桜〜神宮前

H.24.12.29

洗い「松巨嶋」 当時の三宅氏(山崎家)の氏神嵯峨野神社という小社に奉納された物で、明治時代に当神社に合祀された際にお手洗鉢とともに移された。表に「松巨嶋」と刻まれる。

早朝家を出て、JRで金山まで行き、名鉄に乗り換えて、桜駅で降りる。街道にでて、右折し、車道を横断して、向こう側に渡る。 しばらく行くと、左右に、東海道の道標とそれを斜め横切る鎌倉街道の道標がある。

熱田神宮

熱田湊は、宮の神戸(こうど)の浜から桑名までの海上七里の航路の船着場跡である。常夜燈は寛永2年藩の家老である犬山城主成瀬正房が須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に建立した。その後風害で破損したため、神戸町の宝勝院に管理が任された。昭和30年復元される。時の鐘は、昭和58年に復元されたもので、江戸時代のものは、熱田神宮付近の蔵福寺に保存されている。

ここを左折し、国道を横断する。横断歩道がないので、少し歩いて歩道橋を渡る。街道は少し先であるが、古い畳屋さんを入っていくと、「景清社」がある。(平家の侍大将忠清の次子で、腕力に優れていた。平家没落後、縁あって熱田の地に隠れ住んだ。謡曲「景清」では「尾張の国熱田にて遊女と相馴れ一人の子を設ける。」と詠われている。後年眼病を患い、失明したという伝説から、この景清社は眼病に霊験があるとして信仰が厚い。)

その細い道を入ると、「湯あみ地蔵」といわれる、地蔵堂がある。湯をかけて拝むと願いがかなうというお地蔵さんです。開放的なお堂で、おじさんが前を掃除していた。電柱に、東海道呼継発展会の旗が掛かっていて、「万葉の里  年魚市潟 あゆちがた」と書かれていた。

5分ほど歩くと、東海道の石碑が建っている。(古来、呼継は四方を海と川に囲まれた、巨松の生い茂る陸の浮き島として、松巨嶋と呼ばれていた。東海道が南北に通り、鎌倉街道がこれに交差している。、西側の磯浜は「あゆち潟」と言われ、是が「愛知」の地名の語源になったと言われる。芭蕉は「寝覚めの里とびつぎ」と書き起こし、この地に足跡を残している。山崎の急坂(今より急であった。)に接する山崎の立て場は、宮宿への往還の地として賑わい、宮の宿より渡し舟の出港を呼びついたことから「よびつぎ」の名前がある。)

鳴海宿

桑名宿へ

西楽所  五代将軍綱吉が1686年に再建したものである。五月一日の舞楽神事には、ここで楽を奏する。もとはこの西楽所に相向かいあって東楽所もあった。

大楠

これで、宮宿は終わりなので、大瀬子公園を通って、白鳥庭園 汐入亭を見よう歩き始めた。が、年末で今日は休園だった。

明治29年に料亭として建てられ、太平洋戦争時は、三菱重工の社員寮になって、現在グループホームとして使われている。

丹羽家は幕末の頃、脇本陣格の旅籠で、伊勢久と称し、西国各大名の藩名入りの提灯箱が残されている。正面の破風付き玄関はかっての格式の高さを残している。

東海道は、この蓬莱陣屋の脇を斜めに通る細い道である。この辺りに熱田奉行所(陣屋)があった。宮宿には、本陣が二軒あり、赤本陣白本陣と呼ばれていた。赤本陣は陣屋の北側にあり、236坪の規模を誇っていたが、空襲で焼失してしまった。白本陣は、伝馬町に、脇本陣は渡しの前にあった。

その先に、「蓬莱陣屋」という料理屋さんがあり、予約の」札を配っている。[「あつた蓬莱陣屋」は、宮宿の陣屋跡に明治6年に創業のひつまぶしの老舗である。蓬莱の名は、昔熱田の地が蓬莱あるいは蓬莱島と呼ばれていたことにちなんでいる。当初は普通の料理屋さんだったが、明治末期に現在のひとまぶしに相当する料理をだしたところ評判になり、看板料理なって有名になった。

突き当りには、ほうろく地蔵が祀られている。(ほうろくを売りに来た商人が、天秤の重石の代わりをしていた地蔵を捨てて行ったのを地元の人が祀ったものである。地元の人が、捨てられている地蔵を見つけ、動かそうとしたが、動かない。その下の土中から、台座が出てきた。そこで、この地蔵を台座に乗せて、ここに祀ることにした。)

街道を進むと、三叉路に出る。東南隅の民家に字が消えかかって読めない道標がある。ここは、東海道美濃路(または、佐屋道)の追分を示すもので、寛政2年に建てられたものである。北と刻まれた下には「南 京いせ七里の渡し 是より北あつた本社弐丁 道」東の下には、「北 さやつしま 同みのち 道」西には、「東 江戸かいとう 北やこやきそ 道」とある。

道の向こうに「伝馬町アーケード」が見えた。横断歩道がないので、伝馬町交差点まで歩き、歩道橋を渡った。左側に、亀屋芳広という菓子屋がある。名古屋では有名な和菓子屋さんだそうです。

昔は、松並木があったという図が、地面に埋められていた。国道にでて、徳川家康幽閉地を見なかったことに気付き、ひき返した。鈴之御前社の手前を左折し2本目を右折する。塀の前に案内板があると書いてあったが、そこは宅地造成で塀もなく、その傍に新しい石碑が立っていた。

復元された姥堂は二階にあり、「おんばこさん」と親しまれている像があります。二階にあるのを知らなかったので、行って見なかったが、ガラス越しに見ることが出来るそうです。おんばこさんは「奪衣婆伝説」や「日本武尊の母説」がある。

その先に、裁断橋橋桁と書かれた橋状のものがある。江戸時代には、建物の前を精進川が流れ、裁断橋が架かっていたが、今は暗渠になって、川は見えない。熱田神宮の社人が罪を犯した時に、この場所で裁断されたことが名前の由来である。現在は、裁断橋も縮小されたが、擬宝珠は、市の博物館に保存されている。

宮宿

石碑の奥には、熊野三社がある。由来によると、(永禄年間山崎城主佐久間信盛が城中の守護神として祀り、信仰ことのほか厚く、寛永4年に山崎村並びに付近一帯の住民の守護神として現在地に再建された。

信長塀  織田信長が桶狭間出陣の際、当神宮に願文を奏し、大勝したので、そのお礼として奉納した。土と石炭を油で塗り固め、瓦を多数積み重ねている。三十三間堂の太閤塀、西宮神社の大練塀と並び、日本三大土塀の一つである。

熱田魚市場跡 天正年間には、すでに魚問屋があり、織田信長の居城清洲に日々、魚介類を運んだ。尾張藩政のもと、木之免、大瀬子の4戸づつ問屋が出来、市場が開設された。

熱田荘

陣屋の角を曲がり、細い道を行くとモダンな寺がある。宝勝院である。説明板に(1654年から1891年まで、熱田湊常夜燈の燈明は当寺が管理していた。)とあった。その隣に「烏枢沙摩明王(うすさま)」のお堂がある。うすさま明王はすべての不浄や悪を焼き尽くす仏から便所を守る仏ともされている。

鈴之御前社(れいのみまえしゃ)は、昔この前を精進川が流れていて、東海道を往来する旅人が熱田神宮に参拝する時は、この神社で鈴のお祓いを受けて、身を清めて参拝することになっていた。

宮宿は、本陣2軒、脇本陣1軒 旅籠248軒 江戸から41番目の宿場で、中山道垂井宿にいたる脇街道美濃路、佐屋街道との分岐点でもある。幕府や尾張藩の公文書には、熱田宿と書かれている。

しばらく、国道を歩き、トヨトミの看板の所を左に入る。東海道線の線路を越える。道は5差路になっているが、左から2番目の道を行く。その先に堀川にかかる熱田橋を渡る。橋を渡った所は、宮縄手と呼ばれ松並木があったようだが、その面影もない。名鉄の鉄橋の下を通り抜けると、宮宿の案内板がある。この辺りに伝馬町一里塚があったようだが分からなかった。

山崎川の手前に「山崎橋」と刻まれた橋標が建っている。山崎橋を渡り、左折し進む。左に名四道路事務所、右にブラザー工業の建物がある。東海道は、神穂一丁目で終わり、国道に合流する。国道が通る交差点は、松田橋で、国道1号と都市高速道路が交差し、交通量が多い。

都都逸発祥の碑  都都逸とは七、七、七、五を定型とする短歌で、三味線を伴奏とする俗曲である。なぜここが発祥の地となるかは、不明。

JR     2300円
金山〜桜  200円
神宮〜金山 160円
バス     160円
計    2820円

熱田神宮にお参りをして、名鉄神宮前駅近くの「きよめ餅」で、餅を買い求めた。江戸中期に、「きよめ茶屋」が設けられ、参詣の人々は、ここでお茶をいただいて、疲れを休め、姿を正して、神前にぬかずくのを慣わしとしました。この茶屋にちなんで、「きよめ餅」を売り出した所、評判になり、「熱田参りにきよめ餅」と全国に知られるようになりました。

白鳥庭園 汐入亭

旅籠屋伊勢久(現丹羽家)

七里の渡し船着場跡

時の鐘

熱田湊常夜燈

宮の渡し公園

村瀬家に保存されている北側の道標

加藤図書屋敷跡 松平竹千代は、6歳の時、織田信秀の人質になって熱田の豪族加藤図書の屋敷に幽閉された。またこの後那古野城内天王坊にも幽閉された。一度8歳で岡崎に戻ったが、今川の人質になり駿府に行った。

山崎の長坂」の道標がある。そんなに上った感じはなかったが、ここからだらだらと下っている。