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 「第41教育飛行隊」
隼18434 少年飛行兵たちの回想


全文掲載


これは平成2年6月、元第41教育飛行隊員だった仙石敏夫さんが
同期の方達に募集した「思い出の一文」をまとめ、自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

思い出 大同T 青空・はるよ        玉井修治さん

 先日の大阪において開かれた大同会の折、仙石君から当時の思い出を何か寄せてくれと頼まれたが、かねがね、思い出としてはいろいろ頭の隅にあるのだけれど、さて文章にするとなると仲々まとまらず、九月になってからも東航の同班戦友(井関君)の墓参に渡辺勉君(宇都校)と一緒に福井県まで行ったり、その折アルバムを見せて頂いて、私も覚えていない写真を発見、お借りして帰り、同班十三名の連中に複写して送ってあげたり、相変わらず貧乏ヒマなしといった毎日です。大変遅くなりましたが、思い出の一端を綴ってみましたので、趣味と言って快よく組版(ワープロ)をしてくれている仙石君にお送りする次第です。

  ○ 青空・はるよ
 大同の町に「青空」 「はるよ」といった喫茶店ともバーともつかぬ今で言うスナックみたいな店があった。

 やがて、それが着陸のときの接地バウンドに使われることになった。すなわち、はじめのバウンドで機体が上を向いたときが「青空!」で、桿を抑えて機体が下を向いて滑走路にぶつかったときが「はるよ!」とは誰が言い出したのか、実にうまいことを言ったものだ。今でも思い出として残る名言だ。

 その「青空・はるよ」を繰返し、ついに滑走路に逆立ちのまゝ滑走・炎上をした水原の八六号機には私と板井と小西の二人が乗っていたのだ。(弁解ではないが九機編隊の離陸は私がやり、着陸時には板井と小西がやっていて、私は通路から二人の間に顔を出していたのである。今でもその時ぶっつけた膝に跡が残っている。)

 やっと停止した機から降りようにも、乗降口は上の方だ。とっさに天蓋を開けて「飛び降りろ!」と叫んで、アンテナの支柱につかまって三人が飛び降りたというより、ずりおちたと言った方が適切だったろう。ガソリンがジャージャーと流れている。ベラは錨のようにぐんにゃり、土を取って火災を防ごうとしたが地面の表面が凍っていてどうにもならない。そのうち教官やら同僚、救急車がピストの方から走ってくる。なんともえらいことをしてしまったと呆然としていた三人だった。

 何日かの謹慎で、勅諭の清書を命じられた上、各部隊に回される事故調書にどういう訳か私の名前が一番先に乗っていたので、のちのちまで他の部隊にいた仲間からひやかされることになったのである。

 原因は着陸時の前方機との間隔がせますぎて、その渦流に入って失速したものであるということになっていた。

  〇 三色ライス   上へ
 大同に着任した日に食事を見て驚いた。

「赤飯だ」と誰かが言った。さすが大陸には未だ食糧は充分有るんだなと思いながら口にほうり込んで驚いた。高梁めしだった。

 そして、翌日からは朝が高梁めし、昼が粟めし、夕食が麦めしと交通信号みたいに三色めしの生活がはじまったのである。

 しかも、寒さ酷しい原野の飛行場に運ばれた粟めしはとても口に入るしろものではなかった。今でも時々思い出して現代の食事に感謝しているところである。

  ○ 不寝番事件   上へ
 とりわけ寒さが酷しくなった頃のことだ。我々パイロットに不寝番をしてストーブの火を絶やすなという。睡眠第一のパイロットに不寝番をさせとは問題だと、私は各班のストーブを囲んでの談議を聞いて歩いた。

 もちろん、不寝番に賛成なんている訳がない。みんな「冗談じゃない!」といきまいている。

 よせばいいのに、妙な義侠心を出して私が上司に反対の意見具申を申し入れたのが発端だ。

 全員舎前集合。 富取の意見に賛成の者は前に出よ!」と言われたが、見渡したところ三分の一も出ていない。あれだけストープのそばでブツブツ言っていたのだから、全員同調してくれると思っていた私はあわてた。

 「富取!意見具申ということを知っているか!操典の一節を言ってみろ!」と言われたが、あわてた私はじどろもどろに、暗記していた「意見具申とは…」と兎に角終りまで怒鳴った。

 「ちがう!」 「誰か補足しろ」と助教が怒鳴る。結局、 「おもむろに」と言う語句が抜けていたのだが、 一応、不寝番をやらなくて済んだことは「やって(言って)みるもんだ」と「一人早飲み込みをして出しゃばるな」と言う二つの教訓を私に教えてくれたのだった。(了)

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    平成2年6月発行 
    「第41教育飛行隊 隼18434部隊 少年飛行兵たちの回想」より転載


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