「明治初年の頃、西洋から来た宣教師が『愛』と言う言葉を使うと、聴衆はクスクスと苦笑いをした。なぜなら当時は、『愛』と言う言葉は男女の卑猥な関係、卑猥な行動を意味していたからである」と言う一文を読んだことがあります。
今日においては、「愛」と言う言葉にその様なイメージを抱く人は少ないでしょう。それはある意味、宣教師たちの涙ぐましい貢献の賜物ではないかと思わされます。しかし、聖書の示す神の愛が、どれほど正しく伝わっているかについてははなはだ疑問です。現に、愛に傷つき、失望してしまった人々が何と多いことでしょう。それは本当の愛が分かっていないからではないでしょうか。
聖書では「愛」を次のように定義しています。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。‥」(Iコリント人への手紙13章4節〜8節)。また、コロサイ人への手紙3章14節「‥愛は、すべてを完成させるきずなです。」と述べられています。ここで使われている言葉は神の無償、永遠不変の愛を示す「アガペー」と言う言葉です。
ちなみに新約聖書はギリシャ語で書かれましたが、聖書の中心テーマである神の愛を表す言葉には主に「アガペー」と言う言葉が使われております。ギリシャ語には、哲学の国らしく、日本語で「愛」と表現されるものに大きく分けて四種類の言葉があります。エロス:男女の愛、恋愛。フィーリア:友情。ストルゲ:親子の愛、家族の愛。アガペー:神の愛、無償の愛。
ゴスペルで歌われる愛は「神の愛」アガペーを指します。
人間の愛は不完全です。冷めたり、裏切ったりしてしまう事もあります。しかし、神は決して冷めたり、裏切ったりすることはありません。ここに本当の愛があるのです。私達はこの愛に生かされてゆく時に、本当の安らぎと幸せな日々を送ることが出来るのです。
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