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 「第41教育飛行隊」
隼18434 少年飛行兵たちの回想


全文掲載


これは平成2年6月、元第41教育飛行隊員だった仙石敏夫さんが
同期の方達に募集した「思い出の一文」をまとめ、自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

北鮮逃避行          内田清七さん

 大同以来一緒であった同期生の大半は、新義州へ転属して去って行った。宣徳の残留組である我々は、引き続いて毎日飛行演習を行なった。

 課目は、夜間の海上航法や滑走路目がけての「と号爆撃」などであった。特攻も昼間では効果が薄く、特に双練では期待薄であった為、このような訓練を続けたが、今にして思えば所詮蟷螂の斧でしかなかった。

 八月十五日も夜間演習の予定で、午前中は自由時間であった為、皆で飛行場の反対側にある池ヘ遊びに行った。砂地に松林が続き誘導路でつながった飛行機の掩休壕が各所に散在した気持のよい場所であった。池の周辺には小川もあり、しじみやどじょう等がウジャウジヤとおり、朽ちかけた朝鮮人の棺桶が砂の上に転がって、夏の日に照らされていたのを今でも鮮明に覚えている。

 昼近くになる頃、当番兵が連絡に来て、重要な話があるのですぐ隊へ戻れと伝えて来た。隊へ帰り、間もなく終戦の玉音放送を聞いた。当日は若千の混乱もあったが、 「次の命令を待て」ということで皆平常の生活に戻った。その日から演習は中止され、間もなく飛行場にはドラム缶が並べられて、事実上の飛行禁止となった。

 それからの我々は全くの情報不足のまま、噂話に一喜一憂しながらブラブラ生活を続けていたが、数日後の早朝飛行場のエンジン調整の爆音に夢を破られ、間もなく我々にも集合がかゝった。

 命令は「これから営外居住者の家族と家財を平壌まで輸送する」ということで搭乗区分が黒板に示され、私は「と号要員」の乙十四期(名前失念)と一緒で、彼が正操縦、私が副操縦であった。

 部隊の殆ど全機が出動することとなり、人員、荷物の積み込みなど出発準備をしたがしばらく飛行を休止していたので、エンジンの調子がなかなか良くならない機があり、準備完了の各機は待機時間を徒らに空費した。そのうち隣の戦闘隊の飛行場(部隊名不明)には既にソ連の軍使が到着し接収されたという情報が入り、宣徳の我が部隊に軍使が到着するのも時間の問題となってきた。

 ジリジリし乍ら待機していた我々に、遂に「準備の出来た編隊から出発」の命が下り第一陣の三機に続いて我が編隊三機も後を追った。朝鮮半島を横断する形で山岳地帯を飛行し、先発三機の姿も見えず、間もなく平壌上空という時、突然前方から濃緑色の戦闘機二機が現われ、マークからソ連機であることが明かとなった。同機は旋回し一機は前方、 一機は側方に近付いて翼を振り誘導する形で平壌方向に向かったので、我々の日的地も平壌であることから、そのまま飛行場に接近し第四旋回を終った。

 飛行場を見ると蒙々たる砂塵に覆われ、ソ連機の出現に慌てふためいて一斉に離陸し退避しようとしている多くの飛行機が見られた。どうにか着陸し誘導路に向かう途中、我々の後続機が着陸復行をして低空を飛び去るのが見えたが、 「うまく離脱したな」と思う反面我々はいよいよ虜われの身となるかと感じた。

 飛行機を止めると続いてソ連の大型輸送機が到着し、将校等と共に銃を手にした兵士が十名位降りて来て輸送機の周りを警戒した。

 ソ連側の我々に対する指示は「飛行機に積んである物はすべて降ろせ、没収する。乗員は去ってよし」という内容であった。 (我々の機は操縦者二名と荷物のみであった)これからの行動について部隊幹部の指示を仰ぐと「宣徳の部隊は既に接収され連絡がとれないので特に指示することはない。常外居住者の住宅が空いているので、そこで休んだらどうだ」ということなので行ってみたところガランとした空家である。

 休んではみたものの暗くなっても部隊からは何の音沙汰もない。 一緒に飛んで来た者と相談しても結論が出ない。そのうち此処に居ても仕方がない、ソ連の捕虜になる前に脱け出して釜山へ行こうということになり、部隊宿舎を去った。

 平壌駅に着いてみると大変な混雑で、ホームや引込線の客車、貨車には南下しようとする人達が鈴なりに乗っており、聞いてみると列車は出発するのかしないのか、また何時出発するのか駅員にも判らないが、兎に角場所を確保しているとのことであった。

 そのうち我々のように飛行服を着ている者は人目につくばかりでなく、前々から空中勤務者は、ソ連から戦犯に指定されるという噂が流れていたので、服装を変えた方がよいと思った。

 一人の朝鮮人をつかまえて服を交換しようと持ちかけたところ、特に長靴が気に入ったようで喜んで応じたので、その場で白シャツ、山ズボン、ズック靴に着替えた。その時私と同行した者は十名位居たが皆で相談し、いつまでも北鮮に居るのは危険なため、列車での南下を諦め、とにかく南へ向かって歩くことにして、その夜は雑踏する駅構内で一夜を明かした。

 翌日平壌市内を抜けて歩き始めたが、既にソ連の軍用車が市内を走り、橋のたもとには検問所が設けられて厳しいチェックを行なっているので、このまま道路沿いに南下することは困難と判断し大同江は橋を避けて川を徒渉することにした。

 川岸に立って見ると水深も浅く、対岸も遠くないので皆でハダシになリジャブジャブと対岸ヘ渡ってみたところ、実はこれが川の中洲で対岸はまだ遠く、しかも水流、水深とも満々としてとても渡れない情況である。途方にくれている時、丁度朝鮮人の船が通りかゝったので大声で呼び止め、金を払って渡してもらうことが出来たが、この一事でも前途の多難が予想された。

 平壌を後にしてテクテク南下して行くと、途中各部落の入口に自警団と書いた腕章を巻いた朝鮮人が手に手に棒を持ち、通行人を監視している。

 日本人と見ると(朝鮮語が話せないと)サイレンを鳴らして多数が集まり、荷物の中から目ぼしい物を奪い、中には暴行を加える者もいる。

 十数名が集団で通行することはトラブルの原因ともなるので、部落通過時にはバラバラになって入るか、或は迂回して山越えなどして通過したが、

 このような情況から仲間が一人はぐれ、二人はぐれして遂に私ともう一人(十五期、宮城県出身、名前失念)の二人だけになってしまった。

 幸い夏の盛りであり、野宿を重ねてもヤブ蚊に悩まされて眠れないだけで済み、食糧も年輩者の朝鮮人宅を見込んでは飯を分けてもらったり、畠のウリやスイカ、トマトなどを失敬しては飢えをしのいだ。

 朝鮮人の中には親切な人もいて、部屋へ上げて銀の碗に飯を大盛にして御馳走してくれた人もあり、この時は敗戦の悲哀をかみしめた。

 道々列車に乗れるチャンスをつかむため駅に立ち寄ってみたが、当時満州からの引揚者に北鮮からの引揚者も加わって、どの列車も満員で割り込む余地もなく、しかも不定期、短距離の運行で、一旦停車すると何時動くか判らないという状態なので全く頼りにならなかった。

 運良く動く列車を見付けて乗り込み、歩程を大分節約出来たこともある。

 道連れの十五期は時々マラリヤの発作でフラフラになるのでこんな時はホッとした。

 また駅構内の空列車を寝ぐらに決め込んでいたら、日本人の娘が来て「あなたは日本人でしよう。私は避難して来る途中家族とはぐれてしまったので、 一緒に連れて歩いてほしい」と頼まれたが、無事釜山まで連れて行く自信がないので、娘が寝込んでいる隙に相棒を起こし、ひそかに逃げ出したこともあった。

 このような道中なので何処で三十八度線を越えたのか定かではなかった。ひたすら歩き続けて京城近くまで来た時、再び列車に乗ることが出来た。

 車中の人の話では、皆釜山に向かっているが、現在釜山は引揚者で一杯であり、乗る船も食糧もなく困っている状態であるという。

 頼る者とてない我々二人が釜山に行っても帰国のメドがつかないなら京城で下車して南下の時機ヲ待とうと判断した。駅の改札を出て人ごみの中ヲ歩いていると、二人の兵隊が落下傘袋を竹の棒で通して担いで歩いていたが、そのうちの一人が私に声をかけた。

 「あなたは水原にいませんでしたか」聞けば彼は水原時代の整備兵で、今回は町へ酒を買いに来たとのこと。かつての懐かしい部隊は今水原におりと号要員も一緒だということである。

 その兵隊に事情を話し一緒に部隊へ行ってみると、同期生達は市内の病院に居るというのでその病院に案内され、皆で再会の祝盃を挙げ、そのまま宿泊した。

 翌朝部隊の週番士官から電話があり「昨夜と号要員の宿舎に無断宿泊した他部隊の者はすぐ事務室まで来い」という連絡である。

 早速部隊本部へ行き今までの顛末を報告したところ、 一応お叱りを受けた後、当部隊に編入し復員するとき一緒に復員させてやろうとの暖かいお言葉と共に軍服一揃いを頂く事が出来た。

 十月四日、皆と一緒に博多へ上陸することが出来た。思えば軍隊という強大な組織から見放されながら、敗戦によって生き残る機会を与えられ、何としても郷里に帰ろうという里心が一週間程続いた逃避行を無事過ごし、最後に「大同の古巣」に飛び込むことが出来たのは幸いであった。(了)

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    平成2年6月発行 
    「第41教育飛行隊 隼18434部隊 少年飛行兵たちの回想」より転載


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