佐屋〜桑名
H.25.03.23
(長島城は、文明年間に、伊勢国安濃郡の長野氏一族と伝えられる伊藤重春が、長島を治め築城したと伝えられる。その後、長島北部の杉江にあった願証寺が、浄土真宗の一大拠点になると、伊藤氏は滅ぼされ、願証寺の支配下に入った。そのため、長島一向一揆の時には、織田信長の攻撃を受けて、天正2ねんに包囲され、敗れます。 江戸時代には、増山氏が長島2万石の藩主になり、明治維新まで続きました。城は、残っていませんが、大手門の一部が蓮生寺の山門の一部になっています。本丸の南西隅にあった樹齢300年以上の黒松が城跡の名残として残っています。)
早朝家を出て、JRで、名古屋まで行き、名鉄に乗り換え佐屋に、8時49分に着いた。前回の終点、須依(すえ)の交差点まで戻った。少し駅よりに戻ると「くいな塚100m」の案内板があり、そこを左に曲がる。細い路地を入っていくと、左側に、八幡社がある。八幡社に入っていくと、右隣に、くいな塚があった。
佐屋街道を須依交差点まで戻り、右に曲がると、巡見街道にでる。国道155号を横断する。200mほど歩くと、星大明神と書かれた神社がある。眼の守護神として信仰されている。「星大明神木造獅子頭」の説明板があり、1510年に造られ、長らく社殿に伝えられてきた。と書かれていた。
伊勢湾台風にも耐え、中部小・中学校のシンボルとなっている。
休日切符 2600円
名古屋フリー 2500円
名古屋〜佐屋 440円
計 5640円
渡り終わったら、左に曲がり、堤防を歩きます。時間切れで、今日はここから桑名駅に向かいました。途中、「安長餅」を買い、しぐれ蛤を買い、桑名駅から、名古屋にでて、藤枝まで帰りました。
「うき我を さびしがらせよ 秋の寺 はせを」
地蔵堂
曽良の句碑
芭蕉翁宿処の石碑
道祖神
右の道を行く。
史跡 水鶏塚は、説明板によると、(元禄7年、俳聖 松尾芭蕉が、江戸から故郷伊賀に帰郷する途中に、佐屋の門人であった、素覧亭に逗留した際に詠んだといわれる「水鶏鳴くと人のいえばや佐屋泊り」の句。この句碑はその場に同席した俳人達が、その後享保20年に、芭蕉の遺徳をしのんで建てたといわれている。昭和36年に、黒宮家から寄贈された。) この辺りは、非常に閑静な幽地で昼さえ藪のほとりで木の間がくれに水鶏が鳴いていたようである。
小路を道なりに進むと、佐屋街道に出る。
しばらく歩くと、左側に、黒板塀の続く民家がある。角を曲がると、立派な長屋門があった。その先に六角の「地蔵堂」がある。の先は、県道458号線を歩くが、その道に沿うようにも沿い道があるが、直ぐ合流したり、なくなってしまったりするので、県道を歩いたり、細い道を歩いたりした。この先弥富までの間に何箇所か地蔵堂があり、お地蔵様は立派な衣装を着せてもらっていた。
巡見街道とは、江戸幕府が、諸藩の政情を査察する目的で、派遣した巡見使が歩いた道で、この辺りでは、東海道と中山道をつなぐ道である。
佐屋代官所跡の裏に、加藤高明総理大臣の碑がある。石碑には、「懐恩碑」と書かれている。加藤高明は、父 服部重文(佐屋代官所手代)の次男として佐屋で生まれる。7歳で、名古屋に移住し、14歳で加藤家を継ぎ、高明を名乗る。東京大学を卒業後、三菱会社・郵船会社を経て、官界に転じ、1924年、内閣総理大臣に就任し、2年後、国会での演説中に倒れ、死去する。享年67歳でした。由緒あるこの地に、(生誕地はここより100m南にある。)直筆の碑を柚木から移し建立した。と書かれていた。
交差点の先の左側にある、公園の一角には、「佐屋三里之渡跡碑」がある。ここが佐屋海道の終点で、江戸時代には、木曽川に通じる佐屋川が流れていた。川幅は、通常でも120m、出水時には、500mにも広がった。ここ佐屋湊から漕ぎ出す船は、木曽川、加路戸川、蟹江川、揖斐川を経て、桑名までの三里を運行した。三代将軍家光、十四代将軍家茂も利用した由緒ある佐屋の渡しだが、現在では、土手の跡さえ見ることが出来ない。佐屋川は、江戸末期になると、上流からの土砂で川幅が狭まり、水深も浅くなって、湊としての機能を果たせなくなった。土砂を掬ったり、下流に仮の湊を設けたりしたが、うまく行かず、佐屋街道も、明治5年に新しく開かれた道にその位置を譲り、佐屋街道の使命は終わった。
道の反対側には、「佐屋代官所址」の石碑が建っている。傍には、黒い石の刻まれた解説碑がある。(わが佐屋は、その昔、慶長24年、家康が大阪夏の陣にここから船出し大勝した徳川方吉祥の地。藩祖義直もこのことを嘉し、寛永11年、佐屋街道佐屋宿佐屋湊佐屋御殿を設け、更に、船番所を置くに及んで、佐屋は天下に知られるようになった。そのため、元禄8年、奉行所が、次いで、所付代官制実施の時にも最初の代官所となり、海東海西郡中の109ヶ村74000石の余りの主邑として民政と治安の大任を司り、明治廃駅まで二度の将軍の上洛と明治帝の東幸還幸の三度の大任を果たした。その後、駅路の変革と母なる佐屋川を失った佐屋のは、盛時を語る物もそれを知る人もいない。わらわれは、今、その代官所址に在りし日の栄光を偲びつつそのことを石に刻み、永く後世に伝え語り継ぐことの資とする。)
その先に、道標が建っている。「左 さや舟場道」と書かれている。説明板によると(舟場への道を示すものである。この道標は、、佐屋町故山田秀信氏の屋敷内にあったが、同氏の好意により、寄付を受けて昭和54年にここに建てた。)寛永11年佐屋宿創設より明治5年まで、この佐屋宿から舟で桑名に渡ったのである。
佐屋宿は、350mほどで、そこに290軒の家があり、1260人の人が住んでいた。左に立派な門構えの家がある。その先に火の見櫓が見えてきた。右側に、本陣や問屋場があったとされるが、確認できなかった。が、塀に、紋の入った家や、格子造りの家があり、宿場時代を少しは偲ばせる風景だ。
川の間の堤が道路に
目の前の堤防に上がると、下流方向に、「伊勢大橋」が見える。先ほどの道まで戻るほうが正確な街道だと思うが、このまま堤防を大橋まで歩くことにする。長良川・揖斐川にかかる橋だが、昭和9年に開通した橋で、全長1.1kmある。途中、長良川と揖斐川の間の堤が道路になっていて、車が入ってくるのが見えます。渡り終えるのに20分も掛かりました。
芭蕉句碑
芭蕉が、伊勢神宮遷宮参拝に行く途中、曽良が静養している大智院に宿泊した時の作。芭蕉翁宿処」の石碑は、時の藩主増山正高自筆の書で、芭蕉翁来訪100年を記念して建立されたものである。
「ゆきゆきて たふれ伏すとも 萩の原 曽良」
大智院は、藩主松平定政公により、藩主の祈願所として、建設された寺院で、明治5年、長島学校が開校された、長島小学校発祥の地である。 大智院は、曽良の叔父の寺で、曽良が腹を病み身を寄せ静養した寺でもある。
数分歩き、突き当りを右に曲がり、田んぼの中を5〜6分歩くとT字路に突き当たる。左に行くのだが、右に寄り道をする。しばらく歩くと、川の土手下に出る。寺院が2軒並んでいる。2軒目が「大智院」で、入り口にかわいらしい道祖神がある。
大手橋に戻り、右の角に、「稲荷秋葉神社」がある。その境内に「石取祭」の説明板があった。(長島三町の石取祭は、稲荷社境内秋葉社の石取り神事として行なわれてきました。神社の玉垣の敷石を年に一度新しくするため、町屋川から美しい石を拾い採ってきたもので、江戸時代末頃から、大祭として行なわれるようになった。かっては、街道筋に神社があり、渡祭も行なわれましたが、昭和初期、稲荷社に合祀となり、町練りのみとなりました。)
道標前の大手橋を渡る。大手橋の反対側の橋柱に「長島江」と書いてある。これは、昔の堀の跡だろうか。右に曲がると、中部小学校・中学校がある。「長島城址」で、説明板がある。
数分歩くと、新し橋が見えるが、これは渡らず左に曲がり、50mほど歩くと民家の前に石の道標がある。「前ヶ須・津島 宮名古屋道」と刻まれている。左右の側面には、「右くはなミチ」「左くはなみち」と刻まれている。
国道1号を歩き、大きく右にカーブしたらその先で右の旧街道にはいる。小さな橋を渡り、右に左に曲がると(この辺りは良くわからなかったが、幸いに蓮生寺に行き着けた。)山門は「旧長島城大手門」を移築したもので、2万石大名増山氏の家紋が瓦に残されている。
木曽川を尾張大橋で渡る。全長878.8mに橋で、渡り終えるのに13分掛かった。地途中、三重県との県境がある。渡り終えると、右側に、「東海道」の石標があり、明治6年4月1日と刻まれていた。
碑の前を通り、国道1号に合流し、左に曲がると、「井桁屋」の建物がある。古いたたずまいに「味噌 醤油」の看板が出ている。前には、木製の「東海道」の道標が建っている。
木曽川下流の新田開発によって出来た弥富市は、買っては、水郷地帯としていたるところに水路が流れていた。水害に苦しみながら、豊かな水に恵まれ、漁業や海苔の養殖、そして特産の金魚の養殖などが闊達してきた。資料館一階では、22種の金魚が水槽で泳いでいます。また、2階では、弥富の歴史を知ることが出来ます。
左の道を行く。
1時間ほど歩くと、イオンタウンの大きな駐車場が現れる。道は大きく右にカーブするが、街道は左のも細い道に入る。関西線・近鉄名古屋線のガード下を通り、左に曲がって、直ぐ右に曲がり、100mほど先の細い道を右に入る。国道1号を渡り、更に歩くと道が二俣に分かれる。右の道が巡見街道で、200mほど歩くと「弥富歴史資料館」がある。
10時26分 五ノ三(川平 新田)地蔵尊
10時51分 海老江地蔵堂
10時20分 弥富町に入る。
10時12分 西保下平の地蔵堂
9時59分 法明観世音菩薩。
貝新総本家
時雨蛤
安長餅