『生きて帰れない怖さは全然なかったです』
高須正治さん(上道目記町)戦争体験談
全文紹介
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あのころは、私も含めてほとんどの日本人が、戦争に負けるなんて思っていませんでしたね。それに戦場で死ぬことは「名誉の戦死」といって「誉れ」だと教えこまれていました。だから、昭和十五年、私に赤紙(召集令状のこと)が届いた時も、生きて帰って来られないという怖さは全然なかったです。
私は部隊で観測班を命じられました。観測班の任務は、部隊が進軍する時、敵陣近くに潜み、その状況を偵察するという危険なものです。私は、この任務の遂行中、二度も命を落としそうになりながら、 「神国」日本の勝利だけは堅く信じていました…。
その一度目は、最初の戦地、当時はシナと呼んでいた中国でのことです。山岳地帯を夜間偵察するため、道案内を現地の中国人に頼みました。でも、その中国人は敵と通じていて、私たちを敵陣のまっただ中に誘導したんです。目の前に散を発見し、条件反射的に私が「はっしゃぁ―」と叫ぶと、砲声が一斉にとどろきました。その瞬間、私は敵弾を受け、意識を失いました。
私が気がついたのは、野戦病院のベッドの上でした。弾は鉄かぶとを割り、右耳から後頭部へ貫通していました。右耳の聴力は、この時失いました。戦友が言うには、撃たれた時、私は「天皇陸下万歳」と絶叫したそうです。意識を失いながらもこの言葉が出てくるとは、私は「模範的皇国民」だったのでしょう。また、これほどの大けがをすれば、よく生きていたなあと考えるのが普通だと思うんですが、当時の私は、これで「ご奉公」も終わってしまうのかと断腸の思いだったのです。
二度目は、十七年二月、私にとって最大の激戦地だったシンガポール攻略作戦の時です。当時の小隊長は、私よりも少し若い二十二、三歳の、愛媛県出身の小松という人でした。小松小隊長は、軍隊では珍しく部下を大切にする人で、いつか私に、 「おれたちはいつ死ぬかも知れん。言いたいことがあれば、今のうちに何でもおれに言っておけ」と話してくれたことがあります。
その小松小隊長と私が、深夜偵察のため、並んで歩いていると、ビューンと音がして自分の額を何かがかすめました。と、同時にドサリと音をたて小隊長が倒れました。
「小隊長」と叫びましたが、答えが返ってきません。近づいてみると、小隊長はすでに絶命。即死でした。私の額をかすめた敵弾が、隣の小隊長の心臓を貫いていたのです。その時、もし私が一歩早く足を踏み出していたなら、小松小隊長と立場が逆転していたでしょう。さすがの私も、この二度の体験から、″死ぬ″ことだけでなく″生きる″ことも考えるようになりました。
終戦から数えて五十年目の夏。私は、この機会にぜひもう一度あの戦争を振り返ってほしいと思っていま。あの戦争はなぜ起きてしまったのか、あの戦争を日本軍がどこで戦っていたのか、あの戦争で中国をはじめアジアの人たちが日本に一度でも攻撃してきたのか、ということをです。戦争を二度と起こさない、これは戦争で命を落とした多くの人たちの願いでもあります。その
ためにも、私たちは、あの戦争は何だったかということをはっきりさせ、それを後世に伝えていく努力をしていかなければいけないと思います。
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「広報にしお」NO899 1995 8/1号の戦後50年特別企画”この夏 戦争を語る”より転載しております。
転載は、西尾市役所情報課広報親善係のご協力により体験談を語られた方の許可を頂いております。
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