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 「第41教育飛行隊」
隼18434 少年飛行兵たちの回想


全文掲載


これは平成2年6月、元第41教育飛行隊員だった仙石敏夫さんが
同期の方達に募集した「思い出の一文」をまとめ、自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

思い出               桜井弘介さん

一 大同
 まずは中練を終え、愈々大同へ出発、途中客車に乗ったもののブラインドを下ろされ、外が見えないが大阪駅を過ぎる頃デッキに立って居ると、ホームに一年先輩の奥田さん(商業学校時代)に逢い、懐かしさといよいよこれでお別れかと感無量であった。

 釜山へ着き今度は貨車輸送、その広軌道の大きさにびっくり、動輪の一番大きなのは胸の高さ位あったと思う。やがて新義州あたりを過ぎ支那ヘ入って最初に通貨交換。中華民国聯合銀行券と書いてあったと思う。 (後に二十数年前香港旅行に行った時建物に看板が出ていて、左読みをすると何の事か分からず、あぁ右読みするんだったと読み直した所、懐かしい聯銀の銀行であった)

 又、北京を過ぎ、八達嶺だったと思うが又々換金で今度はチョビ券、何と支那は大きいなあと思ったものである。

 やがて大同に着き兵舎に入ったものゝ、オンドルの上にアンペラを敷き、窓もガラスで無くパラフィン紙を重ねた様なもので、それも古いので端はめくれそうで、又茶色に変色していて窓の外が皆茶色に見えた記憶がある。

 大同では手拭が凍り棒になったり、大便も凍りこの始末はどうするのかと余計な事を考えたり、兎狩りの後、瞼が凍りつき、両手で顔をおおい乍ら呼吸でまつげの凍り付きを溶かした所、半分程見えるようになったので無理にこじ開け様としたら、まつげとまつげがまだ凍って居たのでバリバリと首をたてゝ抜けた事があった。

 高梁飯や豆飯等で殆ど一ケ月位下痢をしたのも大同であった。炭鉱の内地人に世話になったのも懐かしく、外にホウリ出したビールがよく冷えてうまかったのも思い出である。荒涼とした砂漠みたいな所に雄大な二重の城壁に囲まれたのが大同の街だった。そしてその歩哨が女で整備の兵隊がからかっていたのも思い出である。

二  水原    上へ
 大同より水原に移動して思い出としては余り無かった様であるが外出して果物や醤油を持込み、或る時部隊長の内務検査とかで、飛行場にあった井桁に組んであった材木の所にかくし、あくる日取りに行ったところ、梨がカンカンに凍り、班に持ち帰ってストーブで暖めても溶けず、皮をむこうとしても刃物が間に合わないので、ネズミよろしく噛じった所、その味が何とも言えない美味で、その味をもう一度と隣のアイスクリーム屋の冷凍ボックスに入れてみたが、その味は再現する事は出来なかった。

 又一度、現地人の招待で地名は分からないが民宿させて貰い、マッカリ(地酒のドプロク)スキ焼の御馳走になったが、その中にもニンニクが入っていて今では苦にならないが鼻をつまんで食べたのも又嬉しかった思い出である。

 富取君の飛行機が燃えたのは後で聞いたが、私にはその思い出がなく多分飛行中であったのかも知れない。

 飛行訓練中、四期生であったか田原准尉に「星出と俺の部屋に来い」と呼ばれ、何も悪い事した覚えもないので不思議に思って行った所、「お前等二人は今から笹倉部隊長を乗せて平壌に連絡飛行に行って来い」と言われビックリ仰天。

 なにしろ場周経路しか飛んでいない頃の事であるから不安であったが、往路は星出、副操に部隊長、私は後から地図と首っぴきで鉄道線路を唯一の目標に無事平壌に到着、着陸しようと思った処ウッスラ雪化粧で滑走路が分からず、暫く場周経路をウロウロして居る内に滑走路横の吹き流しを見て、それを平行に強行者陸したように思う。

 帰路は私が操縦、水原へ無事三点着陸、部隊長も喜んで居た。兎に角滑走距離が短かゝったので地上滑走で帰ろうと思って左横を見たら丁度我々の住んで居た兵舎の真横であった。その思い出としても是非星出君に逢いたいものである。

 話は変わるが、飛行場の側の池掘り(壕掘り)で魚を獲ったのも当時で、うなぎと思って掴んだ魚が後で聞いて蛇であリゾッとした思い出もある。

 三 会文   上へ
 会文は不時着場を整備した様な所で村らしきものがあり、当時は貧富の差が激しく、金持ちの家は赤、グリン、黄金色等で飾り立てた立派な家もあった。

 助教要員として又訓練の連続であったが、 一応下士官室に入れて貰い当番兵も付く身分になった

 その下士官室には被服係の伊藤軍曹(福島県出身で子供三人あり)が居て、酒が好きで酔えば民謡を歌われ、その声の良さにビックリ、軍隊で色眼鏡を掛けた人は大谷准尉と二人だけであった。

 細川軍曹(我々の助教として教えを受けた同期も数名居た筈、又四、五年前に亡くなられた松竹大船の映画俳優細川俊夫氏の弟さん)には何時も慰問袋が送ってきて私も御相伴に預かったものである。

 特攻要員の訓線には助教要員として副操縦席に座らされ、死ぬ思いをさせられた。というのは左旋回で降下角四十〜四十五度位で現地の一本マストの漁船を目標にして突っ込むのであるが、同じ教育を受けた同期であるから私は腕を組み只見ているだけ。

 ところがふと速度計を見ると四二〇〜四三〇粁位で翼端がビリビリ震えて今にも空中分解するのではないかと心配になってきた。そして目標に近付き操縦標を引き上げ上昇に移るかと思うと仲々上昇しようとせず、下の漁船に乗って居た人が危険を感じたのであろう、此方を見上げ指をさして何やら絶叫している。止むなく私が操縦標を引き上げ高度計を見ると〇になっていた。そして上昇に伴いスロットルレバーを入れるものと思っていたのに仲々レバーを入れないので、又々私が操縦桿を押えると同時にレバーを入れたが、瞬間空中に止まった様な思い出もある。

 今度は失敗談で、制限地離着陸の練習中、第四旋回を終りふと気が付くと目測が高過ぎ着陸復行しようと思ったが、当時はガソリンの一滴は血の一滴等と言っていた時分でもったいないし、「エェイ、応用動作してやれ」とレバー全閉、思い切り突っ込み着陸寸前にフラップを出した所、機体がファツと浮いて制限地を既にオーバー、着陸は大バウンドし、異常は無かったが区隊長真壁大尉に報告する時ブッ飛ばされるのを覚悟していたが、何故か何のおとがめもなくその真意が今だに分からない。

 又、夜間飛行の練習中に特操二期生の氏名は忘れたが(橋本か高橋少尉“)他一名が着陸に失敗し炎上、翌朝裏山に於て火葬の思い出もある。

 当時、特攻隊員は所謂営外居住で割に気侭な生活をして居た様に思うが、その中に土谷伍長が居り(十五期生)それが一升瓶を腰にぶらさげて、堂々と営兵所を通って来たのにはビックリしたのも懐かしく、当時の思い出を語り合い度いものである。

 会文最後、 一番の思い出はに終戦三日前、ソ連が清津、城津を突破して会文も危険になり、双練を掩体から引っ張り出し水原へ帰るべくエンジンを始動した所、バックファイヤーでキャブレターから火が出て左発を燃やし、消火器で消したもののエンジンは不調、離陸はとても無理でこの侭居残りかなと思ったが、機上機関の整備兵の必死の努力でどうにか回転数も上がり、フラップ十五度でやっと離陸に成功した。しかし又もや宣徳上空でエンジン不調になり、 一瞬不時着の覚悟をしたが又この時も機上整備のお蔭でどうにか水原迄帰ったが、この時一緒だった
のは内藤起世也で先導してくれたのが松丸軍曹で二機だけであった

 四 水原より復員   上へ
 昭和二十年八月十五日、陛下の玉音放送があるとの事で一同整列したが、ガアーガアーピーピー雑音ばかりで全然内容が分からず、何故か恩賜の煙草を廻しのみし、酒も飲んだ様であった。

 やがて復員という事になり、 一応貨車には乗ったが途中で降ろされ、釜山まで行軍しなければならなくなった。 (後で思った事であるが、水原〜釜山の中間点大田の北辺りだったのではないかと思う)当時部隊に七台あったトラックも既に燃やしてしまっている。

 習志野以来、強行軍の経験もなく、非常に苦しく官給品、私物の荷物は重たく、遂に一つ捨て、二つ捨て、今だに冬の飛行服を捨てたのが惜しまれてならない程である。

 やがて釜山に近付き、やれやれと思ったのも東の間、旧軍人は釜山の半径二十粁以内には入れないとの事で、地名は忘れたが小学校に退避していた様に思う。

 何日か経ち、愈々乗船という事になり桟橋で私物の検査になり、先祖伝来の軍刀(鍔と柄袋だけ持って帰った)記念にとためていた札(中華民国連合銀行券俗に連銀、チョビ券)そして煙草の空箱(前門、ルビークイン、スリーキャッスル等約三十種類あった)皆没収されて、敗戦の辛さをつくづく思い知らされた。又大同当時生意気だった炊事係の上等兵が袋叩きにあったという噂もこの頃に聞いた。

 無事博多に上陸して被災地の広島を通り、大阪駅に着いたのが二十年十月二日だったと思う。外地からの復員としては一番早かったのではないかと思う。

 大阪市内は殆ど丸焼けになり、疎開地の泉南郡樽井に着き、久し振りに父母弟妹と会える事が出来た。(了)
  
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    平成2年6月発行 
    「第41教育飛行隊 隼18434部隊 少年飛行兵たちの回想」より転載


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