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 「第41教育飛行隊」
隼18434 少年飛行兵たちの回想


全文掲載

これは平成2年6月、元第41教育飛行隊員だった仙石敏夫さんが
同期の方達に募集した「思い出の一文」をまとめ、自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

北鮮脱出行               松丸 信さん

 宣徳で混乱の終戦を迎えた数日後、平壌への空輸作戦が発令された。

 しばらく飛行していないので離陸準備がなかなかはかどらないので、準備の出来た編隊から離陸する。平壌へ着陸すると飛行機は折り返し宣徳へ空輸に引き返す。将校の家族、空中勤務者とピストン輸送で平壌へかなりの人数が集結したようである。

 次は平壌から南鮮への脱出であるが、水原からの迎えの飛行機も加わって水原飛行場への輸送が始まった。どのくらいの人数が出発したであろう、ソ連軍が来るのも間近になった頃、いよいよ自分達の順番がきて横井と一緒に搭乗した。

 ところが、いざ出発となり人数を確認すると家族連れが搭乗したので定員オーバーになってしまった。

 さぁ、この最後の飛行機から誰が降りるか一瞬機内が騒然となる。

 結局、二名降りなければならないが、見渡したところ二名のグループは我々しか居ない、止むを得ずここで飛行機から降りなければならなくなってしまった。

 飛行機を見送ると間もなくソ連機が着陸体制に入っている。飛行場から少しでも早く離れようと取敢えず駅へ徒歩で向かう。

 平壌駅へ着いてみるとここで兵器は没収される。しかし、このままじっと居ればソ連兵が来るのは時間の問題である。南鮮へ行く交通手段はもう歩くしか残されていない状態になってしまっている。

 横井と相談して道中の事は何も分からないが、駄目になって元々、とにかく何処まで行けるか平壌から南へ歩いてみようと決心して鉄道をコンパスにして出発した。

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 歩きかゝって少しすると朝鮮人による自警団に止められ、持物、被服を順番に取り上げられ、二、三回で裸になってしまった。替わりに貰った白い朝鮮服を着て、これは鉄道、道路から離れて歩かなければこの先とても三十八度線を越えるのは無理だと判断して山道を選ぶ。 一日歩いて山の中で野宿し、夜が明けて下を見ると、なんと大同江と平壌飛行場がまだすぐ近くに見えている。

 がっかりしながらも前途の多難は覚悟の上で気を取り直して南と思われる方向へ歩き出した。人家のなるべく少ない所を通り、夜は橋の下で仮眠するのが自警団にも見付けられず安全だとわかってきた。

 しかし、金はなし、身分を証明する物も何もないという事は実に不安なものである。食糧を買うことも出来ないので畑にあって食べられるものを探して僅かに飢えをしのぐだけである。だんだん月日の観念が薄れてきて平壌を出発して何日目なのかも分からなくなってしまう。(横井君によれば新幕より三十八度線まで貨車)

 やっと三十八度線を越えた所(地名不祥)で釜山行きの列車が出るというので、もしこの列車に乗らなければ内地へ帰る事は出来なくなってしまうだろうと必死で列車にもぐり込む。列車は無事に走り出した。先ずやれやれと胸をなで下ろしたが、次の心配は水原である。

 先発した部隊がそこに居るかどうか。もし居なければと二人で迷いに迷う。もし居ないと仮定すれば釜山へ向かっている筈、ままよこのまま釜山まで行ってしまおうと結論を出した。

 なんとか釜山までの長い道のりを乗り越えて来たが、このままの服装ではなんともならないので、兵站部を探して事情を説明すると、食事はさせてくれたが、被服、証明書はいくらねばってみても駄目である。

 乗船場辺りを探してもまだ部隊は到着していないらしい。埠頭周辺には一般邦人の引揚者がたくさん野宿をして乗船を待っているので、その中に入っていた。

 何日目だったか、 一般邦人の乗船が始まった。
横井と相談して「よし、これに紛れ込もう。目立たないように別々に乗船し、うまく乗船出来たら一番船尾で落合うことにしょう」ということで別れ、それぞれ手頃な家族連れを見付けて家族の一人になりすまして乗船してしまった。

 早速船尾へ行ってみると横井もうまく乗船に成功して既に待っていてくれた。出帆するまでは物陰で隠れるようにしていたが、岸壁を船が離れてしまえば、もうこちらのもの、やっと夜露のあたらない所で身体を休めることが出来た。

 仙崎へ上陸して、先ず復員援護の事務局を探し、平壌以来の事情を説明すると、復員用の切符はくれたが被服はここでも駄目。止むを得ずそのまま汽車を乗り継ぎ、名古屋で横井と別れいよいよ東京へ到着した。

 ところが自分の家の辺りは見渡す限りの焼け野原である。行く当てもなく途方にくれて、しばし呆然としていたが、熊谷の飛行兵の家を思い出しとにかく訪ねてみることにした。

 するとよく無事で帰って来られたと非常に喜んで迎えて頂き、そこで約半月お世話になっているうちに家族の疎開先も判明し、やっと家族の元へ帰る事が出来た。

 その後、復員局へ行って事情を説明すると軍服一揃いをくれて一切終りであった。(了)

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    平成2年6月発行 
    「第41教育飛行隊 隼18434部隊 少年飛行兵たちの回想」より転載


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