『今思えば、命あっただけで幸せというもんです』
山崎まつさん(平口町)戦争体験談
全文紹介
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過ぎ去ってしまったことだから、今は笑って言えますが、あんな難儀は私だけでたくさんです。孫やひ孫には絶対にさせたくありません。戦争は悲惨だけれど、人間の考え方一つで避けられたかも知れません。でも、地震だけは、本当にどうしようもなかったです。
昭和二十年一月十三日の夜明け、平日の家を守っていた私たちを、地面から突き上げてくる大きな衝撃が襲いました。三河地震です。あっという間につぶれた母屋の前で、私は家族の名を叫びました。二人の娘は無事でした。おじいさんもいました。おばあさんは…。養母は廊下からもう少しで外へ出るというところで家の下敷きになり、死んでいました。大事な人を失った悲しみは生きる気力も奪ってしまうものなのでしょうか。三か月後、地震で身も心も衰弱していた養父は母の後を追うように亡くなりました。
家と両親を一度に失ったこの時、主人の義雄は広島の陸軍第二総軍指令部にいました。
母親と父親の死に目に会えなかった主人が、西尾で墓参りをして広島に戻る日、二つのことを言い残しました。
「自分の命もどうなるか分からん。家を建て直さなければいかんが今はどうにもならん。 一文無しになってもよいが、子どもだけはちゃんと育ててくれ。女の子だといっても教育だけは受けさせてやらんとな」と子どものことを頼みました。私は「子どものことはしっかり育てます。石にかじりついても」と返事をしました。
もう一つは「このことは人には絶対言うな。ひょっとすると日本は負けるかも知れん」。当時の戦況はかなり苦しくなっていましたが、 「神国」日本が負けるなんてだれも思っていませんでしたから、私は主人がそう言っても「日本は勝つ」と信じていました。
その後、主人は毎月私と三人の娘あてに励ましの手紙を送ってくれました。私たちは広島からのこの便りを心の支えに頑張っていました。
八月六日。田んぼからの帰り道、 「広島に新型爆弾が落ちたらしい」という会話を耳にしました。ヒロシマ。この言葉に目の前が真っ暗になりました。主人からの手紙が途絶え、不安が一層募りました。
早く主人に会いたいと願っていた私が、広島駅に降りたのは一か月後の九月七日。見渡す限り何もない広島のまちを目の前にして、私は立ちすくみました。通りかかった憲兵に案内されて訪ねた総軍司令部は、板をテントのように三角に組み立てただけの粗末な小屋でした。
中にいた五、六人の兵隊の一人が言いました。 「山崎義雄さんは名誉の戦死をされました。まだ連絡が届いていなかったですか。お骨は山すその寺にあります」。寺までどうして歩いたかは覚えていません。白木の箱がずらりと並び、その一つに「山崎義雄」の名を見つけました。遺骨はほんのわずかでした。本当に主人の骨なのか、 一瞬疑いましたが、「これが主人なのだ」一と自分に言い聞かせました。遺品の軍刀はどこで手渡されたか、はっきりしませんが、それは焼け焦げてグニャと曲がっていました――。
あれから五十年。娘三人を抱えて女手一つで生きるのは、生易しいことではありませんでした。娘たちを道連れに自殺をしようと考えたこともありましたよ。でも今思えば、命があっただけで幸せというもんです。きっと主人や両親が守ってくれたんでしょう。そう思って、今でも、毎晩拝むんですよ。あしたもみんなを守ってくださいって。
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「広報にしお」NO899 1995 8/1号の戦後50年特別企画”この夏 戦争を語る”より転載しております。
転載は、西尾市役所情報課広報親善係のご協力により体験談を語られた方の許可を頂いております。
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