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北部ルソン島鉄兵団岡山工兵第十連隊の記録

(我が父は何処に眠る)

藤井 弘道

全文掲載


これは藤井さんが昭和20年8月に北部ルソン島で戦死されたお父上の消息を調査し、
平成12年8月自費にてまとめたものです。
藤井さんよりのコメントです。
『この記録は、平成12年に私が取り纏めた「我が父は何処に眠る」(参考資料8)
についてHP用に一部修正したものである。』
 『その際、写真1枚と北部ルソン島のカラー地図1葉は削除した。』
        
藤井弘道さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は藤井弘道さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

3.バレテでの戦いと転戦

(1)田名後少尉の記録

第十師団の大体の動きは参考資料の中で「歩兵十連隊」や「野戦病院」の転戦の記録で解ったが、工兵隊についてはどうもはっきりしなかったところ、上記江口様より送って頂いた参考資料4)の地図によると工兵隊の転戦の模様が記録されている。これは江口様によれば、工兵隊第1中隊の隊長以下ほとんどの指揮官が戦死した後指揮をとった田名後少尉が帰還直後、記録のため残されたもので、同中隊の唯一の記録だそうである。奇しくも台湾からの父の「覚悟のはがき」の検閲をした士官であり、母によれば北部満州チャムス時代(氏は当時准尉)に共に写った写真が我が家にあるそうである。それから50年以上も経った現在、その地図を見てはっきりと「藤井兵長」(この人は藤井勇であるように江口様が赤字で解説・記入されている。)の終焉の場所と日時が記されているのを見て感動と感謝などし、それを墓前に報告しようとは、またまた間延びしたものではあるが、私としては重大である。( 資料2参照 )

先に江口様より命日のことについて、記憶ははっきりしないが、6月15日を命日として半世紀もの間法要を営んでこられたのですからそれが正しいとおっしゃっていたが、そうであろう。ただ、この地図の記録によれば、はっきりと8月25日が父勇が亡くなった日である。おそらくコンコン平野からカシブ川を渡って連隊本部へ伝令のためカシブヘ向かう時に濁流に流されたものであろう。これは、江口様の記憶でもそのあたりの場所というのは間違いないとのことであるが、月日については上述のように定かでないようである。 

天川様の記憶だと、氏の第三中隊は5月5,6,7日孫山で敵の総攻撃を受けて全滅状態(中隊183人が2割程度)になり、転進したビノン、カシブでは各中隊共20人ほどになった。 勇の第一中隊も孫山の守備に着いて戦闘を行い、5月10日には同守備を63歩兵連隊と交代し、バレテ東部より、なお後方支援を行いながらビノン、カシブに入っているが、第三中隊とは少し違ったルートだったかも知れないと。

こうしてみると、8月の25日頃と言えば、連隊本部は終戦を知っていたし、

盛んに終戦のビラがまかれていたであろうことが他の記録にある。 その頃カシブと言うのは1ヶ月近く転進が遅い感じもするが、工兵隊は部隊の後方支援のため遅れたものであろうか。 それにしても、勇もそこまで、残り1割の中に生き残っていたのであるから、残念なことであるし、敗戦を知っていて何のために決死の伝令に出発したのかということにもなる。もっとも、その日より後に本格的な「誘死のジャングル、死の転進」が始まり、病気や栄養失調で死亡、自決した兵士も多いのである。

 

(2)江口、采女氏の記録

一方、江口様や采女氏調査の「第一中隊の戦死者氏名」(資料4)によれば、中隊140名中128名の戦死者名が確認されている。その大半がバレテで、そしてコンコン、カシブであり、その中で勇はコンコン(ビノン付近)で7月15日に死亡となっている。これは終戦直後の「岡山地方世話部」作成のものが元になっておることから、また、江口様ご自身も月日については不確かとおっしゃっていることから、私としては田名後少尉直筆の8月25日を信じたい気がする。ただ、日付けは若干のずれがある可能性がある。いずれにしても、7月中旬から8月下旬にかけてビノン−コンコン−カシブの川で流されたのは間違いない。

 (3)勇の想い出など

江口様によると、「藤井さんは、字がきれいなので印象に残っている。責任感の強い人で、それで伝令のため出発されたのです、これから伝令のため出かけるという話をして、その時止めたかったけれど出来ませんでした。その川はそんなに大きなものではなかった。」とのことだったが、雨期で増水していたのは記録にあるとおりである。「鼻のところにホクロがあったように思うし、妻子がおられたとは今まで知らなくて本当に驚きました」とのこと。

さらに、江口様より、昭和19年11月29日の台湾での出発前の第一中隊最後の記念写真を焼き増ししたものを頂戴した。数えると総勢140名程の中隊である。江口様や勇の顔も見える。写真の勇28歳、私の子供の年令である。写真中央の田中清中隊長や3人の小隊長は勇敢にもバレテ峠での戦闘で戦死、以後武装解除まで、田名後少尉が中隊を指揮され、帰還直後貴重な記録の地図を残されている。それを江口様が保管されている理由を知らないが、ただ、現在の生存者の方はわずかに5名となっているという。

 

只々夢のまた夢、遥かなりルソン島、静かなりバレテ峠

 

    平成12年8月 発行 
    「北部ルソン島鉄兵団岡山工兵第十連隊の記録」 藤井弘道著より転載

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