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『運命のはかなさを強烈に実感させられました』
齋藤錠一さん(新村町)戦争体験談
全文紹介

 昭和十三年四月、 「鉄道部隊」に配属された私は、輸送船で中国へ送られました。 「鉄道部隊」の任務は鉄道の管理や施設整備で、そのころ、中国の主な鉄道網はほとんど日本軍がえていました。私たちは、濁流と闘いながら黄河に鉄橋を架けたり、敵弾を警戒しながら徹夜で駅の復旧作業をしたりしていました。部隊の出動は天候、時間に関係なかったので、雨や汗でずぶぬれになった軍服のままで寝起きする毎日でしたよ。私がこの部隊の第一小隊長を務め、そちして、第二小隊長を務めていたのが可知少尉だったんです。
 可知君とは約四か月行動を共にしました。私たちは、小隊長同士という間柄よりも、たまたま岐阜高等農林学校の先輩後輩ということから、親しく接していました。お互いよく話をしましたね。任務のこと、部下のこと、家族のことなどです。
 可知君は琴子さんという身重の妻を岐阜に残してきました。琴子さんは、それこそ一日おきぐらいに可知君に便りを寄せ、彼はそれを読むのをとても楽しみにしていました。そして、その便りを琴子さんの写真と一緒に、胸ポケットの中に大事にしまっていました。
 私は、可知君が体を壊す少し前、 一通の手紙を受け取りました。それは琴子さんの母上からのものでした。手紙には、琴子さんは女の子を出産したが、産後の肥立ちが悪く亡くなったとありました。母上は、このことを息子に知らせると働きが鈍り、部隊の迷惑になるから、折をみて齋藤小隊長からお伝えいただきたいと書いてきたのです。事の重大きに、私は悩みました。
 過酪な任務に無理を重ねた可知君は風邪をこじらせ、病床の人となりました。けれど、 一向に回復せず野戦病院への転送が決まりました。軍医が「あいつはもう戻って来られないだろう」と言うのを聞いて、私は決心しました。可知君が移送される前日の夕方、私は彼のまくら元に行き、 「君にいつ話そうかと迷っていたんだが」と母上の手紙を渡しました。読み終えた可知君は、手紙の端を握りしめながら「妻からの便りが来ないので、何かあったんじゃないかと思っていました。しかし、まさか亡くなっていたとは…」と声を震わせました。私も涙を押し止めることができませんでした。うなだれている可知君に私は、 「とにかく元気になって戻って来い。そして、もう一度一緒に頑張ろう」と言葉をかけると、彼も「必ず帰って来ます」と涙ながらに再会を誓いました。これが可知君との今生の別れになりました。
 その後、可知君は病状がさらに悪化し、野戦病院から大阪の病院に移され、そこで亡くなったと聞いています。結核だったようです。病床の可知君は、一粒種の娘さんとの面会を自分が元気になってからと断り続けていました。しかし、付き添いの看護婦がこれ以上はもつまいと判断、琴子さんの母上が娘さんを抱えて駆け付けましたが、間に合わなかったそうです。延べ九年間の軍隊生活の中で、運命のはかなさを強烈に実感させられた可知少尉のことは、決して忘れることはできません…。
 そして、今私には、九人の子と十九人の孫、それに二人のひ孫がいます。若い者は関心がないので私は戦争の話はほとんどしません。しかし、子どもや孫たちがあのような戦争に巻き込まれないためにも、戦争の悲劇と狂気は、ぜひ知っておいてほしいと思いますね。


「広報にしお」NO899 1995 8/1号の戦後50年特別企画”この夏 戦争を語る”より転載しております。
転載は、愛知県西尾市役所情報課広報親善係のご協力により体験談を語られた方の許可を頂いております。
無断で転載・引用は厳禁です。  


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