ヒロシマ、もうひとつのヒロシマへ1965年
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被爆朝鮮人の証言、”原爆スラム”、被爆体験の今日的意味 |
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ヒロシマ、もうひとつのヒロシマへ1982年 |
T もうひとつのヒロシマ |
<T章のためのノート> |
うちら、きょうの日飢えんために精いっぱい、考える余ゆうないんよ |
李玉順 |
ねぶったまんま死んでしまいたい、くい扶持、孫のために |
石蓮伊 |
ピカにおうたことかくして結婚、ケロイドの痕ようみせられん |
小竜 |
わたしら、いつこの子に原爆症出るか、心配でならんのです |
申福守 |
主人は、原爆症とアル中で、精神的にだめになっているんです |
匿名 |
私の望みといえば、毎日、牛乳一本飲みたい、それだけです |
宋年順 |
U 飢餓海峡 |
<U章のためのノート> |
破れた「黄金の国」の幻想 |
文甲順 |
女は男の下、朝鮮人は人間の下よ |
石蓮伊 |
募集屋が連れてきた炭坑 |
金 石浩 |
朝鮮人坑夫のストライキ |
柳 寅ギュ |
飯場放浪 |
呉 鳳寿 |
ブランコと赤旗のうた |
林 玉順 |
V 「我ラ皇国臣民ハ・・・・・」 |
<V章のためのノート 1>
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教科書の中の朝鮮、協和事業の趣旨にかんする内務省通牒、朝鮮総督府時局対策調査会、諮問答申案試案、朝鮮における日本人教師の回想 |
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「協和会」の実態 元「協和会」幹部・H氏 |
炭坑地獄からの逃亡
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エピソード あるばくち打ちの話、ある朝鮮人労務の話、ある徴用工の話、戦争末期の炭坑労働 |
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呉 鳳寿 |
<V章のためのノート 2> |
予科練志願 |
観 小竜 |
<V章のためのノート 3> |
広島に来た徴用工 |
金 再根 |
<V章のためのノート 4> |
朝鮮人幹部候補生の手紙 |
郭 貴勲 |
徴用・放浪・召集・・・・原爆 |
黄 今達 |
W 朝鮮人原爆被災 |
<W章のためのノート> |
正気で生きておれんのです、地獄みたものが・・・ |
申 福守 |
軍医がにらむんじゃ、「キサマ!鮮人だナ!」 |
呉 鳳寿 |
5人、子ォ死なしたですが、一人も骨、ひろえなかったです・・・ |
宋 年順 |
天地が目の中で燃え、「アッ」と火焔を呑んだみたいだった・・・ |
金 再根 |
人間の焼けた口、石でたたいて、金歯ぬこうとするもんがおる・・・ |
宋 ピョング |
私の涙は敗戦のくやし涙でなく、祖国解放の感激の涙だった |
郭 貴勲 |
X 廃虚からの再生 |
<X章のためのノート> |
竹槍で襲ってきた日本人 |
柳 寅ギュ |
劇場で開いた朝連結成式 |
申 福守 |
広島から朝鮮へ、再び広島、そして東京へ |
金 徹 |
Y ヒロシマ・二つの朝鮮 |
<Y章のためのノート> |
わしが若かったら、戦争、征くよ、ベトナムに・・・ |
宋 ピョング |
北鮮が自分らの国じゃいうが、先祖の墓も南鮮にあるんじゃ |
金 四竜 |
わしら、いうてみたら、旅の暮らしじゃけ・・・ |
宋 ピョング |
のこりの自分のいのち、祖国の平和統一に・・・ |
申 福守 |
私、共産主義の話しきくと、からだに霜が立つのです |
宋 年順 |
朝鮮学校、奪われて、哀号! 人間ダメにしてしもうた |
文 甲順 |
子ども、日本学校入れろいうが、あんたらの親切うらみます |
呉 鳳寿 |
民族の誇りにめざめるまで |
金 聖姫 |
帰化―わたしは「日本人」になった |
久保道子 |
資料・浦上刑務所で爆死した兄弟たち
―朝鮮人被爆者37年目の証言
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8月9日、八幡町で被爆、刑務所の廃虚で黒焦げの兄弟と対面 |
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張 世澤 |
Z 韓国の被爆者たち |
資料・在韓被爆者の証言 |
―同じ被爆者として―
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徐 成竜 |
―三菱造船所で被爆―
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金 在ヒョン |
―被爆者救済が反核の原点
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韓 貴順 |
韓国人被爆者の医療に携わって |
広島
河村病院院長
河村虎太郎 |
朴壽南さんとヒロシマ |
広島大学原爆放射能医学研究所
渡辺正治
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わたしのヒロシマ・メモ |
あとがき |
管理人の内容紹介
本文より引用
ヒロシマ、もうひとつのヒロシマへ1982年 文中より
『(前略)初め、私は、被爆した同胞に会うために広島を訪れたのであったが・・・・・朝鮮人被爆者は、どこにも存在しては居なかったのである。いや、その存在を奪われていたといった方がよいだろう。
発表される膨大な被爆死者たちの中に、あるいは外に、わたしたちは四万余の同胞をかぞえなければならない。強制連行による徴用や学徒動員、そして徴兵など軍都広島の苦役に繋がれた人々の死について、この国は、いまだに、一言もあきらかにせず、みずからの責任を問うこともしていない。そればかりか、戦後、朝鮮戦争を契機に燃えあがった、この国の反原爆平和運動やその思想にすら、もうひとつのヒロシマ、朝鮮人原爆被災の体験は、「唯一の被爆国民日本」の中にスッポリと履われ、欠落してきたのである。
しかも、わたしたち自身の民族体験であるヒロシマは、わたしたちが属しているそれぞれの南北の国家からさえも、その存在を無視されていたのであった。祖国の分断による矛盾は、もうひとつのヒロシマをも引き裂いていたのである。
市内に住む同胞八千余人が、ほとんど戦前からの在留者であり、その家族である事は、原爆被災が避けられない体験であったことを示すものであろう。しかし、同胞たちはわが子にさえ「ピカにおうたこと」を話すこともなく、訴えることばも、相手を持たずに、二十年、沈黙の闇に生き埋めにされていたのだった。このことの発見は、わたし自身に重い課題を負わせるものであった。わたしは、わたし自身からも奪われていたもうひとつのヒロシマの復権を、わたし自身の存在の回復のために、自らに課したのである。(以下略)』
著者あとがきより引用
『(前略)より多くの読み手との出会いが望まれる本ほど、いまは街の本屋さんで眼につきにくくなっているのが実状です。商品として売れるか、売れないか、ということだけに本の価値が左右され、大手の恣意によってそれが決められているのが現状です。民主主義の根幹である「言論・表現の自由」さえもが、いまや資本の論理によって支配されているかにみえます。
さらに一方では、教科書から「侵略」の文字が消され、「原爆の図」が抹消されているとき、「暗部」を告発していく真実の歴史の発現は、いよいよ書き手と読み手の出会いを権力の恣意によって阻まれていくのではないでしょうか。(以下略)』
(引用文中の下線は管理人が付したものです。)
確かに私達日本人は、あの原爆のことに関する情報としては日本人が被害を受けたと言う観点でしか見ていないということがあると思います。でも、それでは戦争の実態を把握する事は出来ません。同じように被害を受けた日本人以外の方達の実態も知らなければいけません。さらに、その方たちは何故当時日本に居たのかと言う事も重要な事だと思います。
日本人ももう一度あの戦争を考える時に、自国民だけではなく、全ての方達の立場になって考える必要があると思います。 |