<まま呼息の発見>

管楽器演奏の呼吸に関する考察
質疑応答編

第11回


<能の呼吸法>

1999年11月20日(土)放映のNHK教育テレビ「ETVカルチャースペシャル:能に秘められた人格」という番組は、全編これ呼吸法という話で、ちょうど私の「考察第6回」を別の角度からまとめたような内容でした。

番組で、能楽師・梅若猶彦氏の呼吸と脳血流の変化を分析していました。能の場合、悲しい場面を演じる時も、能面をつけているため、顔で悲しみは表現できません。
全身で悲しみを表わすために、梅若氏は呼吸を変化させ、脳内を本当に「悲しい」状態にしてしまいます。一方、女優の樹木希林さんの悲しみ演技では、泣き顔になり、涙はあふれ、嗚咽ももらしますが、脳内はいたって平然。つまり本当には悲しくないわけです(希林さんの演技も迫真ですごかったですよ)。

呼吸ひとつで精神をコントロールする梅若氏は、この17年間、毎日、立禅を組んで丹田呼吸法を繰り返してきたといいます。
立禅とは、あの王向斎が意拳の訓練体系の中心にすえた「立つ」トレーニングです(考察第6回参照)。考察第2回で「ふくふく」を丹田呼吸法と紹介しましたが、この番組で登場した丹田呼吸は「ふくへこ」でした。

<教育現場に呼吸法>

非常に興味深かったのは、明治大学助教授・斎藤孝氏の研究です。今、若者が「キレやすい」のは、呼吸が浅いからだというのです。

脳にはセロトニンという物質を分泌する神経系があり、この働きが弱いと、動物は攻撃的になるのだそうです。そして、セロトニン神経系は、呼吸、歩行、咀嚼などのリズム性の運動によって活性化するとか。呼吸が浅いと、そのリズムが十分に伝わらず、セロトニンの分泌が減り、攻撃性が増す。

ヨーガの呼吸法を実践している人を調べると、セロトニン・レベルが高いそうです。深い呼吸は、人間の器を大きくし、自分に都合の悪いことでも受け入れる度量を育むとか。

埼玉県の大宮開成高校で、斎藤助教授は、呼吸法に関するある実験を行いました。生徒に簡単な計算問題を1分間行わせ、丹田呼吸の前後で、成績を比較したのです。この時の丹田呼吸は、へそ下をふくらませたりへこませたりする「ふくへこ」で、吸息3秒、止息2秒、呼息15秒というリズムでした。生徒たちは1分間の計算を終えて、丹田呼吸を2分間(6呼吸)行い、さらに1分間計算しました。

結果は、被験者全員が、呼吸前よりも呼吸後が成績アップ。中には30個以上たくさんの計算ができた生徒もいました。生徒たちの感想も、「精神的に落ち着いた」「リラックスした」「スッキリした」「集中できた」「体調がよくなった」など、わずか2分間の丹田呼吸の威力を痛感したものが多く見られました。斎藤助教授は、この呼吸法の指導を、いくつかの学校で行なっているそうです。

<日本文化と呼吸>

番組のエンディングは、こんなナレーションで締めくくられていました。

「日本人は、特定の宗教や思想をよりどころにするというより、自己の体のあり方をとぎすますことを通して、精神を磨いてきたのです・・・」

私が考察第1回で問いかけたのは、このことにほかなりません。

「なぜ管楽器奏者は、呼吸をただの空気の出し入れとしてしか認識しないのでしょうか」

呼吸なくして語れない楽器を演奏しながら、管楽器奏者はあまりにも呼吸法に対して無関心ではないか、と思うわけです。

東洋、特に日本の文化は、ハラ(丹田)を中心とした高度な身体運動に支えられてきたといいます。深くゆったりとした腹式呼吸は、そのハイレベルな文化の入り口といえるのです。これからも、呼吸法の奥の深さを、できるだけご紹介していくつもりです。


(後日談)

斎藤助教授は、この番組がもとで2000年にNHKブックスから「身体感覚を取り戻す」という本を出されました。2001年5月、この本が第14回新潮学芸賞を受賞。
で、斎藤先生は、2001年下半期は「声に出して読みたい日本語(草思社)」というベストセラーをお書きになりました。これは、現在でも平積みになっている書店がたくさんあります。