<まま呼息の発見>

管楽器演奏の呼吸に関する考察

第6回


<呼吸が肉体と精神に及ぼす影響>

本論では、呼息時つまり演奏時の腹部の動きに着目することで、さまざまな呼吸メソッドの共通点をあぶり出してみました。一般の教則本よりは緻密な分析を試みたつもりですが、これとて表面的な観察にすぎません。呼吸には、空気の出し入れを越えた、もっと微妙で内面的な作用があるからです。

たとえば、腹式呼吸を熱心に繰り返すことで胃腸をマッサージすることができます。人間の腹部は鬱血しやすいため、この部分の血行をよくすることで、全身の血の巡りがよくなります。

また、深い呼吸で多くの酸素を取り入れると血中の酸素が増え、酸・アルカリ比率も変化します。血液成分が変われば全身の細胞状態にも影響が及びます。特に、脳のように酸素を大量に消費する臓器は、この影響が大きい。

さらに、呼吸ペースを変化させることで、心臓など不随意器官に働きかけることができる。すぐれたヨーガ行者が心拍数を意識的に変化させるのは、「呼吸-自律神経-心臓」というルートでコントロールしているのだと考えられます。

このように、「意識的な呼吸」の影響は、循環器系・消化器系から神経系・免疫系にまで及びます。くわえて、呼吸は肉体だけでなく精神状態をも左右します。ちょっとした深呼吸でさえ気持ちを落ち着かせることを、我々は経験的に知っています。さらなる体系的・集中的なトレーニングを積めば、呼吸によって意識状態を操作する可能性が開けます。

<認識力を磨くトレーニング>

天才画家とアマチュア画家の絵を描くテクニックには、それほど大きな差があるわけではないといいます。両者を決定的に分けているのは「ものを見る能力」だとか。天才とアマチュアでは、同じものを見ていても、目に写
る風景がまったく違うとうことでしょう。

音楽の場合も同じかもしれません。演奏家は、正確な音程とリズム・美しい音色・速いパッセージ・広い音域などを得るために多くの労力を費やします。これらはすべてアウトプットのトレーニングです。では、インプットつまり認識能力を高める練習は、はたして体系化されているのでしょうか。

五感(インプット能力)とは、視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚の5つですが、たとえば触覚ひとつとっても、温冷感・乾湿感・密疎感・柔硬感・痛感・圧感・重感・流動感など、さまざまな感覚が含まれます。一説によると、人間は17種類もの感覚を数えることができ、それらの大半には名前が付いていないともいいます。

これらの感覚を正確に感じ分けられる人とそうでない人とでは、日々の練習の質に違いが生じるでしょう。その結果、アウトプットたる演奏の質にも違いは出るのは当然です。

呼吸法は、これらの微妙な感覚差を識別するための「認識力」を磨くトレーニングでもあると東洋の文献は教えています。

<東洋的鍛練法に学ぶ>

意拳(中国武術の一種)は、格闘技でありながらすべての攻防の型を捨て去り、「立つだけ」のトレーニング(立禅)を修行体系の中心に据えました。じっと立ったまま、ただひたすら呼吸法を繰り返す。技というアウトプットよりも、感じる能力つまりインプットを重視した究極の例だといえるでしょう。ちなみに、意拳創始者の王向斎は中国武術史上最強と評される人物で、研究者によれば現代最強の格闘家ヒクソン・グレイシーを瞬時に倒す能力があったと考えられています。

宗教行法である坐禅や、岡田式静坐法という養生法においても、ただただじっと坐って呼吸を行ずることが鍛練の中心課題となっています。これらも「認識力」を磨くためのトレーニングと考えることができます。つまり、呼吸法は単なる「効率よい空気の出し入れ」の技術をはるかに越えて、全人的な能力を高めるメソッドたりる、と推論できるわけです。

<ふたたび問うー呼吸法は必要か>

本論第1回で引用した対談のように「呼吸法について僕は基本的に何も考えません」というのと、どこまでも緻密に観察を重ねて呼吸法を精練してゆくのとでは、演奏家・芸術家として、その肉体的コンディション、精神的安定性、そしてなにより大切な認識能力に大きな開きが生まれると考えられます。

呼吸法の向こう側に広がる繊細かつ巨大な世界は、「吹きやすかったらええやないか」という次元の議論では決して語れないのです。