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 「第41教育飛行隊」
隼18434 少年飛行兵たちの回想


全文掲載


これは平成2年6月、元第41教育飛行隊員だった仙石敏夫さんが
同期の方達に募集した「思い出の一文」をまとめ、自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

第四十一教育飛行隊の思い出 (1)  上原 功さん

 東京澁谷駅付近を通過したのは、昭和十九年七月二十七日、十七時三十分頃であった。東京環状線の内側にある貨物線を通過する軍用列車に、その日、高崎線篭原駅で乗車した。

 陸軍少年飛行兵第十四期生、第十五期生の陸軍上等兵及び特別操縦見習士官(特操)陸軍曹長、数百名が乗車していた。

 夕日にはまだ遠い太陽に照らされて、過ぎ行く車窓の紅顔可憐な十八才の少年兵に、各駅のホームからは万歳万歳の声が木霊し、この人達の為にも日本の防人となって出発する光栄に感慨無量であった。

 大崎駅付近.から東海道本線に入り、夜を徹して走り続けた列車は、翌日の夕方下関駅へ到着した。 直ちに関釜連絡船に乗船した。

 船の臭いに顔を押める間もなく、波荒い玄海灘に向け二四〇粁の旅路と内地を後に自波を蹴立てていた。

 再び目見える時は、靖国の社頭での思いが、同期生の目と目の光に交錯していた。

 敵潜水艦の襲撃を回避する為か、低速になったり、急旋回をしたり、その船の揺れにうとうとしていたら、突如退避訓線で起こされ、只ならない状況にある事を肝に銘じ、緊張に眠れぬ一夜を過した。

 翌朝、船窓から遠くに朝鮮の山々を眺めた時は緊張と船酔の為、朝食も喉を通らない状態であった。

 敵前上陸の後、直ちに戦闘を行なった先輩達の事を思い起こし、奮起して外地への一歩を踏み出した。しかし、そこに待っている筈の列車(客車)は見当たらず、有蓋貨車の前で停止し、乗車の号令で二十名づつ分散して乗車した。

 内地の軍用列車に較べ、なんと待遇の悪い事か。馬並みかと、不満と不安の不平があった。そのうち昼食の配膳があり、思い思いに大の字になり、客車よりこれの方が疲れないなぁ等、今迄の不満は全くなかったように変わった。

 その時、「扉を閉め」の号令が掛かったが、扉を閉めると密室に閉じ込められたようになるので、両側の一扉を若干開けていることにした。すると、遠くでガタンと言う音がしたかと思うと、その音が段々と大きくなりながら近づき、大地が揺れたような響きと同時に貨車が動き出し、前車に引張られる揺れと後車を引張る揺れとが、交互に前後の震動となって身体に伝わってくる。力強い響きを残しながら列車は朝鮮の地を走り始めていた。

 途中、兵站司令部(輸送司令部?)のある駅で数回停車したので、用便、食事を済ませた。未だ食事中に動き出されたのには車内が大騒動になってしまったことがある。

 夜になると、外の薄明りだけを頼りに這いずって用を足したり、時としては扉の外に足を投げ出して小用を足したり、昨夜来の疲れが出たのか、列車の響きに併せて霞かな寝息の交響曲に変わっていた。

 二十二時過ぎであったろうか、列車は停って居りやゝ騒々しい。外の気配に目を覚ますと京城近くの貨物駅らしく、咸興(宣徳?)に赴任する同期生達が列車を乗り換えるべく整列している姿に接した。

 また会う日まで達者でなぁと心で呼び掛け、思い思いに軍帽を振って別れを告げ、再び深い眠りへと引き込まれていった。

 何時の間にか列車は単調な響きだけを残して北へ北へと走り続けている。

 次の朝食からは列車の動き出しにも慣れて、何時までも続く貨車の旅を楽しむ術を見出し、話は教育飛行隊から錬成飛行隊、戦地への事などが話題となった。

 長い鉄橋だなぁ、と、思っていると誰かが鮮満国境の鴨緑江じゃないかと博識ぶりを発揮する。

 朝鮮と支那との境のアノ鴨緑江の歌を思い出す。

 釜山から京城まで四五〇・五鉄道粁、更に新義州まで四九九・八鉄杵。計九五〇・三鉄粁を走破した事になる。これから奉天まで二七五・五鉄粁。天津まで八四二鉄杵。計一、 一八五鉄杵で、その先大同までの約三分の一を走った事になる。

 窓外に写る山々の緑が内地の頃とは極端に少なくなり、禿山が多く目立って来ていたが、満州に入ると更に山や緑が少なくなったようで広漠とした平原と背丈ほどの高梁畑が織りなす緑、浅黄色の絨毯模様が映るだけである。

 奉天兵站駅で小休止の後、列車は南西へと向きを変え再び走り続け、三日目・四日目に入った車内はただ黙々と貪り眠るか、車外の景色を右に移ったり左に移ったりして眺め、時々軍歌演習に声を振り絞り、心は教育隊への夢に胸を膨らませていた。

 奉天を夕刻発車した列車は、速度を速めたり、徐行運転、兵站駅では停車などを繰り返して翌日の午後山海関を通過、愈々長い旅を終ろうとしている列車の中を片付けながら、外を見ていると西に傾きかけた太陽に照らされた線路の近くの民家などが破壊されて数体の死体が路上に放置されているのが見られた。マネキン人形を転がしてあるような感じであった。誰かの情報では、昨夜南満州方面を空襲したBー二九が帰途落した爆撃の被害らしいとの事であった。

 列車は今までの力強い響きとは違って幾つもの切換ポイントを通っているらしく、左右に揺れながら徐行運転をしていて、愈々終着駅近くを思わせる。

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 天津駅を過ぎ、天津の軍用駅に停車した。住み慣れた列車に別れを告げ、輸送指揮官の訓示の後、漸く町が夕刻の活気に溢れようとする天津城内を通り、大陸の澄んだ空気を吸い込み天津兵站宿舎に向かう。見る物聞く物すべてが新しいものばかりで、キョロキヨロしているうちに宿舎に到着した。

 早速宿舎を割り当てられ、久方ぶりの入浴に生き返ったような気持になった。

 昭和一九年八月一日、陸軍兵長。私物の階級章を持っている者は早速付け替えて得意満面として寝に就いた。未だ列車に揺られているような気持であったが、久方ぶりに大地の上に横になったせいかそのうち熟睡してしまったようだ。

 翌朝はすっかり生気を取り戻した。第四十一教育飛行隊から派遣された引率の准士官・曹長殿の紹介があった。

 第四十一教育飛行隊は、昭和十九年五月浜松で編成され、同年六月六日浜松港を出帆して同年七月十日大同に展開した双発高高等練習機の教育飛行隊であること。今後の編成は宇都宮陸軍飛行学校(宇都校)熊谷陸軍飛行学校(熊校)出身の第十四期生六十五名。熊谷陸軍飛行学校出身第十五期生、大刀洗陸軍飛行学校出身第十五期生併せて八十一名、及び特別操縦見習士官第二期生六十名が第四十一教育飛行隊への転属者として紹介される。

 天津兵站宿舎での一日半の休養後、再び天津軍用駅から貨車に分乗して一路大同へと向かう。

 北京−八達嶺−張家口−大同の経路であるが、この鉄道は赤色勢力の防禦線として重大な政治的使命も担って、はじめ京張鉄道として着手され、後に綏遠方面に延長されて京綏鉄道と呼ばれていたが、平綏鉄道と改称され更に京包鉄道と改称された。

 天津−張家口間二〇二鉄粁には一、〇九一米の八達嶺墜道や二六七米の居庸間墜道などがあり、最大勾配三十分の一という急勾配で降りて小用を済ませ、また走って乗れる程の早さで、喘ぎ喘ぎ登っているような感じであった。途中駅(青竜橋)でスイッチバックし、高いところへ登ったなぁと思ううち、列車はグングン加速しダイナミックな走り方で今までの遅れを取り戻すかのような早さで張家口駅に到着した。

 張家口は昭和十四年に、通信筒釣上げ訓練観閲中、飛行機が失速、墜落して北白川宮様が殉職をされたと聞いた覚えがあった。

 張家口の兵站駅で驚いたのは大便所であった。外からは何の変哲もない板張りであったが、中を覗くと板が二枚穴の上に張られていて、最初の人が中央付近で背中合せにシャガムと、あとは各人思い思いの方向に向き用足しをしているのでは、出たいものも引っ込んでしまう気持であった。

 張家口は当時、察南、晋北(大同)、蒙古(包頭)の自治政府が合同して蒙彊連合委員会が設置され、雲王の逝去後は徳王が総務委員長として、蒙彊楽土建設中の中心地であり、昭和十九年は彊吉思汗紀元七三九年であった。いよいよ蒙咸最西北の地まで来たことを感じた。

 万里の長城で、小便すればょ、ゴビの砂漠に虹が立つよ―と、子供の頃に歌った万里の長城を遥かに越えて来た事に胸のときめきを覚えながら再び車上の人となる。

 あと、二〇〇鉄杵と聞かされ、貨車で四時間半の行程であった。

 既に心は双発機の操縦に不安と期待が渦巻いていて車外の景色も心に写らない。数刻を過ごし列車は大同駅(市街地の北東側)に到着した。(つづく)

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    平成2年6月発行 
    「第41教育飛行隊 隼18434部隊 少年飛行兵たちの回想」より転載


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