H.23.12.24

しばらく街道を歩いていくと、「東海道の松並木と一里塚」の標識が立っていた。それによると、江戸幕府は東海道の両側に松を植え、その松並木は終戦後まで、東海道のシンボルでした。丸子宿と佐渡(さわたり)の間大曲は、松並木に笹が茂り、寂しい所でした。現在では、手越原に4本、赤目ヶ谷西部給食センターの所に2本残っているだけになりました。この一里塚は日本橋から数えて、46里、12番目の一里塚になります。この塚本宅は「一里山」という屋号で呼ばれていました。次の一里塚は逆川入り口付近にあったが道路改修のため消滅してしまった。

丸子下宿の標識とその説明が、書かれていました。説明によると、此処は、東の見付けを通り、丸子宿に入ってきたところです。ここ丸子宿は、文治5年(1189)源頼朝が、奥州平定の功績により、手越平太家継という駿河の武士に丸子一帯を与えて、駅家を設けたのが起源といわれている。今の元宿と言われているところです。江戸時代になり、徳川家康によって、東海道の整備が行なわれ、品川から数えて20番目の宿場町に制定された。小さな宿場町だったので、周囲の村々から人足や馬を供給していた。これを助郷制度と言います。この上の土手に水神社があった。

旧道に戻り国道に合流し左折する。このような標識があり、宇津ノ谷方面に左折する。途中左高台に 十石坂観音堂がある。その先に十国坂一里塚があったようだが、現在はないらしい。緩い上り坂を歩き、右に国道1号の 廻り沢口交差点で右折すると、おばさんが教えてくれたように、道の駅を進み、奥の地下道を通っていく道に出るが、もう時間も押しているので、そのまま歩いた。 しばらく歩くと、眼下に昭和のトンネル、平成のトンネルが見えた。国1倍パスのトンネルです。

前回で、吉田宿(豊橋)まで歩いたが、暗くなるのが早いので、春になるまで、藤枝から東下りをすることにした。 朝、明るくなるのを待って、7時に家を出て、一回目に歩き出した、さわやか住宅の前にある「東海道を旅する方へ」の看板の前から歩き始めた。

左側に 明治天皇御小休所跡があり、その先に右側に丸子本陣跡と丸子宿の案内板があった。

この後は、丸子交番の所で、左折し佐渡交差点の方向に歩くのだが、今日は安倍川駅から帰るので、此処を直進し、JRのガードをくぐって、安倍川駅まで歩き、藤枝に帰った。
 今日は、途中から、左足の付け根が痛くなり、だましだまし歩いた。 今回のようにJRの駅から東海道が離れてしまうと、帰りが大変になる。駅からのバスの接続も悪く、結局家まで歩いてしまった。今日は8時間以上歩いたことになる。

島田宿へ

府中へ

岡部宿へ

15時06分 立派な松の木が1本だけ立っている。説明板によると(ここは大曲と呼ばれ、道の両側には松を植える土手が築かれ、土手には笹が生えていた。戦後までは、人家も明かりもなく、夜になると、お化け、追いはぎが出没すると噂された。 )

その先の右側に 明治天皇御小休所跡と丸子宿脇本陣跡が一緒に立っていた。

お七里役所跡  お七里役所とは、江戸時代初期、紀州 徳川頼宣が、江戸屋敷と領国の間の146里に沿って、7里間隔の宿場に、独自の連絡機関として23ヶ所に中継ぎ役所を設けた。県内では、<沼津><由比><丸子><金谷><見付><新居>に設けられ、5人一組の飛脚を配置した。

宇津ノ谷峠は、慶長6年東海道に宿駅制が定められて、官道となった。明治6年に岡部町の7人が結社を創立し、明治7年着工した。静岡口は青石造り、岡部口は大部分が、木角合掌造りで、九の字型のトンネルが明治9年完成した。明治29年、照明用のカンテラの出火により、枠組みが焼失崩壊し、一時使用不能になった。現在の赤レンガトンネルは、静岡口を一分変更し直線となり、長さ約203mのトンネルが明治37年に開通した。昭和5年大正のトンネルの開通により、使われなくなった。 薄暗くて怖いし、気味が悪いと言う方もいたが、良く整備され、照明も6箇所にあり、印象的なトンネルだった。平成9年文化財建造物に登録された。

5分ほど歩くと、明治のトンネルの案内があった。ここをまっすぐ行くと大正のトンネルに出るが、明治のトンネルのほうに曲がった。少しいくと、おばさんが言っていた下から来る道と合流した。

そのむこうに大旅籠柏(かしば)屋がある。国の有形文化財になっており、入り口には、人形が置かれ当時の旅籠の様子が再現されている。 中のほうに入り、茶店でおでんをいただいた。寒かったので、美味しく温まりました。

岡部宿は 本陣2軒、脇本陣2軒,旅籠27軒の小さな宿場であった。

数分歩くと、左側に岡部宿公園があり、その並びに岡部本陣跡があった。

その先に、小野小町の姿見橋がある。説明板によると(晩年の小野小町が京から東の国へ行く途中、この橋の上に立ち止まり、足元の橋の下を見ると、自分の姿が映っていた。長旅と病気勝ちのためやつれた姿を嘆き悲しんだと言うお話しです。)本当に小さな川で水もほとんどなかった。 11時28分 東海道夢舞台 岡部宿の道標があった。 岡部宿は 本陣2軒、脇本陣2軒,旅籠27軒の小さな宿場であった。県道の向こう側に初亀酒造がある。

正応寺を出ると、前に弘法大師堂があり、横に高札場跡の石碑が建っていて、上に説明が書いてあった。説明によると(高札場は、宿場の目立つ所に設置され、法度や掟、犯罪人の手配などを、木札に書き、高く掲げ、人々に知らせた所です。高札が四ツ辻(交差点)にたてられると、そこを札の辻と呼んでいた。)

旧東海道は、岡部支所の交差点を右折し、最初の角を左折する。中山儀助と書かれた表札を見て、サッカーのゴン・中山実家だと分かった。おばさんに聞いていなければ見逃す所だった。おばさんお勧めの正応院の多宝塔を見る。開祖政薩院日勇の50回忌に篤志家の発願により、静岡の名工松浦茂治の手で作られた。和様素木造りで、7年の歳月を費やして、昭和54年に完成した。

10時48分、岡部総合案内所に着いた。案内書のおばさんに明治のトンネルの行き方を教えてもらい、地図などを貰い出発した。隣に 五智如来石像があり、昔は誓願寺の境内に街道に面して安置されていたが、寺が移転したため、現在の場所に移された。前後2列にならんでいる。いわれがあるのは、後の5体で、大地震の時に破損し、前の5体を明治期に再建した。

岡部宿

10時35分 国1号に出る前に、「是より西岩村藩領」の標識と「松平能登守 岩村藩領傍示杭跡」があり、その先は岡部への道だった。

朝比奈川にかかる橋は、横内橋といい、伝説では、「巻き狩り橋」と呼ばれ、頼朝が富士の巻き狩りに集まる武士のために架けたと言われる。洪水で流されると、臨時に川会所が設置され、蓮台越が行なわれた。 享保20年 美濃岩村城主が、老中に出世したため、駿河に5000石の領地を受けた。駿河領15ヶ村を治める役所として、横内陣屋が設置され、代官、手代、目付け役の3人の武士が年貢の取立て、治安維持の治世を行なった。年貢率が他の藩より低く、温情あふれる知性を行なった。  郷倉とは、横内村共有の収蔵庫で、江戸時代の最初は年貢米を一時的に収納する倉庫であったが、後には、凶作飢饉の備蓄米や貸付用の米を納めたり、村共有の道具の保管庫でもあった。

葉梨川を渡り、朝比奈川を渡ると、左側に「横内あげんだい」のある町内会館があった。休憩所になっていたので、しばらく休憩する。あげんだいとは、精霊送りに行事で、孟宗竹の上部を割り、籠を作り、その中に、松、ワラ、竹の筒などをいれ、松明を投げ入れ早く火が付くのを競う。子供が小学生の頃、子ども会で、やったのを見たことがあるが、火を投げ入れるのが危ないと思ったのを思い出した。 川のほとりには、「川除け地蔵」が祀られていた。河川改修以前の朝比奈川はこの地が「大だし」と呼ばれる深い淵があり、水難除けの地蔵尊を祀り、安全を祈った。また、「子授け地蔵」ともいわれている。

道を渡ると「是より東巖村領 横内」の道標と「岩村藩領傍示杭」があった。説明板によると(この杭は、江戸時代1735年から明治維新まで135年間横内村が岩村藩の領地であったことを標示した杭を再現したものです。岩村藩は、美濃国岩村城を居城とし、松平能登守三万石の領地を持っていた。駿河国に一五ヶ村5千石の飛領地をもち、横内村に陣屋を置いて治世を行なっていた。)とあった。 古い家には、昔の職業を示す看板がかかっていた。

何本か松が残っている街道を歩いていくと10時7分是より西田中領」の大きな石碑があった。傍にその由来が書いた石があったが、読みにくかった。仮宿交差点で歩道橋を渡り向こう側の道に入る。歩道橋から見た東海道は真ん中の細い道です。

葉梨川の所で、左折し、八幡橋を渡る。道路沿いに大根が干してあった。川には、シラサギや鴨が遊んでいた。橋を渡って、右折すると、鬼島一里塚跡の木柱が立っていた。

半鐘のある、「旧東海道 鬼島の建場」があり、広重の雨の藤枝の版画絵が張ってあった。絵には、雨のむこうに田中城が見える。

案内板によると(此処の広場は元、葉梨川の淵で、その形が馬具の鐙に似ていたので、古来より、鐙ヶ淵と呼ばれた。淵の傍らに柳の大木があり、その木に触れると浄土往生志を覚え淵に身を投げたと言う。「人取り柳」と呼んで恐れ近づかなかった。後に聖僧により切り取られ一体の観音像として、鐙堂の御本尊となる。)

右の奥に 大慶寺があり、大きな久遠の松がある。黒松の大樹で古くから「久遠の松」と呼ばれている。日蓮上人が比叡山に学びに出かける時この地に立ち寄り、12年後に帰郷する際に再び訪れた。法華経に教化された老夫婦が別れを惜しんで願い出たところ1本の松を植えていった。久遠とは法華経の中にある言葉です。 樹齢700年 枝張り東西23m、南北27m 樹高25m

しばらく道なりに歩くと、東海道、国道1号線、駅からの道の交わる青木の五差路に出る。藤枝では旧道と呼んでいる東海道に国道を斜めに横切って入る。右に曲がると藤枝の駅に出る。藤枝は宿とJRの駅が離れていたため、私が藤枝駅に約30年前に降り立った時は、寂しい駅前だった。しばらくして駅前が整備され賑やかになったが、最近は、駅南が賑やかになってきて、駅北はまたさびれ始めている。 右側には、何本か松の木が残っている。

JR  320円
バス  160円 
   480円

十返舎一九の東海道膝栗毛の碑

松尾芭蕉 「梅わかな 丸子の宿のとろろ汁」十返舎一句の東海道膝栗毛
安藤広重 の丸子の名物茶屋によって、有名になった。

14時38分 東海道 夢舞台 丸子宿の道標があった。  丸子宿は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠24軒で、丁子屋は、とろろ汁で有名だが、私はまだ入ったことがない。いつも観光バスが止まっていて、混んでいるようです。

丸子宿

国道へ出ると、しばらく国1号を歩く。東海道は、左側に入ったり出たりするらしいが、歩道の縁石に「東海道ルネッサンス」と書いたステッカーが何ヶ所か貼ってあったので、そのまま国道を歩いた。丸子赤目ヶ谷交差点で歩道橋を渡る。しばらく国道を歩き、二軒屋交差点を右折し、観音堂、庚申塔前を丸子方面へ入り、旧街道を進む。

13時39分 東海道 夢舞台 宇津ノ谷 の道標のあるところに来た。宇津ノ谷の案内板があった。

トンネルを出て、道なりに歩いていくと、下に下りる階段があり、道を直進すると、「東海道宇津ノ谷の峠越え」の看板が建っている。今回は峠に行かず階段を下りた。

12時33分 岡部宿の案内板のあるところで、岡部宿は終わる。

柏屋をでて、しばらく国道を歩き、左の細い道に入る。旧道の岡部橋を渡り、細い十字路を右折すると、左側に西行法師縁の「笠懸の松」の案内があり、進むと、案内板と上に上がる整備された階段があった。200段位の階段を上ると、二代目の松と石碑が立っていた。 案内板によると(西行が東国からの帰途に立ち寄った庵で一休みしていると、戸に古い笠がかかっていた。良く見ると、西行が破門した弟子の西住に贈った笠だった。庵主に聞くと、西住が歌を書き記した笠を松の木に懸け病気により最後を迎えたこと知り、悲しんでうたったと伝えられている。)案内板には昭和49年頃の写真が載っていたが、山の上に松がそびえていた。

郷倉跡

西村小路 代官屋敷

岩村藩横内陣屋入り口

朝比奈川 川会所跡

道なりに行き、交差点を渡って、ホームセンターの前を通り左折すると、大きなクスの木が見えた。須賀神社のクスの木樹齢500年、樹高23.7mで、旧東海道脇にあって、旅人を見守ってきました。神社の社務所で窓を拭いている方に、鐙ヶ淵の場所を聞くと、神社の横の坂を上って行くとある。と教えてくれた。観音堂を見て下に下がっていくと、「蛇柳如意輪観世音菩薩」の石柱があっていたので、戻って中をのぞいたが、厨子の扉は閉まっていた。

東海道は以前、水守で、国道と斜めに交差していた。しかし都市計画で、このあたりが整備され昔のように通ることは出来なくなっていた。全国の東海道ファンの皆様には大変申し訳ないと思います。 国道の先に寸断された松並木が残っていた。

成田山の赤い門の隣には藤枝宿東木戸跡の木柱がある。ここで藤枝宿は終わる。成田山のむかいに 東海道藤枝宿 左車町 の標識があり、濱小路是より焼津湊まで1里半とあり、ここから国1までの道はその昔田中城の東を通り、焼津湊まで通じていた。と書いてあった。藤枝には、江戸時代田中城があり、現在は西益津に田中城下屋敷が復元されている。

白子の通りには秋葉常夜燈があり、その後に大黒天の鳥居がある。むかいの歩道に 問屋場跡が埋め込まれていた。隣の大正亭のおじさんが、「何か探しているの?」と声をかけてくれたので、「問屋場はここですか?」と聞くと、「この家だ。」と絵が埋め込まれた前の家を指した。大正亭は大正からやっている豚カツ屋さんで、前がスーパーで、後が食堂になっている。近くに来たら寄ってみてください。

小川眼科医院前に白子由来記の石碑があり、それによると(本能寺の変の時、堺にいた家康は危機を避け伊賀超えの間、道を選び、伊勢の白子に着いたが、伊賀の住人小川孫三は家康のため、一揆の者達や野武士を避け、小船を出して、三河国大崎まで、送り届けた。その功により、当地に居住することを許し、この地を白子町と名づけ、地子諸役免除の御朱印を賜った。 昭和47年作成 13代当主)とあった。

いつも煮豆を買っている秋田屋さん

勝草橋を渡り、左側の正定寺にはいる。「本願の松」がある。説明板によると、(傘型に枝張りした美しい姿に整えられている。この場所は、江戸時代には、藤枝宿の宿場町の西木戸口近くにあたり、古図に描かれている。1730年に田中城主 土岐頼稔が大阪城代となった時に寄進されたものである。 

此処からは、国道との分岐合流はない。国道の裏道を行く感じになる。右側に「元宿山大日如来」上り口の案内がある。しばらく道なりに進むと、丁子屋が見えてくる。丸子橋の手前に丸子元宿高札緑地があり、高札場が復元されていた。 丸子宿京・大阪方見付けの案内板が立っていた。

8時24分 東海道夢舞台 藤枝宿 長楽寺の道標があった。

神明神社の横に 東海道夢舞台 藤枝宿 上伝馬の道標があった。8時9分

瀬戸川の徒(かち)わたり 瀬戸川には橋がなかったので、川越が行なわれていた。川幅も狭く、水深も浅かったので、徒歩でわたることが多かった。水深によって川越し賃金が高くなった。

藤枝宿

瀬戸川にかかる勝草橋の手前に志太一里塚跡秋葉常夜燈がある。説明板によると(志太一里塚は、江戸からやく200kmで、50里目にあたり、瀬戸川堤から、約50mの岡野歯科医院の裏と、熊切商店の西側にあった。 藤枝には、志太の他に上青島と鬼島に一里塚があり、上青島には近年まで、塚蹟が残っていた。)とあった。

道路の左側の歩道にタイルが埋め込まれている。交番の前には問屋場跡(下り)のタイルがあり、その横の駐車場には上伝馬問屋場の版画が描かれている。説明によると(田中城の大手口にも問屋場が置かれたので、前者を上伝馬、後者を下伝馬と呼んだ。)ニコニコ屋の前に上本陣跡 今は空き地で駐車場になっているところに、下本陣跡のタイルが埋め込まれていた。

道の左側に御羽織屋がある。秀吉拝領の羽織を200円で見せてもらった。おばあさんの名調子の説明は、依然と変わらなかった。撮影禁止で、名物の十団子を買って、外に出る。街道では、3,4人の方が絵筆を握って絵を描いていた。10時頃から描いているそうで、もう少しで、出来上がりの様子だった。

左側の蓮生寺の前には秋葉常夜燈がある。蓮生寺には、本堂の裏手にイブキの樹がある。明治の出火で一部を焼失したが、その後樹勢いを復活して今日に至る。