[ TOP ] [ 新着 ] [ 太平洋戦争 ] [ 自費出版 ] [体験記] [ 活動 ]
[ リンク ][ 雑記帳 ][サイトマップ] [ 掲示板 ] [ profile ]

『戦争だけは、体験をしてからでは遅いんです』
小笠原保子さん(宮町)戦争体験談
全文紹介

 私の父は、終戦の二年前、昭和十八年に戦争から戻ってきました。満州に向かう輸送船が沈められ、運良く赤十字の船に助けられたそうです。しかし、冷たい海を一昼夜漂った父の体は、左半身がまひしていました。父は、足を引きずり、茶わんも持てない不自由な体で帰ってきたのです。
 体が不自由なせいか父は気短かになり、家の中でも、なぜか父の体のことを口にしてはいけない雰囲気がありました。でも、私を乳母車に乗せ上町へ牛を見せに行ってくれたり、木琴を買ってくれたりして、父に遊んでもらったことは今も覚えています。
 戦争が終わり、私が小学生のころ、学校で父の体について悪口を言われ、泣いて帰ってきたことがありました。私は父に思い切ってそのことを話しました。父は「お父さんは戦争に行ってけがをしたのだから、悪いことは何もないんだ。そんな悪口を言われたぐらいで泣いてくるな」と言い、初めて自分の体のことを詳しく教えてくれました。それからは悪口を言われても、私はこう答えるようになりました。 「だって戦争がいけないんだもん」。
 父は「こんな体では働くこともできない。まったく情けない」とため息をつきながらも、 一家の大黒柱として精いっぱい頑張っていたと思います。左足が曲がらないので、右足だけでペダルをこぐという方法で自転車に何とか乗れるようになりました。そして、御用聞きの仕事を得て、毎日市内を自転車で注文取りに回っていました。父の収入とわずかな田畑だけでは、家族七人の暮らしは楽ではありませんでした。けれど、貧しくとも家族みんなで生活している、そのことだけで十分幸せでした。
 しかし、この幸せは突然崩れました。二十六年二月、風の強い日に「今夜は寒いなあ。手足がしびれる」と言ってふろに入った父。しばらくして湯加減を聞きに行った母が「お父さんが出られない。手を貸してぇ」と叫びました。父はふろに入ったまま動けなくなっていたのです。恐れていた「病気」の再発。その夜から、父は寝たきりになりました。
 母の献身的な看護にもかかわらず、父の症状は悪くなるばかり。右半身も動かなくなり、流動食も通らなくなってしまいました。
 「今の医学ではどうすることもできない」と医者に言われ、家族はわらをもつかむ思いで神仏に祈りました。しかし、さらに父は声も出せなくなってしまったのです。
 私たちがまくら元を通るたび、父は目だけで私たちを追い、その目にはいつも涙を浮かべていました。言いたいことが山ほどあったのでしょう。でも、声が出せない、手も動かせないのです。どんなにつらく悲しかったことか。戦争のために不自由な体になり、それでも家族のため一生懸命頑張ってきた父。それなのにどうしてこんな苦しい目にあわなければいけないのか…。今思い出しても本当に哀れです。
 家族の祈りもむなしく、三か月の闘病の末、父は息を引き取りました。
 五十回目の終戦記念日を迎える今年この先日本がどんな時代を歩んでいくかは分かりませんが、悲惨な戦争があったことだけは風化させてはいけないと思います。世の中には、実際に体験をしないと学べないものはたくさんあります。しかし、戦争だけは体験をしてからでは遅いんです。戦争を知らない世代は、命の重さを本当に分かっているのでしょうか。平和を求める気持ちを育てるためにも、戦争を語り継いでいく、このことが大切だと私は思います。


「広報にしお」NO899 1995 8/1号の戦後50年特別企画”この夏 戦争を語る”より転載しております。
転載は、西尾市役所情報課広報親善係のご協力により体験談を語られた方の許可を頂いております。
無断で転載・引用は厳禁です。  


広報にしお明細へ
前の戦争体験談へ
自費出版 地方公共団体一覧へ
自費出版の館へ

戦争関連の自費出版、手記の情報を求めています。
どんな事でも良いです。
ご連絡ください。

こちらへ mtake[spica.freemail.ne.jpどうぞ