阿倉川駅〜内部駅

H.25.07.27

前回、東海道を間違えてしまったため、今日は、多度神社のところまで戻って、歩く予定だった。枇杷島での接触事故のため、名古屋直前で電車が止まってしまい、20分ほど、待たされた。電車は名古屋までは、動いたけれど、大垣行きだったが、名古屋で運休になった。関西線で行く予定だったが、近鉄で、阿倉川まで行くことにした。普通で行ったため1時間以上かかった。安倉川の駅をでて、国1号に向かって歩く。5分ほどで国1号に出た。ここで下りて正解だった。直ぐ左に、この前見た、なが餅の笹井屋がある。

四日市宿

東海道は、ここを向こうがわに渡るが、左、内部駅100mの案内があったので、ここから帰る事にした。14時50分。 駅前には。「乗って、残そう内部線」だったか、書いてあった。三両編成の電車で、各車両の色が違っていた。途中すれ違った電車も皆、色が違う。のんびり15分ほど走って、近鉄四日市駅に着いた。

多度神社、三ツ谷の一里塚を過ぎて、海蔵川を渡る。橋の向こう側を左に曲がると東海道の標識があった。

その先で、道は直角に曲がる。そのまま進むと、願聖寺がある。左にまがる。直角に曲がっているのは、昔ここに大きな寺の境内があったからと言われている。その先で、交叉点に出る。道標の現在地は、小古曽になっていた。

しばらく歩くと、三叉路になり、右にはいると、大連寺前にでる。続いて慈王山観音寺がある。この寺は、時宗の一派、黄檗宗の末寺で、山門は、四脚門形式で、屋根の両端に異国風のマカラを上げていた。隣の細い道の奥に「小許曽(おごそ)神社がある。

ここにある鳥居は、桑名の一の鳥居に対し二の鳥居と言われ、伊勢神宮の遷宮にあわせて、20年ごとに建て替えられている。鳥居の脇には、常夜燈道標が建っている。「右 京大阪道 左いせ参宮道」と刻まれている。

右側に松の木が一本立っている。説明板には(東海道名残の1本松・昔この辺りから泊の集落まで、東海道の両側に低い土手が築かれ、その上に大きな松の木が並んで植えられていた。その間には、家が1軒もなく、縄手と呼んでいた。縄手の道の幅は土手も入れて約5間(9m)で、松の木がなくなった今の道幅とほぼ一致する。旧東街道の道幅は3間(5.5m)で、現在も変わっていない。)とあった。

信号交叉点を渡ると、右側に日永神社がある。説明板によると(昔は南神明社といい、天照大神を祀っている。創建は鎌倉時代といわれているが、信長の兵火にかかり、不明である。神戸藩主本多家の崇敬が篤く、明治40年に周囲の神社を合祀し、現在の名前になった。境内にある石柱は、日永追分の神宮遥拝鳥居の傍らにたっていた道標である。1849年、現在の道標に替えられた時、この道標が不要になり、近くの追分神明社に移され、明治の神社統合により、追分神明社が合祀された際、道標もここに移された。)とあった。 

古く立派な家がある。 しばらく行った角の向こう側に、水沢道標がある。説明板によると{大正12年の水害までは、この横の道が水沢に通じる道路であった。今から200年ほど前に、大坂の河村羽積と言う人が東海道から水沢道が分かれる角にこの道標を建てた。水沢のもみじ谷は、紅葉の名所である。この道標の表面には、「水沢は 藍より出て 紅葉かな  大阪 羽津み」裏面には「猿丸太夫名歌古跡すい澤へこれより三里」と彫られている。

その先に、大宮神明社がある。垂仁天皇の時代に、倭姫命が天照大神を伊勢に遷す際、この社に一時留まった。という言い伝えがあり、名所記に「松林のうちに天照大神の社あり、」と記されている神社で、前身は、500mほど西の岡山の地にあった船付神社で、400年ほど前に炎上した後、現在の地に移って来た。当時の岡山は海に面していた。と案内板にはあった。

建仁弐年(1202)信州諏訪の諏訪大社を勧進し、分祀した神社で、当地の産土社である。大四日市祭が諏訪神社の祭礼で、境内には、御諏訪神輿がしまわれていた。アーケードのなかで、迷ってしまい、近鉄四日市駅を目指し、駅前の大通りを横切り、細い道に入った。入ったところが東海道ではなかったらしい。ひとまず、人に聞いたりして、浜田城跡を目指す。

国道1号にでて、左折し、信号を渡って、正面にアーケードのあるスワマエ表参道商店街に入る。道標があったところが中部(旧南町)で、諏訪神社が諏訪栄町(旧新田町)で、かっては、この区間に四日市市場と呼ばれる市場があった。(江戸時代に毎月4日に市がたった)スワマエ商店街の手前に諏訪神社がある。

交叉点を越えて、正面に「ぶつだん屋」と書かれたビルの前に出る。右側に「すぐ江戸道」と刻まれた道標があり、そばに、「旧町名 南町」と書かれていた。地図があり、昔は旧南町から旧新田町まで斜めに東海道が通っていたが、今はその道はない。

橋を渡ると、笹井屋がある。名物のなが餅を売る店で、創業は1550年の老舗である。津の藤堂家の祖・藤堂高虎が、足軽時代に、「武運の長き餅を食うは、幸先良し」と好んで食べたと言う。「桑名の安永餅とは違うのか」と聞いた所、「違います。」とのことだったが、味も形の同じようだ。

四日市宿は、三滝橋を渡った辺りから諏訪神社の手前まえまでで、6町20間(約700m)の短い宿場町だった。本陣が2軒、旅籠が111軒もあった。伊勢参詣に使われる伊勢街道の分岐点にあったことで、陸海交通の要地で、商業の盛んな所だった。

しばらく、道なりに歩くと、三滝川に出る。三滝橋を渡る橋の中ほどに、「ひこ星と織姫のレリーフがはめ込まれていた。また、欄干には橋の説明があった。(四日市の中央部を東流する三滝川にかかる。江戸期には、東海道を行き交う人馬で賑わう土橋だった。明治10年に板橋(長さ42間、幅2,5〜3間)に架け替えられ、更に大正13年に鉄構橋になった。)。

宿内に本陣や旅籠などは、全く残っていない。この他に、高札場が吉川産婦人科前に当たるそうだが、見落とした。他の街のように、説明板だけでも、置いてもらいたい。本で読んでいかなかったら分からなかった。

黒川農薬商会(黒川本陣跡

福生医院(問屋場跡

近藤建材(帯や脇本陣

石薬師宿へ

桑名宿へ

海蔵橋北詰

笹井屋で買った「なが餅」には、広重の「四日市」が入っていた。川に突き出た縄手道の上に、突然強風が吹き、吹き飛ばされた笠を追う男と、板橋を歩く男を描いている。

鳥居の下に湧き水があり、ペットボトルやタンクを何本も持って水を運ぶ人が引きもきらない。

やがて、国道と合流し、150mほど歩くと、三叉路になる。そこが、日永の追分である。伊勢参宮道との別れ道である。四日市宿と石薬師宿の間にあり、間の宿と呼ばれ、多くの旅籠や立場茶屋が並んでいた。

少し歩くと、東海道案内図がある。見逃してしまった「日永の一里塚跡」はこの辺りだったのだろうか。

その先に、両聖寺があり、説明板によると、(お盆には市の無形文化財の「つんつく踊り」が披露される。)とあり、つんつく踊りの説明も書いてあったが、消えかかっていて読めなかった。

更に歩くと、右側に、真宗高田派の興正寺がある。貞観6年(864)創建の古い寺で、説明板によると(天白川がこの寺を囲むように曲がっているのは、滝川一益が堀の役目をするようにしたといわれ、昔の人は、滝川堤と呼んでいた。) その先の小高い所を流れているのは、天白川で、天白橋を渡る。

鹿化川(かばけ)にかかる鹿化橋を渡る。渡ると「鹿化川左岸」の道標があった。

近鉄内部線と平行する道に合流する。古い町並みが続くこの辺りは、赤堀集落で、慶応年間には、居酒屋、傘屋、種屋、畳屋などが立ち並んでいた。右側に大きな古い家がある。鈴木薬局(旧鈴木製薬所)とある。案内板によると(鈴木家は、300年近く続く家柄で、4代目の勘三郎高春が、寛永3年(1750)蘭学の盛んな長崎に赴き、漢方を伝授され、赤万能即治膏、萬金丹などの膏薬を製造、販売する旧家である。この建物は、6代当主高光が建てたものである。)

元来た道を戻り、もう一本進むと、角に東海道の標識があり、ここが東海道だった。「浜田城跡、鵜森神社、鵜森公園 300m」の標識もあった。ここから300mを見たら、行かなかったかもしれない。

近鉄内部線の踏切を渡ると、鵜森神社があり、そこが、浜田城跡である。鵜森公園の中には、丹羽文雄の句碑もある。(これは聞いた方に教えてもらった。)古里は 菜の花もあり 父の顔

浜田城は、室町時代に、田原孫太郎景信の三男田原美作守忠秀が築いた。安土桃山時代に、信長の家臣滝川一益に攻められ、落城した。