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 「第41教育飛行隊」
隼18434 少年飛行兵たちの回想


全文掲載

これは平成2年6月、元第41教育飛行隊員だった仙石敏夫さんが
同期の方達に募集した「思い出の一文」をまとめ、自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

飛?行兵の頃               仙石敏夫さん

  その一
 昭和十九年秋、大同の生活にも大分慣れた頃のことである。ある日飛行演習から帰ってくると誰だったか覧えていないが「オーイ仙石、班長室へすぐ来いとお呼びがかゝってるぞ」と伝えてくれた。飛行服を着替えて下士官室へ行きドアを閉めて「センッ」ゴクまで言わないうちにいきなりぶん殴られた。それまでにも経験があるが、まるで予期していない時に殴られると一瞬、脳震場を起こすことがあるが、この時も何の用事で呼ばれたのか知らずに部屋に入った途端に一発拳骨をくってしばらく気絶をしていたらしい。ここで慌てたのはどうも班長の針谷伍長の方だったらしく、気がついてみると抱き起こして一生懸命介抱しているところであった。結局気絶したおかげで一発殴られただけですんだが、何故殴られたかが問題なのである。部屋へ帰って針谷伍長の言っていたことを整理してみると、やっと「ハハ―ンあれかな」と思い当たることが浮かんできた。

 その日、飛行場で演習が始まる前に区隊長市田中尉が「お前達の作文を読んだが、中にはこの前へひきずり出してぶん殴ってやりたいようなヒネクレ者がいる」とえらいご立腹であった。

 その作文というのは、丁度その頃に教官、助教全員で内地へ物資の輸送に帰り、飛行演習が休みの数日があった。その間に人事係から大同へ来て感じた事、部隊内の不満、なんでもよいから作文を書いて出せとうまくおだてられたのである。

 そこでよせばよいのに当時内地から送られてくる甘味品等が教官、助教の処で止まってしまい、我々の処まで配給がまわってこないという噂がたっていたので、それをそのままうっかり書いてしまったというお粗末であった。

 これは東航校の反省日誌以来、区隊長が検関するという前提で書くことには慣れていた筈である。

 たまたまその少し前に日系の大同新聞から少年飛行兵の作文を募集したことがあり、二、三名の作文が新聞に掲載されたが、私の作文も(三分の二位は自分の文章ではなくなっていたが)載っていたので喜んで切り抜いて家へ送ったまではよかったが、これが油断をする原因になっていたとは後で気がついても手遅れで、区隊長の点数を下げたことだけは間違いのない事実であった。

  その二   上へ
 大同の秋の夜は内地の冬である。小林軍曹が戦死する少し前のことであったが夕食後に全員営庭集合がかヽった。そして冷たい地面に靴のまゝ正座をさせられ、小林軍曹が
「あのきれいな月や星を見よ、内地では貴様等の両親もこの月を見ているかも知れない。しかし、最近の貴様等はぶったるんでいる」から始まって二時間余も座らされ、最後に全員各班長にそれぞれ二つ三つぶん殴られて解散という事があった。

 ところが小林軍曹という人は演説があまり得意ではなかったのか、長々とお説教が続いたにも関わらず、何が原因でこのような正座をさせられたのかどうもピンとこなかった。

 普段はあまりこのような制裁を加える事のない有難い自分の助教であるだけに、その怒らせた原因を追及してみると、飛行演習終了後の注意と長かったお説教を足すと次のようになる。

 その日、教官、助教のみによる模範編隊飛行が実施され飛行兵はそれを地上から見学したが、間題はその見学の態度、方法だったのである。

 大同飛行場のビストは屋根がなく、三方を囲んで風をしのぐだけの簡単なもので腰をかけたまゝ上を向けば上空は見えているので、殆どの者がうるさい上官は誰もいないので横着をきめこんで雑談をしながら腰をかけたまゝ編隊が上空を通過するのを見ていた。ところがこれを小林軍曹は編隊長機を操縦しながらしっかりとピストの状態を見ていたのである。

 結局自分達が操縦していれば、その頃ではまだ全然地上を見る余裕がなかった編隊教育の真っ最中の出来事であるだけに、まさか上空から見学態度を監視されていたとは気が付かなかった訳である。

  その三   上へ
 水原の町に慣れた頃教官の移動で長谷川少尉という教官が赴任してきた、ところがこの人、あまり風采の上がらぬ年配の貧相な人なので、早速ポケットモンキーというあだ名を奉った。

 前任地より荷物が届き営外居住用の部屋へ手伝いに使役として私他二、三名が公用外出の腕章で出かけた。そこで家主さんの知人で水原日本人小学校の野溝先生という婦人と知り合いになり、是非家へ遊びにいらっしゃいと誘われた。場所は離陸したばかりの飛行機がすぐ真上を通り、裏に鶏小屋があるからすぐ分かりますよ。ということである。

 翌日離陸上昇の時、下を見てみるとなるほど田圃の中の一軒家ですぐ分かった。この野溝さん一家には水原在隊中ずっとお世話になり、終戦後に伊那の実家へ引き上げて来たと便りを頂き、お訪ねしたところ復員の時全部燃やしてしまって諦めていた水原時代の記念写真があり、三拝九拝して借りてきて複写したのが現在手持ちの写真である。

 前置きが長くなり過ぎたが、ある日曜日外出に際して伝染病の患者が発生したので一部の区域の通行禁止を指定された。これを聞いて野溝さんの家の方向だなと軽く聞き流して午前中八達山の近くで時間をつぶし、午後一人くらい線外突破をしても見付かりはしないだろうと禁止区域へ入って行った。ところがこれが大失敗、なんとその野溝さんの家で患者が出たということである。

 これはえらいことになったが、どういう方法で帰隊しようかといろいろ考えた末、外出時間ぎりぎりの薄暮を利用して田圃道から飛行場を突っ切れば目立たないだろうと日の暮れるのを待った。

 それまでにも、いたずら無断外出、脱柵の経験はちょいちょいあるのでこんな時には慣れたもの、殆ど誰の目にもふれず部屋へ帰り、何くわぬ顔ですましていた。しかし点呼の時、週番士官が「今日の外出で禁止区域へ入った者がいるらしいという報告がきているが、まさかお前達の中には居ないだろうな」と言われたのには驚いたが、らしいということは不確実情報である。ここは一つほうかむりをきめこんで以後半月間目立つ行動をしないよう充分気をつけることにした。

 軍隊という集団では、伝染病の予防には非常に力を入れているので、もしバレたとすれば一大事で処罰と隔離病院へほうり込まれたのは間違いなかっただろうと思う。

 いろいろな失敗を繰り返してきたが、これは大失敗の筆頭の方であるが、バレずにすんでまずはやれやれと一人で胸をなで下ろした。

 ところがこの家があの朝鮮戦争にも燃えず、現存していると聞いて驚いた。大同会を終った後、有賀守正君と連絡がつき九月六日に信州へ訪ねた。帰りにその野溝さんの実家を探したら近所で消息を聞く事ができて、早速電話をしてみてその話の中に二年前に姉妹揃って水原を訪ね、自分達の住んでいた家がそのまま残っていたこと、町の変わり具合をしっかり見てきたという事であった。

  その四   上へ
三年七ケ月の軍隊生活をふりかえってみても私は一度も人を殴った事がなかった。只ひたすら殴られるのが専門であった。そして運がよかったのか悪運が強かったのか知らないが軍隊特有のシゴキの道具で殴られた事もない。つまり上靴(革のスリッパ)帯革(帯剣を吊るベルト)がよく使われたがこの痛さは知らず、操縦教育が始まっても話に聞いていた伝声管のホースでやられた事もないので、痛い思い出は案外少なかった。

 バレたら最後その痛い思いを覚悟しなければならない筈なのに、長い被教育者生活中にはそれぞれ性格が違うようにいろいろな非行兵ぶりを発揮したものである。自分の非行兵ぶりを振り返ってみると隠れタバコと外出時の線外突破の二つが得意だったようである。

 第一回の線外突破は東航校の始めての外出から始まる。前の学校の同級生が同じ時期に中野の無線学校へ入っていたのでその寄宿舎まで訪ねて行ったり、大同では綴外になっていた大同炭鉱の社宅へ梶塚と遊びに行っていて運悪く空襲警報が鳴り、慌てて飛行場まで走って来て、どさくさにまぎれて飛行機の分散を外出姿のまゝ手伝っていたら「行動が迅速で宜しい」と逆に誉められ二人で顔を見あわせ苦笑したものである。何の事はない兵舎へ行くより社宅からは飛行場の方が近かっただけであったが、前記の禁止区域といゝ、ずいぶん禁を冒したがよくバレなかったものである。

 東航校入校以前の三年間親元を離れ寄宿舎生活をしていたので、知らない町を歩く事が好きだったのがこの原因かもしれない。

 タバコについては熊飛校卒業式の夜、班長福西軍曹(少飛九期)が内務班へ来て「昨日までは俺もしぼったが、お前達もよく頑張った。今夜はお別れだから酒もあるし、俺に出来る事ならなんでも聞くぞ」とご機嫌の様子「班長殿、自分は酒は飲めませんがタバコが吸いたいです」
「ウーン、タバコか。よし後で俺の下士官室へ来い。この部屋ではちょっとまずい」それからしばらく新しい部隊へ赴任してからの心得を教え「よ―し仙石、俺の部屋へ行くぞ」他の班の事は知らないがその時下士官室へ行った者は私一人だったと思う。

 篭原駅から輸送列車に乗り込み未知の世界へ旅立つ思いで大旅行が始まった。沼津を過ぎた頃であったろうか、出発時の興奮もさめ車内も落ち着いてきたので窓を少し明け、匂いを残さないようにしてタバコを吸おうとした。すると教育隊からずっと一緒の石倉が
「おい仙石、やめろ、やめろ、もし誰かが見回りに来たらどうする」と真剣になって止めてくれたものである。ところがここでやめるどころか反対に下関へ到着するまでにとうとう石倉にタバコの味を覚えさせてしまい、後年彼が胃を悪くしてやめるまで
「俺はお前のおかげでタバコの苦労をさせられたんだぞ」と恨まれることになった。


 大同へ着いてからは輸送列車で親しくなった特操二期の金原少尉、丹下少尉の部屋へ行くと、同じ被教育者の気安さから階級抜きで歓待してくれ大切なタバコの供給源であった。当時の中国ではフリーマーケットなのでイギリス系のスリーキャッスル、ルビークイン等ピンからキリまで何十種類も売られていたが、勘定してみたら僅かの間居るうちに約三十種類ものタバコを吸っていた。

 隠れタバコの常習者として班長達にも知れていたようだが大同にいるうちは現場を押えられるようなヘマは一度もなかった。

 ところが朝鮮の水原へ来てまだストーブが部屋にある頃の話である。ある日例によってストープの口をあけ煙をそこへ吹きこんで隠れタバコを楽しんでいると、なぜか急に部屋の中が静かになった。なんの事はない、私の後ろに週番士官の見習士官が立っているではないか、周囲の連中も教える暇もなかった訳である。そこで二つ三つぶん殴られて
「そんなにタバコが吸いたければ堂々と俺の所へ来い」
「ハイッ わかりましたつ」ということで一件落着した。翌日週番士官が一人でいるのを見定めて「仙石兵長、週番士官殿に用事、お言葉に甘えてタバコを頂きに参りました」
「おう仙石か、よしここでゆっくり吸ってゆけ」昨日ぶん殴られた分だけは元を引かなければ損だとばかり損得ずくでふかして「有り難うございました。帰ります」
「よ―し、もう部屋では吸うなよ。どうしても吸いたければ何時でも来い」しかし調子にのって二度目ノコノコと行く程甘くはなかった。 一回だけ行くところがミソである。

 三、四日過ぎた或る日、下士官室の前を通ると通信の比田勝軍曹(少飛九期)とばったり顔を合せた。すると、
「ちょっと中へ入れ」部屋へ入ると「お前、週番士官と何があった、仙石という奴は気持のよい男だといやに誉めておったぞ」
実はこれこれしかじかと一件を白状すると比田勝軍曹、呵々大笑、そして一声「お前もいいタマじゃのう―」

  その五   上へ
 宣徳の思い出は別紙に書いたが、新義州へ赴任するに際し、営門で大同から一緒に苦楽を共にしてきた宣徳に残る戦友達と別れを惜しんだが、何故か今でも印象に残っているのが白い入院姿で見送ってくれた韓国出身十五期の千田伍長である。聞くところによれば戦後は韓国軍の飛行将校として活躍し朝鮮戦争の際、惜しくも戦死したとか。

 咸興から汽車で一路平壌へ向かう。そして夕方平壌駅に到着した。

 ここでその時の我々一行、上級者は居ないし嫌な思いをした宣徳にも別れを告げ、新しい任地、新しい機種、意気揚々として怖いものなしといった状態である。引率者が受けていた指示がそこで乗り換え、新義州へ直行するようになっていたのか、そのあたりは不明であるが、誰が言い出したともなく平壌に一泊しようということになった。

 その時の引率者高井幸司(岐阜県美濃加茂市)に最近聞いた話では「あの時皆泊まると言い出したが、金を余分に預かっている訳ではないが最悪の場合自分の宿泊費位はそれぞれ持っている筈なので、とにかく宿の手配だけして平壌の兵站部を探して宿泊費を調達してきたが、あんな往生したことはなかった」と言っていたのでやはり宿泊の予定はなかったようである。

 どうしても同期生だけの移動の場合、引率者は使役以外の何者でもないようである。そんな引率者の苦労は別にして、宿に入ると同時に帯剣を外し、それぞれ何時も袋に入れて携行している軍刀をぶらさげ、外出許可証など関係なしとばかりに三々伍々連れ立ってアッという間に夜の平壌見物へ消えてしまったから立派なものである。

 終戦直前の内地では想像も出来ない程、空襲を受けていない平壌の街は明るく賑やかで、水原以来初めて(宣徳では外出は一度もしていない)裟婆の空気を吸っていい気分で帰って来た。

 幸い憲兵とか他のトラブルもなく平壌一泊は無事終り、翌日新義州へ到着したが、その後で内地の学校から宣徳へ赴任してあそこだけで教育を受けていた者ばかりだったら、あの場合どうしただろうかと思ったのを今でも覚えている。

  その六   上へ
 新義州へ到着した当日の様子も別紙に書いたが、見たところだけは十八才や十九才のヒヨコには見えなかったことだけは確かである。

 なにしろ宣徳で押えつけられていたのをここで発散するんだと言わんばかりの勢いのようで、航空長靴の名前でも今迄の二倍位の大きな字を書き助教を果れさせていたが、新しくキー四五屠龍、複座戦闘機の性能諸元、離着陸の要領の座学が始まるに及んでその勢いもシュンとなった。

 それもその筈、我々は熊飛校以来大同、水原、宣徳いずれも非常に広い飛行場であり、教育を受けた中練、 一式双発高練共に副操縦席がある。勿論キー四五層龍が複座とはいえ操縦席が一つしかない事くらいは知っている。が問題は飛行場の狭い事とエンジンの馬力の大きい事である。

 飛行機の大きさは一式双発高練に比べあまり違わないが、馬力は約二倍になる。操縦桿とスロットルレバーを操作する手が左右逆になるのはまあよしとしても、エンジン全開にした場合ヒッカケられる可能性は非常に強くなる理屈である。

 諸元の教育と同時に操縦席の計器板を暫く見ていて計器の配列を暗記して図示するという事を何回もやらされた。計器板の配列は当然飛行機によってそれぞれ違うので航法計器、エンジン計器が何処にどう付いているのか、フラップの操作、いろいろなスイッチ、ボタンの扱い方等々。これを学科として改めて教えられると大変である。

 さていよいよ実機による訓線は離着陸ではなく離陸の訓練である。教官、助教が後部席に乗り、伝声管で地上滑走の指示をし、離陸出発点に機を誘導する。初めて乗った飛行機でも今迄が双発機の訓練を受けているので地L滑走は問題ない、しかし問題はそれからで後部席からの伝芦管の指示で足の震えるような緊張感を我慢してスロットルレバーを全開にする。かなり大きく方向舵を必死で操作してなんとか直進する、尾部が上り水平になる、伝声管からレバー全閉の指示でエンジンを絞り着陸滑走の後半の状態で直進を保持する。

 一番心配した離陸滑走の初動でヒッカケられなかったので一安心すると、この飛行機も速度が落ちてからなかなか真っ直に走ってくれない、思い切って方向舵を踏まなければ蛇行するようである。 なにしろ滑走路に並行する誘導路を隔てるだけで飛行機の列線がある。ちょつとヒッカケられゝばすぐ大惨事になること間違いはないのである。

 その心配をした通りに誰であったか記憶がないが、滑走中に大きくヒッカケられ並んでいる飛行機の方へ飛び込んでしまった。そして準備線で交代を終り出発しようとしている飛行機の左後ろから右のプロベラで尾翼から胴体へと輪切りにしてしまった。しかし、幸運にも間一髪のところで止り人員に被害はなかったが二機大破であった。

 ここで今でも忘れられないのが、この訓練の教官、助教のことである。訓練生の技術については書類上でどの程度と想像するだけで、後部席では只伝声管で怒鳴るだけで何が起きてもどうすることも出来ない状態である。初めての飛行機に乗る我々よりもどんなことをやってくれるか分からない教官、助教の方が数倍恐怖感は強かったであろうと今にして思うのである。

 そんな緊張した空気のビストでのことである。
「オイ、ここで煙草吸ってもいゝんだぞ」と言われ、かえって落ち着かなかった。というのは飛行兵生活中初めて公式に喫煙を認められたのが、この新義州である。今迄何処に居ても隠れタバコ専門だったのが、急にピストでタバコを吸ってもよいと言われても「今それどころではありません」と言いたいくらいで苦笑したのを思い出す。

 結局その後離陸滑走が出来るようになった頃から悪天候が続き、これから離着陸という時機に八月十五日の終戦を迎えることになった。

 そしてその時も、今になってもあの屠龍を自由に乗りこなしてみたかったと思う反面、もし半年早くこの十二錬飛へ転属して来て居たとすれば、屠龍には乗れたであろうが、未修教育は終り、まず間違いなく特攻要員として編成されたであろうと思えば、現在があるのは屠龍に乗れずにすんだからだと感謝しているのである。

 終戦直前の八月初旬だったと思うが、ここ新義州十二錬飛で教育を受けていた乙十五期生が特攻隊の編成を終っていて、勇躍出撃する編隊を見送ったが、天候が悪くて引返し、幸いにも全員無事復員することが出来た。

 又風の便りに水原で編成された特攻隊、大同以来の仲間も天候に阻まれて出撃には至らなかったというニュースを聞きホッとしたものである。(了)

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    平成2年6月発行 
    「第41教育飛行隊 隼18434部隊 少年飛行兵たちの回想」より転載


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