送られた。このラーゲルは収容総員約千五百名で内将校は五〇人程が居た。

 洗脳と作業参加の嵐の中で運動に反対する将校約三〇名が居り、対ソ交渉を図って改善してほしいと相談を受けるに至り、極秘行動の必要から夜間消灯後全員寝静まる頃を見計い、ソ聯軍医室の無人部屋に秘かに集まり、協議すること数回。結果、要求書を提出する事に決定。 (途中脱落者あり最終的に十五名)現在地の収容所長宛とウラジオ地区管理所長宛と沿海州地区管理所長宛に対し次の様な要求書を提出した。

一、私は今後一切の作業に参加しない。
一、私は今後思想教育や集会等には参加しない。
一、私は自己の意志により意志表示するものであり他人の意思に同意するものではない。
一、この要求事項は西暦〇年○月〇日より実行致します。

 あくまで個人の発意である事に意を用い個人別のサインをした。本書提出には幹候出身の井出少尉の大変なご努力によるものがあった。その実施日から一室に全員集結し起居を共にし約二週間、ソ聯側より何の音沙汰もなかった。

 或る口突然にヤポニーダモイ(日本に帰る)の声がかゝり、十五人中十三人はナホートカ経由帰国した模様だったが、私と井出少尉と作業部隊に居た憲兵、警察官等二十数名と共に、少し離れた奥地アルチョムのラーゲルヘ送られた。

 私は当然受けるべき権利を主張するし、彼等はソ聯邦のため不利益な行為として軍法会議の一歩手前まで行ったが、幸いにして残留将校約八十名の一人として昭和二十五年一月末に舞鶴に上陸復員した。同容疑で軍法会議にかけられた方々は二十年〜三十年の刑を受け、其の後恩赦の名目で昭和三十一年に全員帰国した。

 明治時代に日露が戦いロシヤ兵の捕虜が日本各地の収容所に収容されたが、戦が終ると共に帰国した。その事への仇敵と考えているのか、 一方的な勝手な振舞いに満州、北鮮、樺太在住の日系人約七十万人を粒致し、不良給食の上労働を強要した事は、彼等は国家としてどれだけ利益があったのだろうか。彼等の行なった非人道的な行為が歴史上の事実として、私等日本人の心の中に永久に伝えられる事を知っているのだろうか、と考えてみたところで所詮は敗者の寝言にしか過ぎないと思ったりするのである。

 想えば、浜松で編成して部隊より一足先に単機大同での設営のため機関係と主計を同乗して浜松―平壌―北京―大同に至り、野戦糧林廠より第四十一教飛の五百名一ケ月分の食料、被服、鍋釜、机、椅子等十八台のトラックに積載、運搬、配置して部隊を迎え入れ、或は中支揚子江、九江上空にて艦艇のため撃墜された事故機の事故調査のため同地に飛んだり、北支軍司令官阿南中将の搭乗機としても各地を廻った事もあった。

 又、水原移駐に際しても前回同様単機先行し、朝鮮軍司令部に赴き挨拶と部隊移駐の為の設営作業をして部隊を受け入れた。

 変り種として部隊副官の平野中尉と二人で水原警察署に数回足を運び、水原市内の財閥を説得して市内に慰安所を開設したり、短期間であったが四十一教飛の移動の橋渡し役を勤めた思い出は苦労もあったが、やり甲斐があり楽しさもあったが終戦後の行動は全く裏腹になってしまった。(了)

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    平成2年6月発行 
    「第41教育飛行隊 隼18434部隊 少年飛行兵たちの回想」より転載
      ※(自費出版他発行分NO.11)


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