「第41教育飛行隊」
隼18434 少年飛行兵たちの回想
全文掲載 |
これは平成2年6月、元第41教育飛行隊員だった仙石敏夫さんが
同期の方達に募集した「思い出の一文」をまとめ、自費出版にて発行したものです。
仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。
「と号部隊」の思い出 玉井修治さん
昭和十九年十二月、大同から朝鮮水原へ移動した第四十一教育飛行隊は朝第一〇六部隊と改称され、厳しい錬成教育が開始された。しかし、戦局の悪化に伴い我々の教育は「と号訓練」に終始するようになった。毎日の急降下、接敵運動の激しい訓線に身体も慣れ、技倆も向上してきた頃、部隊長より特別攻撃隊要員志願の要望があった。勿論全員が直ちに志願した。
昭和二十年四月二十五日、いよいよ特別攻撃隊編成の発表があった。
「と号三〇九隊」
隊長 特操二期 郡(コウリ)少尉 伊田軍曹
加藤 神谷 玉井 十六期通信 巽?
同三〇七、三〇八、三一〇隊 氏名忘失
編成終了後、兵舎に帰る道すがら誰の口からか「とうとう死刑の宣告か」と言うつぶやきがポツリともれた。あとは誰も無言。
それは編成隊員の偽らない胸中ではあったが、反面、それを運命とする諦念のようなものが、その宣告感をしっかりと包み込んでいて、取り乱すような者は居なかった。
同年五月三日、他の「と号部隊」要員と共に特攻機を空輸する為に内地へ帰った。
米子飛行場へ着くと三日間の休暇を与えられ、これが最後となる筈の帰省をした。飛行服で格好よく母校を訪問したり、家族、親戚、友人そして故郷の山河と最後の別れをするには、まことにあっけない一昼夜であったが、短いという事がかえって心残りを一気に吹き切らせてくれたようにも思う。
五月二十日部隊に戻る時には既にこの間に咸鏡北道鏡城面鏡城邑所在の会文飛行場へ部隊は移動していたので、乾軍曹と私は各務原で一式双発高練を一機受領し、会文へ直接帰ることになった。
それからの私達は営外居住となり、会文の町中にある大きな朝鮮人宅の二階の十畳間位のところに六人で寝起きし、食事は部隊から当番兵が運んで来てくれるという生活になった。
そんな或る日、その朝鮮人宅で法要があり、その席に我々も招待され炊事場を通ったとき、煮えたぎる大釜に目をやると、なんと豚の首が浮かんでいるではないか。これにはすっかり食欲を無くしてしまった思い出がある。
しかし、それからの訓練は会文沖合いの仮装敵の三十トン位の漁船を標的にして、超飛弾攻撃の要領や体当たりの突っ込み、海面スレスレの超低空飛行ばかり、死の訓練を積むことになった訳である。昭和二十年八月十日、咸鏡南道宣徳飛行場に「と号三〇九飛行隊」の基地が設定され、同日空輸移動した。
忘れもしない八月十二日午後三時頃、五航軍から参謀が基地に到着「明朝七時、羅南沖合、ソ連輸送船団六隻、護衛巡洋艦四隻に対する特攻命令」が示連され、宣徳基地の下河内大尉搭乗の司偵が戦果確認機と定められた。
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夕刻、現地偵察から帰った直協機が「現地は海霧が発生している為、目標が視認出来ない」と最新情報をもたらしてくれた。この海霧は発生すると一週間前後の長期にわたり、視界を全く遮ってしまうのである。
当然、明朝出撃は別命するところと変更された。「アァー、あと五日生き延びられるのか!」と、このたった五日間がこれまでの十九年間の人生より、もっと、もっと長い、途方もなく貴重な時間であるような不思議な価値感が全身にみなぎり、この貴重な時間を悔いなく使い切っていさぎよく出撃しようと思ったものである。
基地では、それまでケチッてきた航空糧食を、この期に及んで極楽へ一緒に持って行けとばかり山ほど支給してくれたのには苦笑した。
宿舎である営外の陸軍官舎では、予定通りの明朝出撃に備え深夜に及ぶ綿密な攻撃戦術についてミーティングが行なわれた。
翌十三日午前五時、迎えのトラックに突然たたき起こされ、やっばり出撃かと観念したが、間もなく「出撃訓練」とわかリヤレヤレとなった。
そして翌々日、終戦を迎えたのであるが、あの海霧が運命の岐路となったのである。
ついでながら、その八月十五日の夜、宿舎の防空暗幕を習慣的に閉めようとして、隊長から沈んだ声でポッつり「もう閉めなくていいんだよ」と言われ「アッそうか」と放心状態で夜空をしばらく見上げていたことも思い出す。
八月十九日、宣徳の「と号部隊」は全機水原に原隊復帰した。会文の「と号部隊」以外の者も八月十二日に水原に部隊移動しており、合流することが出来た。九月五日頃、水原飛行場で自主武装解除をして郊外の病院跡に移動し、十月一日、釜山から「雲仙丸」に乗船、翌二日博多に上陸して解散、復員した。(了)
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平成2年6月発行
「第41教育飛行隊 隼18434部隊 少年飛行兵たちの回想」より転載
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