桑名〜四日市
H.25.07.20
早朝家を出て、桑名に8時50分に着いた。ギリシャ旅行で御一緒した方に電話をしたが、留守のようで出ない。駅前の「新之助貝新」の売店による。時雨蛤を2袋買い、カードを出すと、ここは古い昔の機械で番号がうまく読み取れないと何度もやっているので、「現金で」と言うと、消費税をまけてくれ、時雨アサリをおまけにくれた。かえって恐縮して店をでて歩き始める。閉まっていると思っていた、本店も営業をしていた。
本多忠勝銅像・徳川四天王の一人として、家康公の信任厚く、有能で剛勇な男であった。桑名にはいった平八郎は、木曾三川、伊勢湾の水運を利用して発展してきた港町を、城を中心とした城下町に作りかえるという大規模な都市開発事業を断行した。「慶長の町割り」と言う。
海蔵川を渡り、左に入るのだが、間違えてそのまま国1号を歩いてしまった。何も見つけられないまま、間違えたことに気がついた。JR四日市に、16時に着いたが、駅前は閑散として、ホテルもなさそうなので、今日は帰る事にした。豊橋では、花火大会があるようで、浴衣姿の女の子の姿が目に付いた。 家に帰ったのは、8時30分をまわっていた。でも、日帰りも出来ることが分かった。
この先で、国道から左に入る道があり、その先に多度神社がある。.少し先が、海蔵川で、堤防に平成13年に建立された99番目の「三ツ谷一里塚跡」の石碑がある。説明板が消えかかっていて読みにくかったが、(一里塚は川が拡幅された際、川に取り込まれた。東海道文献絵図によると、「東海道が海蔵川に突き当たる所にあった。)
その先には、「八十宮御遺跡」の石碑がある光明寺がある。八十宮(やそのみや)とは、吉子内親王の幼名で、異母兄に東山天皇、同母兄に有栖川宮職仁親王がいる。生後一ヶ月で将軍家継と婚約したが、夫もわずか6歳だった。2年後に家継が死去したため、史上初の皇女降嫁には、至らなかった。その後、出家して、法号を、「浄淋院宮」と称された。
しばらく歩くと、「真央法顕上座」と刻まれた石柱があり、その脇に小さな薬師堂がある。そのそばに、「東海道400周年記念」の「東海道」の道標があった。また歩いていくと、一本だけ残った松の木が立っている。
JR朝日駅を過ぎ、二又になった道を左に入る。桜並木があり、伊勢湾岸道の手前の土手に常夜燈がぽつんと建っている。多賀神社常夜燈 五穀豊穣と刻まれている。ガードをくぐると、朝明川(あさけがわ)にでる。壬申の乱の際に、大海人皇子が伊勢神宮に遥拝し、戦勝を祈願した遼太川である。先ほどの常夜燈は、この川の堤にあったものを昭和6年に移された。 橋を渡ると、四日市市松寺に入る。「松寺石取祭」の幟が目に付き、遠くから、鉦や太鼓の音が聞こえる。音につられて、右に曲がっていってみると、山車がでて、法被の人が集っていた。そばのおばあさんが、「今、始まったところ。今日と明日がお祭り。」と教えてくれた。
城南神社を過ぎ、国道258号の下を通り歩いていくと、右手に「伊勢両宮常夜燈と里程標」が建っている。説明板によると(文政元年1818年に東海道の灯標として、伊勢神宮への祈願をこめて建てられた。安永は町屋川の舟運や東海道筋の通行客を相手とする茶屋などで賑わったところである。)
駅から東に歩いていくと、左手に海蔵寺がある。説明板によると(薩摩義士墓所・薩摩義士とは、当地に度々水害をもたらした木曾・揖斐・長良三大河川の治水工事による薩摩藩85名の犠牲者を言います。当寺には、工事終了後大幅な予算超差と多数の藩士を失った責任を負い切腹した奉行平田靭負の墓碑を中心に24義士の墓がある。)境内には、薩摩義士が岐阜県海部市に植えた千本松原にはえていた松の枯れた輪切りが展示されている。
その後、左右にカーブして、しばらく歩くと、国道1号に合流する。金場町交叉点に小さな道標がある。「右 くわな 左 四日市 大矢知道」と刻まれている。
三の丸堀の舟入橋を渡り、街道に戻る。
街道を左に進むと、春日神社がある。青銅鳥居があり、その横にしるべ石がある。「たずぬるかた」「おしゆるかた」と刻まれたこの石は、行方不明者を捜す伝言板だった。 境内には、山口誓子の句碑がある。「山車統べて 鎧皇后立ち給う」山車に立つ神巧皇后を詠んだもの。
料亭船津屋は大塚本陣のあったところで、建物の一角に、久保田万太郎の句碑があった。船津屋は泉鏡花の「歌行灯」のモデルになった。昭和14年、久保田万太郎は船津屋に泊まり、戯曲、歌行灯を書き上げた。玄関から二人の従業員らしい女性が出てきたので、写真を撮らせてもらった。厨房の人らしい。
5分ほど歩くと、志氏(しで)神社の鳥居が建っている。神社はこの奥にあるようです。神社は、4世紀末に築造された前方後円墳の前に建てられた。「しで」の氏は、氏の下に一が付く字で、万古焼きの四泥(しで)と同音である。街道筋には、万古焼きの店があった。
力石を左折し、突き当りを右折すると「左 四日市 右いかるが」と刻まれた道標がある。この先に南いかるが町という地名の所があるそうだ。この先の富田山代有料道路の下を通って、米洗川手前に常夜燈がある。
少し行くと、旧茂福村で、突き当りの三叉路に、新設用水道碑がある。脇に、大小の力石が置いてある。(明治中期、二つの寺の御堂を再建するため、土台石の奉納があった。その際、地固めに集った人たちの間で、奉納された石を持ち上げ、力競べを、行なった。茂福地方では、その後も、大正の終わりまで、力比べは続いた。)とあった。
十四川の手前には、善教寺があり、橋を渡ると、右手に薬師寺がある。十四川堤の桜並木は、両岸1200mにわたってソメイヨシノが約800本植えられている。「ささやきの小径」「哲学の道」の名前がついている。
近くに、「明治天皇御駐れん跡」の石碑が建っている。明治天皇は、明治元年9月20日に京都をたち、25日に富田茶屋町の広瀬五郎兵衛方に、御少憩になり、富田の焼き蛤を賞味された。同年12月19日、京都に戻られる時にも、小休止された。御休憩された屋敷は、現在の富田小学校から市民センターにかけての場所にあった。と言う。
5分ほど歩くと、左側に、八幡神社がある。境内には、力くらべに使われたという、約100kgの横長の力石が置いてあった。八幡神社が富田の西の端で、八幡の森が茂り、昼でも暗かったと伝えられているが、今はそんなことはない。 突き当たりに、長興寺があるが、東海道は、手前の三叉路を右に入り、仲町通りを歩く。この辺りで、迷い行きつ戻りつしてしまった。そのまま進むと、右に富田地区市民センターがある。その前に、「右 富田一色 東洋紡績 川越村」と書かれた道標が建っている。
三峡鉄道の高架下のJR関西線の踏切を渡ると、変則の四差路があり、左にカーブした道を左折する。その先の三峡鉄道と近鉄の高架をくぐると、一里塚橋がある。その橋を渡ると、右に、富田(とみだ)一里塚がある。(四日市には、富田、三ツ谷、日永、采女の四ケ所にあり、日永の一里塚と共に、県指定史跡になっている。)
蒔田の入ると、右手に御厨神明社があり、同じ境内に宝性寺があった。宝性寺は、天平12年、聖武天皇の勅願で創建された。永禄11年の長島一揆で焼失し、その後再建されたものも焼失した。現在の建物は、文化11年(1814)に建てられたものと、鬼瓦の銘から推測される。本堂は、入母屋造りの本瓦葺である。
右手に、御厨神明社があり、その先の左に、「松寺の立場跡」の看板がある。(昔は大きな榎があり、立場茶屋と呼んでいた。当時桑名と四日市の間には、五ヶ所の立場があり、北は小向の立場、南は富田の立場があった。)
その先の右側に、「浄泉坊」がある。東海道を行き来する大名はこの寺院だけは、駕篭から降りて、頭を下げなければならなかった。この寺院には、「三つ葉葵」の使用が許されていたからである。屋根瓦や、門の装飾に葵のご紋が彫られていた。
少し行くと、旧小向村で、右に東海道の標識と、御厨 小向神社の石柱がある。ここを右に曲がると10分ほどで神社にいけるらしい。8月には「たいまつ祭り」が行なわれる。 左側に「橘守部誕生地遺跡」がある。橘守部は、この地の庄屋の家に生まれたが、父が、一揆加担の容疑で、家は破産し、ここを追われている。その後国学を学び、天保の国学四大家の一人に数えられた。左に曲がっていくと、碑が建っているようだ。
町屋橋を渡り、右に曲がると、東海道の標識があり、左に入る。「山口誓子句碑」があると言うことだったが、見つからない。戻って捜すと、煙草屋さんの看板に隠れてその後にあった。「露けさよ 祷りの指を 唇に触れ」(地図には、国1を信号まで行き、右折して街道に入るようになっていたが、川を渡って直ぐの道に東海道の標識が新しく立っていた。)
国道1号の町屋橋を渡る。手前には、「町屋川のうつりかわり」の説明板、渡りきると、「文学の中の町屋川と橋」の説明板があった。現在の橋の少し上流の川の中に古い橋脚が残る。江戸時代には、中州を利用して大小二つに分かれていた。
その道を川のほうに向かって歩くと、「町屋橋跡」がある。江戸時代には、ここは桑名宿入り口の立場であり、町屋川の船着場でもあった。茶屋では、名物の安永餅を売っていた。対岸の縄生の間に町屋橋が架かっていた。昭和8年に国1の橋がかかり、東海道の橋は廃止された。
東海道入り口の看板
左手に城南神社がある。伊勢神宮との縁が深く、遷宮ごとに内宮の一の鳥居を下げられている。神社の前に「皇大神宮一之鳥居下賜」の石碑が建っている。伊勢神宮の一の鳥居は桑名宿の七里の渡しの鳥居になり、その後この神社の鳥居になる。
街道筋には、このような連子格子の古い家が所々に残っている。
少し休憩して、歩き始め10分ほどいくと、案内板がある。「江場松原跡」と書かれている。(七里の渡しから大福までの東海道は家が建ち並んでいたが、江場から安永までの192間345mは、家もなく松並木となっていた。西には鈴鹿の山脈が遠望され、東は伊勢の海が見られた。昭和34年の伊勢湾台風ころまでは松並木が残っていたが、現在は家が立ち並び、松も一本も残っていない。)鈴鹿も見えないし、伊勢の海も見えなかった。
山車を車庫から出して、8月の祭りの支度をしている。山車は立派な彫り物がしてあり、彫師の名前が書かれていた。
この辺りは寺が多い。その先の右側に鳥居が建っている。立石神社のもので、社殿はずっと先にある。この神社は、桑名藩初代藩主、本多忠勝により創建された矢田八幡宮が前身である。この辺りは、戦災を受けなかったので、古い連子格子の家も残っている。 その先の角の右側に、火の見櫓がある。江戸時代は矢田町は、東海道の立場だった。説明板によると(江戸時代の福江町は東海道の立場であった。久波奈名所会図には、「此立場は、食物自由にして、河海に魚鱗、山野の蔬菜四時なき事なし」とある。角には火の見櫓があり、現在でも、馬をつなぎ止める鉄環のある家や、連子格子の家が見られる。福江町も矢田立場の続きで、茶屋や宿場が多くあった。福江町の南端は桑名宿の入り口であるため、宿引き小屋があった。)
少し先の角に「左 東海道渡船場道、右 西京伊勢道」と刻まれた石道標が建っている。その前に、一目連神社がある。珍しい名前の神社である。祭神は、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)で、製鉄、鍛冶や金属加工の神そして、台風の神とも言われている。この辺りは、鋳物に従事する人が多かったことから鍋屋町(現在は東鍋屋)と言う名になった。
その先に、「善光寺一分如来」「世話人 万屋吉兵衛」と書かれた石碑が建っている。その奥に石碑が沢山収められた場所がある。本願寺の説明板によると、(境内には、松尾芭蕉の門人である各務支考の分骨供養塔である、梅花仏鏡塔」がある。芭蕉や、俳句結社「間遠社」の歴代社長句碑10基がある。)
少し先の右には、天武天皇社がある。壬申の乱の時、大海人皇子(天武天皇)が一時を過ごしたとされる場所に創建された神社である。天武天皇、天皇と持統天皇の第一皇子・高市皇子が祀られている。
この辺りも、鉤型になっていて、ホーム前を右折し、その先を左折すると時雨蛤を売る店があった。貝新以外にも何軒か店がある。
料亭山月を右折すると、東海道だが、さっき通ってきたので、吉之丸コミュニティパークを歩く。先のほうで、大声が聞こえるので、祭りの練習をしているのかと、声につられていくと、市民プールから聞こえてくる。中学生の水泳競技会が開かれているのだそうだ。「柿安精肉本店」の大きな建物がある。左手には、桑名城址があり、九華公園になっている。
松平定信の像・8代将軍吉宗の次男田安宗武のの子供で、白河藩松平定邦の養子になり白河藩主となった。寛政の改革を断行した。その後桑名に国替えとなった。
松平定綱の像・桑名藩5代目藩主
桑名城には、元禄大火後再建された時点で51の櫓があった。川口にある七里の渡しに面して建てられた蟠龍櫓は桑名のシンボルでした。蟠龍とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍をいいます。龍は水を司る聖獣で、航海の守護神としてここに据えられた。
舟会所跡・宮や佐屋へ渡る旅人のため、渡船の手配をする事務所。旅人は、ここで料金を払い乗船した。問屋場跡・旅人のため人足や馬を手配する事務所で、人馬継問屋場、人馬会所とも言う。両方とも跡地はさだかでない。
通り井跡、桑名は地下水に海水が混じるため寛永3年町屋川から水を引いた水道を作り、町の主要道路の地下に筒を埋め、所々の道路中央に正方形の弁を開けて、人々が利用した。昭和37年道路工事で、通り井跡の一つが発見された。
松尾芭蕉が、野ざらし紀行の初旅の折、宿泊した。境内には、芭蕉句碑が建っている。「冬牡丹 千鳥よ 雪のホトトギス」
佐屋街道へ
毘沙門堂
一里塚から5分ほど歩くと、近鉄・伊勢朝日駅に出る。線路を渡ると、「旧東街道」の道標があり、「朝日町史跡案内板」や樹齢300年の榎の説明碑などがある東海道語らいの広場がある。
桑名宿は、東海道で宮宿に次ぐ2番目に大きな宿場であった。本陣が2軒、脇本陣が4軒、旅籠は120軒あった。昔は宮宿から桑名宿までは、七里の渡しを利用するが、今はなく、私は佐屋街道、巡見街道を歩いて桑名に入った。通りに戻り、東に歩くと、東海道に出る。方向は反対になるが、七里の渡しに向かって歩く。所どころに説明板がある。
しばらく行くと右手に、寺町通りと書かれたアーケードがある。屋根があり、店の冷房が流れてきて涼しい。しばらく店の間を歩くと、右手に「桑名別院本統寺」がある。(宗祖親鸞聖人が開顕した「本願を信じ、念仏申さば仏になる。」というみ教えを伝える別院として、三重県内の真宗大谷派の念仏・聞法の中心道場です。一般に「ご坊さん」と呼ばれている。)
18切符 2300円
タクシー 1200円
タクシー 990円
計 4490円
見えてきた渡し跡に立つ鳥居は、伊勢神宮一の鳥居である。(七里の渡しは、伊勢の国の東の入り口にあたる為、伊勢神宮の一の鳥居が建てられた。渡しの西側には、舟番所高札場、脇本陣駿河屋、大塚本陣が、渡しの南側には、舟会所、人馬問屋、丹羽本陣があり、宿の中心として栄えた。昭和34年伊勢湾台風により、甚大な被害を受け、現在では、堤防が築かれたため江戸時代とは異なる風景となってしまった。)
東海道の標識があり、四日市までは、まだ7km以上ある。
左側に、江戸から9番目の「縄生(なお)一里塚跡」が建っている。
樹齢200年以上の楠
その先に、梵鐘を造る家があり、家の中に大小の梵鐘がおいてあった。 国道を越えて直ぐ、「馬つなぎ金具のある家」があった。丸い金具が付いている。(牛と書いてあるものもある)
東海道の標識に沿って歩いていくと、万戸古焼き創始者「沼波弄山」の墓がある「高徳寺」、戊辰戦争の責任を一身に背負って切腹した、森陳明の墓のある十念寺などを見ながら日新小学校前交叉点を右に入っていくと、道は旧道らしくなる。日日進小学校、幼稚園は、七曲見付の跡で、江戸時代には、七曲門があり、番所あった。
森陳明の墓
交差点を渡り、右側に「毘沙門堂」がある。その先に京町公園があり、そこが京町見付跡である。桑名城と宿場に入る人を監視していた。ここで、東海道は左折し、更に左折し、その後右折すると言う鉤型になっていたが、現在はなくなっている。右折して川筋を歩くと、白蔵稲荷大明神がある。お参りしたあと、道を戻り、よつや通りに入った。通りには、寺や仏壇屋が多い。 交叉点を渡り、少し先の勤労青少年ホームが吉津屋見付があった場所らしいが、何の表示もない。
白蔵稲荷大明神
会館の先の交差点を左に曲がると、桑名市博物館があり、その前に道標がある。[右京いせ道」「左江戸道」と書かれた「指指し道標」で、江戸時代に東海道筋に建てられたものをここに移したと書かれていた。
公園の終わりから右に曲がり、数分で、「石取会館」がある。中には、石取祭りの山車が飾られている。「日本一やかましいまつり」と言われている。石取祭りは、桑名南部を流れる町屋川の清らかな石を採って祭地を清めるため春日神社に石を奉納する祭りで、毎年8月第一日曜日とその前日の土曜日に行なわれる。今年は8月3・4日に開催されます。現在は、43輛の祭車があり、各町の祭車庫に保管されている。「桑名の 石取祭りは 鉦や太鼓でゴンチキチン」
桑名城城壁・堀川東岸の城壁(三の丸内)は、桑名城城壁の一部で、揖斐川に面する川口樋門から南大手橋にいたる約500mが現存する。「歴史を語る公園」には、日本橋を出発して三条大橋までの東海道が2分で歩ける道が出来ている。
料理旅館山月は、駿河屋脇本陣のあった所で、前に小さな石標が建っている。
揖斐川の堤防に出て、住吉浦方向に歩く。遠くに、住吉神社が見える。堤防を下り、西舟馬町と書かれた角を入る。
再現された蟠龍櫓
角に「七里の渡し」の石碑
富士山・原、沼津
三条大橋
桑名宿