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北部ルソン島鉄兵団岡山工兵第十連隊の記録

(我が父は何処に眠る)

藤井 弘道

全文掲載

    

これは藤井さんが昭和20年8月に北部ルソン島で戦死されたお父上の消息を調査し、
平成12年8月自費にてまとめたものです。
藤井さんよりのコメントです。
『この記録は、平成12年に私が取り纏めた「我が父は何処に眠る」(参考資料8)
についてHP用に一部修正したものである。』
 『その際、写真1枚と北部ルソン島のカラー地図1葉は削除した。』


藤井弘道さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は藤井弘道さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

1.      はじめに

平成12年1月頃より暇を見つけて調査を始めて6ヵ月余、軍隊のこと、その記録のこと、帰還兵の方々の所在とその心情、母の遺族会のことなどに触れながら、「遙かなりルソン、父勇の終焉の地」を求めて、遂にその概要が明らかになった。ここにその経緯と結論を纏め置く。

私が物心ついて以来気になっていた父の消息、「昭和20年6月15日、北部ルソン島の河を渡ろうとしてその濁流に流され戦死」について、もう少し詳しく、又は本当のところはどうなのかという思いがあった。昭和47年頃、厚生省の戦時広報で調べた時は、勇は、「昭和20年6月貫通銃創により戦死」となっていた。これ自体が相当いいかげんな広報なのである。それっきりになっていたのであるが、去る3月岡山に帰省し、以前何か形見分けをと母に依頼しておいたので、結構多数の軍事はがきや写真を準備しておいてくれ、先に義姉の発案でもあった私の出生前に父のチャムスからの「命名のはがき」がよいのか、それとも我が家に届いた最後のものにになった昭和19年11月23日付け台湾からの「覚悟のはがき」がよいのかなど迷ったけれど、「覚悟のはがき」は字が小さく拡大コピーをもらいその原本はやはり母のものであるべきとし、「命名のはがき」と呉海軍工廠勤務時代に撮った20歳の顔がつるつるの写真を形見分けとすることにした。但し、「命名のはがき」には、「男なら“弘道”と命名せよ、女なら“由紀子”などがよいがおまえの好きな名前で良い」と言っていたのであるが、私が男だったのでそれは生きて、「由紀子」は消えたようなのだが、私の兄の長女にはそれからとったのかどうか確かめてはいないが「ユキ」と名付けられているので、従って、このはがきは完全には私が形見としても譲り受けて良いとも言えないが、まあ、母や義姉の意見もあり上記の如くになった。なお、次男の私に名前を付けた後2歳になるまでの写真は北満州に届いており、南方に持参したであろうその写真の何葉かが抜けた写真集が昭和19年の南方転戦の折り故郷に届けられている。南方転戦の際、下関に寄港したのであるが、未だ腕に抱いたことのない次男と5歳になる長男に一目会いたかったが果たせず直行となっている。

このような経緯があって、上記の「覚悟のはがき」を見ていると、これが肉親なのか遺伝なのかわからないが、我が父の限られたはがきの紙面に精一杯細々と書き込んだ女性的だがしっかりとした黒く美しい文字から、郷里に残した若き妻と幼き二児への渾身のメッセージが55年の歳月を経てもなお生々しく伝わってくるのである。そこで、かねてより気になっていた父の消息について少し調べてみようという気になったという訳である。

 

    平成12年8月 発行 
    「北部ルソン島鉄兵団岡山工兵第十連隊の記録」 藤井弘道著より転載

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