H.23.12.24 安倍川駅〜東静岡駅
6時8分のバスに乗り、JRで安倍川駅までいき、7時に歩き始めた。前回ガードをくぐって駅に来たので、反対側に下りればくぐらなくて行けると思ったのが、間違いで、右往左往して、今でもどうしてそうなったのか分からないが、とにかく分岐の丸子交番に来たのが、7時35分になっていた。交番で「この道は佐渡交差点に行くのか?」を確かめて歩き始める。 佐渡橋を渡り、街道に沿って歩く。
5分ほど歩くと、五差路の春日町1丁目交差点で国道を渡る。左側に静岡鉄道の線路が見える。静岡鉄道は今来た東海道の裏を走っている。 東海道本線、新幹線ガード下をくぐり、曲金観音堂の分岐を左方向に進む。(曲金1丁目は、古来谷津山山系の南端二あたり、狐ヶ崎と称し、旧東海道の往還として栄えたが、また鎌倉幕府の武将 梶原景時一族と地元武士団との合戦の古戦場であった。古戦場跡に十一面観音を勧進し、観音堂を建てた。)
10分ほど歩くと、左側に西宮神社があり、道の反対側には、だるまを売るお店や、飾り物をうるお店があり、商店や、街道の家々には、達磨の絵がかかれた初詣のチラシが張ってあった。
上下伝馬町の石碑があり、説明によると、{東海道府中宿の一角に位置し、町名は伝馬の機能が設けられていたことに由来する。二軒の本陣と脇本陣、問屋場、貫目改所の宿場の機能が設けられ、数十軒の旅籠が軒を連ねていた。)とあった。
札之辻を右折し、呉服町通りを歩く。青葉町公園で、お正月のお飾りを売っていた。その後、呉服町交差点を左折し、江川町の交差点を地下道で渡り、伝馬長方面にでる。地下道を出ると、「西郷・山岡会見之史跡碑」があった。説明によると(慶応4年(1868)に東征軍の参謀西郷隆盛と幕府の軍事最高責任者 勝海舟の幕臣 山岡鉄太郎(鉄舟)の会見が伝馬町の松屋源兵衛宅で行なわれ、江戸城の無血開城が実現した。)とあった。
なお、分岐を右方向に進むと、「府中一里塚」があるらしい。これは、初期の東海道が左方向で、それで、こちらを新通りと言うのかも。新通りを進み、信号機のある交差点を6回わたり、右にタクシー会社がある角を右折する。七間町郵便局を通過し、コンビニのある交差点を右折する。とあるが、そのあたりは、映画館があったが、最近新静岡にセノバというビルが出来て、そこに入ったので、映画館街は消滅した。 七間町の通りを進むと、左に伊勢丹デパートがあり、札の辻の石柱が立っていた。
8時36分 東海道夢舞台 弥勒の道標が建っていた。傍に弥勒町の紹介が書かれた案内板があった。ここは、新通りのポケットパークになっていて、「由井正雪墓址蹟」「安倍川義夫の碑」 「安倍川架橋の碑」などの碑が沢山ある。
安倍川の川会所跡
分岐している道の右方向 新通りへと進む。右側に 安倍川義夫之碑があった。旅人が大金の入った財布を落とし、拾った川越人足が、宇津ノ谷峠まで追いかけて届けた。旅人がお礼を渡そうとしたが受け取らない。旅人から届けを受けた奉行所が変わりに褒美の金を人足に渡したという。
佐渡交差点近くの左側に 佐渡の子授け地蔵尊 が祀られていた。(その昔、子供を授からない夫婦が、地蔵さんを一体、家に借りて信仰すれば子供を授かると言われていた。めでたく子供を授かった人は、お地蔵さんを一体作りお礼参りをした。この地蔵堂には、子宝に恵まれた人が地蔵さんが沢山祀られている。) その反対側の公民館の前に東海道 夢舞台 丸子宿の道標が建っていた。案内によると(此処は、府中をすぎて、川越人足により、安倍川を渡り、手越村を抜けて続く松並木を西に進むと、丸子の一里塚があり、丸子宿に入っていく。)とあった。
JR 320円
JR 400円
バス 320円
計 1040円
今日は、東静岡で帰ろうと思い、長沼一里塚を見て帰ろうと思ったが、長沼駅を過ぎても見つけることが出来なかった。一里塚は今度見つけることにして、東静岡から帰った。
次の信号を左折すると、護国神社の鳥居があり、燈籠の間を奥に進む。境内では、元日の初詣の準備で、忙しそうに働く人々がいた。
しばらく、歩くと10時40分、東海道 夢舞台 曲金の道標がある。この道標以東の東海道は、鉄道の敷地になっているので、黄金橋を左折し迂回する。黄金橋の左に階段があり、下りていくと、地下道になっていて、ガードをくぐると、柚木の交差点に出る。交差点を向こう側に渡り、静岡鉄道に沿って歩く。左に護国神社が見える。
10分ほど歩くと、下横田町の石碑があった。説明によると(下横田は、府中宿の東の入り口にあたり、東境には「見付」があった。道を挟んで、両側に枡形の石垣が築かれていた。)とあった。
その先に 上伝馬本陣、脇本陣跡の石碑が建っている。また、駿府城とその周辺を描いた絵地図があり、府中宿の様子がよく分かった。人宿町ー七間町ー両替町ー札之辻ー呉服町ー江川町ー新谷町ー(本陣)ー(問屋場)ー上伝馬町ー下伝馬町ー華陽院門前町ー鋳物町ー上横田町と続く町並みが描かれている。府中宿は東海道でも最大級の宿場であった。上伝馬と下伝馬には、それぞれ、本陣と脇本陣が一軒ずつ設けられていた。上伝馬の本陣は、上本陣と呼ばれた、望月家で、脇は松崎家だった。
反対側にも同じ石碑が立っていた。
札之辻町の説明に(札之辻町の町名は、江戸時代此処が、高札場だったことに由来する。高札場は現在の七間町と呉服町が交差する駿府城よりの道の中央に立っていた。昭和20年 札之辻町は、呉服町、両替町、七間町の一部となりました。)とあった。
安倍川を渡ると、右手に、安倍川餅を売るお店が3軒ある。一番手前の橋本屋に入った。おじさん二人が安倍川餅を食べていたので、400円1人前をお持ち帰りで頼んだ。「前は7軒あったそうだが、今は3軒が残っている。」と言っていた。 お茶をご馳走になり、みかんをいただき、「東海道を歩いている。」と言ったら、五十三次の絵をあげるといって、何枚か持ってきた。府中はここに飾ってあったし、藤枝はもうないので、雪の蒲原をいただいた。蒲原の宿の所で、載せたいと思います。おばさんどうもありがとう。
安倍川橋の手前に史跡案内があり、少将井神社に平家物語や、能の「千手」で語り継がれている絶世の美女「千手の像」がある。と書いてあった。行って見たが道を間違えたのか、安倍川の土手に出てしまった。通りがかりの人に聞いたが、知らないと言われてしまった。諦めて、安倍川橋を渡る。 ペンキ塗り替えの工事中で、まくが張られていて、川の様子がよく見えなかった。また、天気の良い日には、富士山が正面に見えるが、今日はうす曇で、うっすらと見えるような、見えないような。
佐渡(さわたり)交差点で国道を渡り、向こう側の東海道に入る。松が少し残っている。
その近くには、 東海道 夢舞台 府中宿の道標があった。