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 「第41教育飛行隊」
隼18434 少年飛行兵たちの回想


全文掲載


これは平成2年6月、元第41教育飛行隊員だった仙石敏夫さんが
同期の方達に募集した「思い出の一文」をまとめ、自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

第四十一教育飛行隊の思い出 (2)  上原 功さん

トラックに乗り換え城内を通り抜ける。

 城門では警察官であろうか、二、三名の制服を着た女性の挙手の礼に送られ、高梁畑の時々見かける平原の西に走り続けること約三十分。漸く兵舎らしいものが見えて来た。期待した飛行場らしいものは見当たらず。

 北支派遣隼第一八四三四部隊の正門を入り宿舎に案内された。

 遥かな内地から疲れて到着した我々を迎えた宿舎は石造りの平屋で、中央に通路、両側に寝台程の高さの床(オンドルであろうか)があり、部屋の仕切りとてなく、四、五名おき位に仕切りがあるだけのものであった。

 部隊長、笹倉少佐殿に申告。

 「陸軍上等兵仙石敏夫以下八十一名、第四十一教育飛行隊に転属を命ぜられ、只今到着致しました」

 この時先着の宇都宮校出身者は既に陸軍兵長の階級章を付けていた。 

 われわれ少飛出身者は市田隊。体長市田大尉。隊付き永野少尉。他に准士官二名、下士官五名(曹長一名、小林軍曹=少飛七期生、予備下士=十期三名)が今後の操縦訓練を担当する教官、助教と紹介される。 まず注意された事は、生水を飲むな、と言う事であった。確かに胡瓜の腐ったような匂いがして飲めといわれても飲めるようなものではなかったが、暑い盛りに水も飲めないとはと嘆息が聞こえる。

 大同は北緯三九度五六分、東経百十二度二三分、標高一〇〇〇米の地で蒙彊晋北大同県大同邑で、日本標準時との時差は一時間三十分、関東地方との実時差は約一時間五十分であるが、日本時間で生活しているわれわれには夜の更けるのが遅く、加えて北国の夜は消灯時間を過ぎても薄明るく、これからの睡眠不足が思いやられた。

 蒙彊の交通の要衝である大同は、街の南東に民間の飛行場があり、中華航空の定期便が飛来するほか、南は大原、平定、西は包頭を結ぶ鉄道の分岐点である。

 五台山脈の盆地と言う好条件を備え、良質の石炭が埋蔵されている炭鉱があり、その埋蔵量一二〇億トン乃至二〇〇億トンと推定されている大炭鉱都市の出現が期待されていたところである。

 日本人居留民も多く推定人工は十六万人で、漢人が多く蒙古人は周辺に包(パオ)が群をなし、住居としているのが見られた。

 飛行場は宿舎から更に三粁西にあり、待望の一式双発高等練習機(キー五四)十数機翼を休めて居り、われわれの到着を待っているかのようであった。

 飛行場は周囲十数粁の広大な敷地で、 一部着陸帯として転圧されていて、その広々とした感じは飛行場一周などと、やぼな事は言われないだろうなぁ、と言う思いが先であった。熊校、上田教育隊のように中練でも定点に着陸してブレーキを使わなければならない狭隘なところに慣れた者達にとっては、広すぎる事による勝手が違う事も多かったようである。

 飛行訓練は三乃至六名が一組になり、空中操作離着陸・単独(互乗)飛行・編隊訓練と続き、三ケ月もすると既に一流の双発機バイロットと自負する程であった。

 特に編隊訓練は過酷で、長機に助教、僚機は互乗で三機編隊から五機編隊と、その編隊超低空で蒙古人集落の包すれすれに飛行するかと思えば、昔は河であつたであろう両側に切り立つ崖の中に入り込み、密着隊形での手に汗握る形容そのものの訓練が続いていた。

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 昭和十九年十月中旬「特作命」により数人の助教が、漢口方面への空輸に出発した。

 単調な訓線の合間には北京・太原への航法訓線が実施され、生水が飲めるとばかりに一升瓶を積み込んで輸送するとか、大陸のスコールの雄大さに太平の夢を覚まされたりで、そのスコールの雄大な眺めには大陸(大平原)ならではと感嘆させられた。直径十数粁の灰色の茶筒が動いているようで、その周りを廻りながら通過するのを待っている様子は、遊園地の飛行塔に乗っているようである。下にいれば雨水が飲めるのになあ、口惜しい限りだと地上での心配とは裏腹に少し取っていてくれるかなぁ等と、時の経つのももどかしく着陸してみれば、それどころじゃなかったよ、とどやされたりした。

 しかし、大同の年間降雨量は約二〇〇粍程度で、そのようなスコールが度々襲来する訳でなく天候による訓練中止は殆どなかった。

 八達嶺付近で貨物列車が共匪に襲われ、燃料や航空糧食が盗まれる為、燃料の節約が叫ばれたり航空糧食の配給が少なくなったりで、 「八路軍よ覚えていろ」と変なところで闘志をかき立てたり、単調な毎日をこわす思い出もあった。

 日曜日の大同市内の外出はトラックに揺られて楽しみは青空・ハルヨと言う隊外酒保での汁粉や大福であったろうか。俸給四十五円、航空加俸十円の使い途もなく殆ど貯金していた。

 恵師団のおじさん兵隊さんに配給の煙草を分けて喜ばれたり、好奇心旺盛な為か歩き廻っていて私服憲兵にその先は駄目だと注意されたり、またある的は、数名で本場の中国料理を食べようかとおそるおそる覗いたところ、子供の来る所じゃないと髭面に怒鳴られて、俺達は陸軍兵長殿だけどなぁと、憤懣やる方なく至って御清潔、平穏な生活ではありました。

 軍人は先輩が血と汗で綴った典範令を読んでいれば良いと言う熊校での教えを守り、世情に疎く南方での苦労などは我関せず、余り勝ち過ぎて、われわれの行く頃は戦場の無くならない事を祈ったり、という平穏さであった。

 その頃、八発の超重爆が完成した。その要員がわれわれの中から選ばれるとの古参准尉殿の話に、よし我こそは、と闘志を燃やし訓練にも熱が入り大同石仏(街から一・七粁西にあり、雲崗の石窟で後魏が大同に都した頃から隋末にかけて開鑿せられたもので、大小の仏龕千本仏を彫刻したもので、明治35年伊東忠太博士が紹介した)見学や、人間炭鉱への一泊(同郷人の宿舎に寛ぎ、鋭意を養った)行軍と単調な中にも熱気に溢れた訓練を続けることが出来た。

 十月に入ると短い夏は終りを告げ、秋かと思う間もなく冬の訪れである。

 内地の四季に慣れた身には、夏から冬へと慌ただしく移り変わった感じがする。中旬から末にかけて急速に冬の訪れを感じ、零度近い気温での始動前のベラ廻しに息を切らす間もなく、慣性始動機の鈍い動きにヘトヘトとなり、顔と耳は冷たく背中だけが汗ばみ、冬上衣袴の上に着た冬の航空衣袴に押し潰されそうになりながら、それでも一回で始動出来た時はホッと出来るが、二回、三回と始動のやり直しが続くと、下では「超重に乗せてやらないぞ」と怒鳴り、上では「もう少し元気よく回せ」等のやり取りで和気藹藹のうちに訓練が続いていた。

 だが、特作命で出動していた少飛第七期生小林軍曹殿が揚子江付近でPー三八米戦闘機に撃たれ火達磨になりながらも友軍陣地近くに不時着、両手,両脚切断で一命を取り止めるかと思われたが数日後、名誉の戦死を遂げられた事を知らされた。

 兄貴のように慕っていた先輩で、その戦死はわれわれを深い悲しみの底へと落してしまった。

 数日後の部隊葬での悲しみは、戦闘隊へ行けなかった悲嘆と憤りに変り、仇討の術もない事で双発機要員に選んだ教育隊の教官に不満を向ける等、心は早くも南方の戦場へ飛んでいるのだろうか。

 しかし、超重に乗ってニューヨークを爆撃に行く夢で自分自身を慰め、現実に戻ると厳寒の季節は一歩一歩近づいていた。

 夜の軍歌演習で遠吠えの大の鳴き声を聞いたり、今流に言えばブラックホールに引き込まれるような物悲しい気持になり、沖天を見上げれば北斗七星は何時しか遠くの兵舎の上に横たわっていて、内地で見た北斗七星とは違った趣きをしていて、北極星が頭上近くに冷たく輝きをみせ始めていた。

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 十一月の声を聞くと、外は氷に埋めつくされたようで、小便をしても直ぐ凍ってしまうし、夜、大便に行った時は特に便器の付近を足で蹴突ばして、尻を怪我しないように注意しながら用足しをするようにと大そうな訓示に驚かされたりした。

 しかし、尻を怪我した話はついに聞かれなかった。注意の訓示が大袈裟だったのか。

 卵を数時間屋外に出して置けば完全な氷の塊となるので、アイスキャンデーだとかじるのも一つの楽しみであった。

 飛行機は夜潤滑油を抜き、朝は二〇〇度に温めたタンクローリーの到着を待って給油の上、ベラ廻しをするので、順番を争ったり、雪の曠野を暴れ廻ったりで、寒さに震えた思い出としては余りなく、十八才の若さが吹き飛ばしたのであろうか。

 緯度としては青森県と同じであったが、空気が乾燥して居る故か大雪は降らず、また三寒四温がはっきりしていて、三日我慢をすればいいんだとばかり寒さを吹き飛ばしていた。四温と言っても零下十数度で内地のような暖かさではなかったが随分と救われたように思う。

 ある大雪の朝、今日はのんびり休養だと決め込んでいたら「兎狩りをするから集合」との号令で喜々として出発した。獲物は兎の外に銀狐など予想外のものであったが、休憩に際して「目をつぶるな」のお達しだ。何故だろうと思っていたが、うっかり目をつぶった者は瞼が上下くっついて開かず、戦友が息を吹きかけてやっと瞼を開ける次第で、鉄が素手に吸いつくのは東航校でも経験したが、瞼が凍って開かなくなる寒さとは、と一層の奮起心が燃えたものである。

 十一月に入り、教育隊の訓練はこれで終り、このまま錬成訓練に入ると申し渡された

 操縦徽章は南京に在る総軍司令部へ受領に行っているが、外地での佩用は禁止されているから、当分部隊本部で預かり置くとの事で、夢にまで見た操縦徽章の重たさに右肩を下げて歩く格好は当分お預けかと、寝床に入ってもぶつぶつの数日であった。

 南京まで受領に行った筈の准尉殿は数日して姿を現わしたが、何の音沙汰もなく、その後朝鮮に移動してからも梨の飛礫で、遂にわれわれ大同組は操縦徽章を手にする事は出来なかった。

 十一月末、急遽、朝鮮水原への部隊移動が決まった

 空輸要員と陸上移動要員とに分かれ、空輸機には機材を満載し、我々互乗の組も含め機付の下士官と三名一組の空輸機は数個編隊に分れて、昭和十九年十二月八日大同飛行場を出発、直線コースで平壌飛行場へ。

 「西□林は楽浪の 都流るる大同江
 戦史にしるき 牡丹台
 空の護りと 選ばれて
 集う五百の 健男児
 われらは 平壌飛行隊」

 戦隊歌リレーの一節を思い出しながら、大同江を越えて着陸。平壌で一泊の後、十二月九日完成間もない水原飛行場へと到着した。

 ここ水原市は京畿道水原郡水原邑、西北部に麗姫山・中央北部に八達山等、高さ一〇〇米台の丘陵地があり、麗姫山の東に”正祖”が農民の為に設けた”西湖”があり、名勝古跡も多く、風光明媚なところであった

 一日遅れで地上移動員も合流。 一夕、苦労を労い、大浴場でわいわい話に花を咲かせていたところ、湯槽の奥から髭面が

 「貴様ら何期だ」と声をかけるので「ハイッ、十四期であります」と一斉に答えると「俺も十四期だ、東航六中隊だよ」との返事に、全員一瞬唖然!

 時を移さず、湯をかけたり、頭から湯に突っ込んだりで、同期生としてそれぞれに苦労したであろう年月を思い、同期生に会えた喜びに一時湯槽が騒然となり、 一緒に入浴していた人達はさぞ迷惑した事だったろうと思う。

 入浴後は独立通信隊の班長室に招待され、感嘆と賛辞を送り宿舎に引き上げたが、我が身に引換えて思う時、情け無さと更に奮起しなければならないと言う気持が、複雑に交差し新たな決意となって湧き出すのを覚えた。

 部隊は『朝第一〇六部隊』と名称を変え、区隊長に真壁中尉(陸士五六期)を迎え、早速、訓練開始!

 大同に比べれば寒さなどはどこ吹く風ではあったが、分散されている燃料(ドラム缶)の移動や、ドラム缶の掩蔽壕作りは凍土に鶴嘴がはね返り、三十糎掘るとその先は簡単だがその三十糎に手が痺れ、大同時代とは違うなぁ、とこぼしながら、それでも元気一杯であった

 大同では朝、飛行機に高温の潤滑油を補給していたが、ここ(南鮮)では朝、エンジンにシートを被せ、その下で炭を燃やしてエンジンを温める方法を採っていた。お蔭でベラ廻しは大分楽となり、始動も殆ど始動車が来て始動してくれるので慣性始動機での始動が懐かしく、我こそはの志願者も多かった。

 しかし、伏兵が無かった訳ではない。炭火を囲んで機付長の自慢話に花が咲いている時等、新米整備兵であろうか、操縦席のスロッタルレバーを物珍しげに動かすと、途端に気化器からもれたガソリンに引火し、瞬く間に燃え上り一巻の終り。そのエンジンは配線関係の修理で、その日は使用不可能、予備機を改めて温めなおしての訓練開始であるから、他の班に潜り込まされたり大厄日となる訳である。

 飛行訓練は殆ど連日続けられ、計器航法や夜間飛行(大同では夜間の治安が悪く、夜間飛行訓練は実施出来なかった)と多忙を極めた。なかでも三点着陸の競い合いは下で見ている者をハラハラさせ通しであった。双発高練は切線着陸(胴体を水平にして尾部を浮かせて接地し、徐々に尾部を下げる着陸法)が基本であった。

 それで、尾輪・主車輪の三輪をほぼ同時にさせるのは、かなり難しいとされていた。殆ど最初は落着気味になってしまうのである。

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 計器飛行は操縦席の半分にカーテンを吊り下げ、助教殿の顔も見えないので伸び伸びと操縦する事が出来た。航法の途中、左側のカーテンをそっとずらして下を見ようとすると、カーテン越しに棒が飛んで来る、が適当に避けながら水平飛行をする苦労は並大抵ではなかった。

 今のように発達した計器ならともかく、針、ボ―ル、速度が主でよく飛べたものだと思う。

 後日、空輸の時など、離陸して雲中突破、雲上に出て飛行するなどの事が多かった。この時の計器飛行訓練が大いに役立ったものであろう。

 夜には相変わらず飛行場での軍歌演習や、切瑳琢磨と称する、今流の総括であろうか、余人を混えず、われわれだけでやっていたと思っていたが十六年兵の下士官が潜り込んでいたらしい。

 ある朝の点呼の際に、週番士官の学徒出身少尉殿より、隣の部隊(召集のおじさんの兵隊からなる飛行場施設部隊)等に比べて、起床動作、規律が実に立派である。とお賞めの言葉を頂いた。その夜の切磋琢磨は当然ながら、われわれ少年飛行兵を召集兵と比較するとは何事かと、召集兵(別に召集兵を軽蔑する意味ではない)と比較された事に悲憤を感じ、それぞれの反省の感情も激しかった。凍てつく夜空に軍歌は木霊していた。

 翌朝、週番士官殿は表現に適切さを欠いていたと謝られた。その態度に清々しさを感じ、以後深く尊敬した次第であった。

 二月二十六日午前四時、非常呼集。真壁区隊長の引率で水原神社に参拝。二・二六事件で刑死された先輩に黙祷を捧げた。

  「汨羅の淵に 波騒ぎ
   巫山の雲は 乱れ飛ぶ
   混濁の世に 吾立て兄
   義憤に燃えて 血潮湧く
   権門上に 驕れども
   国を憂うる 誠なし
   財閥富を 誇れども
   社稷を思う 心なし」

 何時までも、何時までも、明けの明星にも届けと歌った。

 衛兵所、飛行場大隊などの襲撃の真似事など、鳩が豆鉄砲を食ったような衛兵指令本部下士官などに溜飲を下げ、再び単調になりかけた訓練に活を入れたりであった。

 思えば、熊飛校・生徒隊(十一中隊・のち各文教場とも教育隊と言う名称になったので三中隊)初代中隊長、伊地知三郎中尉は陸士五十三期生で熱血漢であり、憂国の情の塊のような人であった。(終戦時割腹)

 ここに来て、また二・二六事件を思い、鬼畜米兵撃減の決意を新たにさせられた。

 水原飛行場にも、四式戦の戦闘部隊が展開し、四式戦に混じり編隊訓線の仕上げや艦船攻撃訓練が行なわれた。三十度の降下角での突撃、超低空での水平飛行、上昇、離脱とピストを目標に、これでもか、これでもかと突っ込むので、ピストの天幕の張り直しに大忙しであったり、四式戦の先輩に笑われないよう、爆は爆なりに連日頑張っていた。

 その間にも内地へ飛行機受領要員が出発したり咸興(宣徳)への空輸の手伝いをしたり、訓練にも活気が漲っていた。

 水温む頃ともなると滑走路外には湿地のようなところが散在し、横風が強くて止むなく滑走路を踏み外したら、皆で押し出す作業となる。エンジンを掛け自力も使うので、尾翼を押える者、エンジンの下にもぐって車輸を押す者、スコップで車輪の前の上を除けようとする者、今にして思えばよく人身事故が無かったものだと思う。

 ある日、掩休壕の近くまで行ったら酒の臭いが激しく、機付長の説明では、芋焼酎から採ったアルコールを巡航に使用出来るか試験するのだと、酒好きの助教は舌舐めづりしていたが、飛行場付近上空で高度をとり、慎重に燃料を切換え両エンジンと実験を繰り返したところ、巡航には支障のない事が判り、その後数機は専属に芋焼酎の飛行機となった。降りて来ると特にひどくプンプンと臭いを撒き散らすので、酒に弱い者は酔払うのではないかと思われた。

 空輸部隊は立川や浜松で受領した一式双発高練を米子経由で無事水原に空輸して来た。

 われわれ全員の集合したところで、部隊長が、特攻隊要員を募りたいから、希望者は一歩前へと申されると、同時に八十一名全員が一歩前に出たので、部隊長は大変感動された様子であった。


 一式双発高練に、八〇〇瓩(海軍名八〇番)爆弾を搭載、超低空で体当たりする戦法とか。

 特操二期生が隊長、助教が副隊長に、われわれは十四・十五期生から各隊三名を一個隊とする。

 と号三〇七隊、と号三〇八隊、と号三〇九隊、と号三一〇隊が編成され、各隊の隊長機には十六期生の通信士が乗り込む事となった。

 昭和二十年五月一日、急遽北鮮の会文(咸鏡北道鏡城郡朱北面、羅南の南約六〇粁、京城から七 “〇七鉄粁、日本海に面した丘陵地)へと移動を命ぜられた。

 特攻要員及び数名の空輸要員を除き、列車で会文へ、約十五時間の列車の旅の後、咸鏡本線会文駅で下車、徒歩で約一時間、部隊宿舎に二十三時頃到着すると、既に転勤命令が待っていて、四十五名の同期生と十数名の十五期生は宣徳(朝鮮咸鏡南道定平郡宣徳面、会文の南約三四〇粁)にある第二十五練成飛行隊へと転勤が申し渡された。

 去る日、篭原駅から軍用列車を共にし、今でも目を閉じると”貨車の発進の時の響き”が聞こえるようである。北京・大同へと長い道程を歩み、大同での秋から冬の訓線の厳しさに耐え、水原ヘ移動してからも冬の土掘りやドラム缶転がしと、厳しい寒さに耐えながらも楽しく相励ましあって来た同期生との別れは、劇的な夜となってしまい各所で思い出話や転勤先での話と夜を徹する事となった。

 翌朝同期生を駅に見送り、静まり返った隊舎に引き返すと特操三期生が到着していた。

 別れの淋しさで寂莫としていた隊舎は一転、喧騒の坩堝と化してしまった。

 われわれ、助教要員の兵長は行く所なく、隅の方に同居を迫られ、母家を取られた悲哀を噛み締め、まだ助教でもなく、下士官でもない中途半端な生活を強いられ、それでも機材の取り扱い、操作など助手として大いに働いていた。

 しかし借家住いで、陸軍曹長・特別操縦見習士官殿と一緒では息が詰まるので、特攻要員の宿舎である町の旅館へ押し掛けては気勢を挙げていた。

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 昭和二十年六月一日、陸軍伍長に任ぜられ、数人宛下士官室へと分れ、やっと我が住家を見出した次第で夜も賑やかな笑いが戻って来た。

 助教要員教育、空輸飛行、夜間訓練と多忙な日を送っていた。

 七月のある曇った夜、夜間飛行訓練中の一機が第四旋回中失速して墜落炎上してしまった。その夜は暗夜で雲が低く垂れ込め、海側へ向かっての第四旋回中に姿勢を誤ったのであろうが。緑と赤の翼灯が、流れ星を眺めるような早さで落下したと思うとパッと火柱が立ち上がった。 一瞬、夢見る心地であり、直ちに車で現場に駆け付けると、無残にも、つい先頃まで軽快な爆音を残しながら飛んでいた一式双発高練は一塊りの焼け焦げジュラルミンと化していて、中に特操二期生が数名折重なって殉職していた。

 翌日、部隊葬のあと、特攻補充要員が発表された。

  と号三〇七隊 正気隊
   丸山 明少尉 釣見藤雄曹長
   上原 功伍長 青島 勇伍長
   熊谷広男兵長 遠藤鉦二上等兵 
  と号三〇八隊
   内田 少尉  小池正秋曹長
   梶塚 登伍長 田尻史郎伍長
   土谷 兵長  和国浩一上等兵
  と号三〇九・三一〇隊省略
 の編成になった。

 宣徳に転勤した同期生等は、 一ケ月後、十名が宣徳へ残り、三十五名は新義州在、第十二練成飛行隊へ再転勤となり、双発戦闘機(キ四五)として訓練を受けたようである。

 七月のある日、空輸途中、水原で一式戦(隼)の地上滑走訓練中の嶋村凱雄君に会う。彼は宣徳から新義州へ転勤後一式戦要員となり、訓練中との事であった。

 再開と無事を喜びあい他の同期生の情報等を交換した。長く双発機に乗っていたので単発機はむづかしい等と話していたが、その後殉職したと戦後に知らされた。

 第四十一教育飛行隊は、特操三期の初歩訓練と”と号”各隊の訓練と多忙を極めていた。

 新しい飛行機も到着し、と号隊は愈々八月中旬、軍司令官査察との日程(八月十四日、面閲。総合訓練・薄暮離着陸・編隊。八月十五日、講評・帰還)も決り、訓練にも熱が入り、明日にも出撃出来る態勢と毎日が充実した日々であった。

 X日は十月中旬だろうとの噂あり、敵まで到達出来るか、信管操作を忘れないだろうか(突撃前に信管を外す必要がある)等々、話は出撃の事ばかりであったように記憶している。

 昭和二十年八月十二日夕、羅南地方に空襲警報発令。

 八月十三日未明。遠くにズシン、ズシンと何かの破裂する音で目を覚ます。

 直ちに水原への移動が命ぜられた。

 宣徳飛行場で一泊し、八月十四日、水原飛行場へと到着した。

 宣徳飛行場での夕方、助教であったと号隊員は、羅南沖に集結したソ連軍艦船に対して攻撃を敢行する事を知らされ、われわれも連れて行ってくれとせがんだ事が、昨日のように思い起こされる。

 八月十四日夕。地上移動部隊も水原に到着したので荷役を手伝い、八月十五日も朝から残りの荷役を手伝い、正午、天皇陛下の放送を駅近くの民家の庭で拝聴した。

 ソ連参戦により、苦戦が予想されるけれども、更に奮励努力せよ。との思召しと思い、大いに決意を新たにした事が脳裏に鮮やかに思い出される。

 八月十七日から北鮮からの救出飛行が数名の助教で行なわれた。

 八月二十五日、山手にある道立病院へ移動。

 九月十五日、列車で水原を出発して蔚山―釜山を経由して、十月二日、博多港着。国鉄博多駅で解散、復員した。

 昭和二十一年六月十五日、現役満期となる。第二十五錬成飛行隊(宣徳)は、終戦後、宣徳飛行場から平壌に移動し、南下の準備中、ソ連軍によって移動を禁止された。

 同期生中、重久 弘伍長外数名はソ連占領直後双発高練によって平壌飛行場を脱出、水原飛行場に着陸、同期生に合流して十月二日、博多港着、帰国、復員した。

 横井 清伍長外数名は、約一〇六粁を徒歩で南下し、新幕駅から南下する列車に便乗して南鮮に脱出、帰国、復員した。

 牛島一三伍長外数名は、部隊と共にソ連に抑留され、昭和二十一年五月、舞鶴港に上陸、帰国、復員した。

 第十二練成飛行隊(新義州)へ転勤した同期生は、終戦後部隊と共に列車で群山(南鮮)へ移動し、釜山経由で昭和二十年十月、舞鶴港上陸、帰国復員した。(了)

    平成2年6月発行 
    「第41教育飛行隊 隼18434部隊 少年飛行兵たちの回想」より転載


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