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「終戦の日特集号」  広報ぬまづ 平成元年8月1日号より転載

これは平成元年に静岡県沼津市発行の「広報ぬまづ」に掲載された市民の戦争体験記集です。
沼津市企画部広報広聴課の許可を得て、ここに転載致します。
著作権は沼津市に帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

わたしの戦争体験
 ここでは、様々な立場でこの時代を過ごした市民の皆さんから、当時の体験をお寄せいただきました。

『子どもたちと共に』  遠藤武雄さん(元市立第4小学校教諭)

 私は、昭和6年、師範学校卒業と同時に、新設間もない沼津第四尋常高等小学校に赴任しました。

 その後、昭和22年まで、16年間にわたり、この学校で子どもたちと苦楽を共にしたわけです。

 当時の第四小は、市内の高等科を集約する学校として開設された大規模校でもあり、教育現場には緊張感がみなぎっていました。

 また、戦前盛んだった少年団活動の拠点校でもあり、昭和10年には、近隣地域を含め、五千人の団員が集まり、「岳陽少年団20周年記念式典を」を行いました。

 岳陽少年団は、小学校5年生から高等科の生徒までを対象に、武士道精神の高揚を目的としてつくられ、「乃木祭」や「義士祭」などの行事と共に、団体訓練、規律訓練を行っていました。

 太平洋戦争がたけなわになると、教育の現場での苦労も大変になりました。

 食糧難でもあり、子どもたちも芋や麦を作りに愛鷹や金岡へ出掛けたり、高等科では市内の工場などへ動員されたりもしました。

 空襲の警報が鳴るたびに子どもたちを集団で帰宅させた苦労は忘れられません。

『青春を看護に捧げて』  山橋美代子さん(元沼津市立病院職員)

 戦時中の昭和18年6月、市内本田町に開設したばかりの沼津海軍共済病院に奉職しました。

 戦後、市立病院となってからも私は残り、戦中・戦後の四年間をこの病院に勤務したことになります。

 共済病院は、主として沼津海軍工廠の従業員と家族を対象としていましたが、市民や周辺地域の人たちの治療も受け付けていました。

 海軍軍医大佐が院長となり、その他の軍人にも、後に外国大使となった人など優秀な人がいました。

 医師の中には、終戦後は市立病院に残り、その後市内で開業した人もいます。

 看護婦にも、市立病院や地もとの病院などに残った人が多く、いまでも「共病会」という、OBの集まりを定期的に持っているほどです。

 昭和20年7月の沼津大空襲の晩は、私はたまたま当直でした。

 病院は焼けなかったので、けがをした市民や重傷者が廊下まで溢れていました。

 霊安室も死体がいっぱいで、夏ですからウジが湧き、異様な臭いが立ち込めていた事を覚えています。

 市立病院になってからは、機材も分散し、人員も減少となりましたが、私たちの士気は高く、看護婦の帽子のマークもみんなで作りました。たまたま私が考えた市章と赤十字を組み合わせた図柄が選ばれたことを懐かしく思い出します。

 物資も少なく、楽しみも少ない時代でしたが、皆が心を合わせ、毎日を精一杯に生きた悔いの無い青春でした。

『山西慕情』  高島桃一さん(元県立沼津東高等学校教諭)

 中国山西省こそは、私の第二の故郷であります。

 50年の昔、酷寒暗黒の夜空の下、城壁に一人立ち、夜が明けてようやく戦友の顔が識別できるようになって、ああ生きていたと痛感した半年間の歩哨生活。

 討伐に出た友軍に多数の戦死者がでたことを暗号電文によって知り、激しい衝撃を受けた旅団本部暗号電報班の1年間の生活。

 そして中隊に戻って、帰還命令を待ちわびながら、時には行軍に脱落寸前、捕虜になって殺されるのを覚悟した恐怖。更には、帰還発令の前日になって、戦死者の遺骨を遠く太原の旅団本部に安置して来いと厳命された時の失望落胆。

 そうした異常な体験が、妻子を残して出征した私にもあったのです。しかし、それは、いまは鮮烈な恐怖でも落胆でもなくなりました。長い50年の歳月が、その苛烈さを和らげてくれた_です。

 それなのに、軍務の間に接した中国の少年少女たちとの交歓は、いまなお懐かしく脳裏に浮かんできます。

 侵略国と被侵略国との立場を意識することなく、言葉の障害をも無視して、微笑を持って接し合ったことは深い喜びでありました。

 この50年間、私の胸奥には、いつも荒涼とした山西の山岳と黄土の平原、そして心を開いて笑顔で接してくれた少年少女たちが生き続けていました。山西の自然と人間に対する郷愁と慕情が、老いてますます高まってくる現在です。

『感激の宮中参内』  金指好枝さん(主婦)

 戦時中は青壮年の男子は出征してしまったので、地域のことは自然と女子の手でやることになりました。

 私は静浦多比の生まれですが、静浦では女子青年団活動が盛んで、奉仕の精神が徹底していました。

 御用邸の地元ということで、当時よくご来沼されていた照宮成子内親王殿下(昭和天皇第一皇女)には特にご縁があり、毎年、水仙の花を宮中に献上に伺う習わしがありました。

 私は、昭和18年最後の献上の栄に浴することとなり、12月4日早朝、他の二部落の代表や付き添いの人たちと沼津駅を 出発しました。皇居に入ると、その神々しい雰囲気に身がひきしまる思いで、終生忘れ得ぬ感激でした。

 沼津御用邸にも見学に行きましたが、後に沼津大空襲で焼失した本邸のお車寄せの前には、芝生の小山があり、鶴と亀の置物があって、簡素な中にも厳粛な感じが漂っていました。

 小学校6年生のころ、島郷の学習院寮で岳陽少年団が行う乃木将軍を偲ぶ行事、「乃木祭」に参加したこともありました。

 戦争は本当にいけないことですが、伝統的なしつけや規律は、時代が変わっても絶対に必要だ思います。

『後世に伝える』  鈴川憲二さん(沼津史談会名誉会長)

 終戦の日、昭和20年8月15日のことは、生涯忘れることができません。

 耐え難きを耐え、戦後に迫る国民の苦難に身をもって代えられるとの天皇陛下の御言葉に、感涙止めどもなく、いままで張りつめていた心が、一瞬にして虚脱状態になってしまいました。

 さて、私たち沼津史談会では、会の10周年を記念し、この戦争を後世に語り継いでいくために、昭和46年11月、「終戦前後と沼津空襲被災資料展」を、市立駿河図書館と共同で開催しました。

 これは、市や市民からのご協力、当時の会長、故山田春男(梅軒)氏や役員、会員の努力により初めて開催したもので、予想外に大きな反響がありました。この中では、空襲の区域を把握するために、当方で判っている範囲を記入した白地図に来場者からの指摘で新たに補足する試みもしました。

 そして、出品された資料や寄せられた原稿をまとめ、会誌「沼津史談」の特集号を翌47年3月に発行しました。その後も、2回ほど戦争に関する特集を出していますので、駿河図書館や市民資料室などで、ぜひご覧いただきたいと思います。

 終戦から既に44年。その記憶が次第に薄らいでいくのは仕方がありません。

 しかし、それだけに戦争を後世に伝えていくことがますます重要になります。

 今回の「広報ぬまづ」の特集を契機として、そうした気運が高まっていくことを心から願うものです。

『兄の葬儀と玉音放送』  青木セツ枝さん(主婦)

 昭和20年8月15日、私の兄、歌崎一の葬儀があり、それが終わって間もなく天皇陛下の終戦の玉音放送がありました。

 兄は、昭和17年12月、静岡歩兵第34連隊に入隊、満州独立守備隊に編入され、遼陽に派遣されました。その後、昭和19年2月に南方へ移動、同9月30日(推定)、グアム島の飛行場で米軍の艦砲射撃を受け、玉砕したのです。

 その後、1年近くたった20年7月ごろ、公報で兄の死が伝えられ、この日の葬儀となったのでした。

 葬儀は村葬(駿東郡富岡村・現在は裾野市)で立派に行われましたが、遺骨はもちろん無く、白木の箱には兄の写真とへその緒が入っていただけでした。

 兄のことは心配していましたが、当時は手紙の検閲が厳しく、どこにいるかもよく分かりませんでした。

 グアム島に移ったことも、19年3月に兄から来た手紙の中で、『こちらの気候は三島の大社のようです』という個所から、当時グアム島が「大宮島」と呼ばれていたため、そこに違いないと想像していた次第です。

 私は当時嫁入り前でしたが、母親代わりで家事と畑仕事に追われる毎日でした。

 兄の葬儀と玉音放送が重なった終戦の日。これですべてが終わったと感じました。

     静岡県沼津市発行 「広報ぬまづ 平成元年8月1日号 終戦の日特集」より転載
     (自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.4)



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