藤枝〜島田 H.23.9.14
前から、東海道を歩いてみたいと思っていた。隠岐の島に行った時、参加者の一人が、2年間かかって東京から京都まで歩いたと言っていた。その方は、歩くツアーに参加して、いける時に行き、行けなかったところは又、後で申し込んで達成したそうです。ネットで調べると、何人かヒットした。ツアーでいくと50万くらいかかるので、自分で調べて歩いたと言う方もあった。 静岡県だけでも歩けないかと始めてみることにした。自宅から15分ほど歩くと東海道に行き当たる。まずはそこから歩いてみることにした。
橋を渡り、少し行くと、歩道橋があり、下に小さな川が流れていた。田中藩主水野監物忠善は、栃山川以東の水不足を解消するため、灌漑用水路を造ることを計画し、島田宿南に水門を設けて、大井川の水を取り込み、栃山川まで水路を開削して、流すようにした。農民は感謝の気持ちをこめて、監物川と呼び、東海道にかかる幅三間、長さ二間の土橋を監物橋とよんだ。
道悦島東交差点を過ぎ、やがて、六合の交差点が見えてくる。旧東海道は、JR六合駅前の横断歩道橋の手前を右側の狭い道に入るらしいが、私は歩道橋まで来てしまったので、歩道橋をわたり東海道に入った。入って五百メートルほどで旧道は終わるが、古い町並みも何もなく、また国道に出てしまった。横断歩道を渡って、左側に行くと、三角になったところに、夢舞台東海道 島田道悦島の道標があった。
左側にある茶の一言商店の前に、昭和天皇午巡察之所という石碑が建っていた。その先で、大津谷川にかかる栃山橋を渡った。江戸時代には、長さ十七間(36.6m)、横幅三間(5.4m)の土橋で、橋杭には三本立て七組で支えていた。土橋とは、板橋の上に柴を敷き、上に土を盛ったものだそうです。この橋が道悦島村と島田宿の境だったようです。
1里塚から300mほど歩くと、右に紳士服の青山があり、ここ1里山信号交差点で、国道1号線と合流する。少し歩くと島田市の標識があり12時43分、島田市に入った。国道にそって歩くが、ここにはまだ何本かの松が残っていた。
しばらく松並木を歩くと、「千貫堤 瀬戸染飯(そめいい)伝承館」 の矢印があった。染飯は強飯をクチナシの汁で染め、すりつぶして薄く小判型にしたもの。クチナシは疲労回復に効くといわれている。現在、お弁当屋さんでは、染飯のおにぎりなどが売られています。 千貫堤は、寛永12年田中藩主が、大井川の洪水から領内を守るため、下青島の無縁寺の山すそから本宮山まで、約360mにわたり、高さ3m60cm、幅、2m90cmの堤防を、千貫もの労銀を投じて造ったものだそうです。
道が二俣になっている御仮屋信号交差点にでた。旧道はここで左に入っていく。シャッター商店街になってしまった道を歩く。島田信用金庫を左に折れると世界一長い木橋 蓬莱橋があるが、このまえの台風で、橋脚が2本流されてしまったとニュースで言っていた。
古い家は殆どないが、割烹料理「魚一」が古いたたずまいで営業している。2〜3回行ったことがあるが、街道沿いの店らしく、うなぎの寝床のように奥に奥にと続いていて、置いてある調度品も年代物が多かった。
H23.9.14 暑い日だったが、家から歩いて15分ほどの東海道から歩き始めることにした。さわやか住宅の所に「東海道を歩く方へ」と書いた看板が立っていた。気軽に休んで言ってください。とあり、「大井川までおよそ2里」とあった。前にはベンチがあり、休めるようになっていた。この街道沿いには、松並木がまだ残っている。11時48分歩き始める。
本町五丁目の交差点を超えたお店の前に石碑が立っていた。 ここに、日本で最初の私設天文台があったと書いてあった。
升形跡(宿東入り口)のたて看板があった。島田宿の東入り口には、例の少ない升形の目付けが設けられていた。見付けとは元々城門の見張りの施設のことで、三方をこの字に囲った物を升形という。宿場の境界として設け、大名行列の送り迎えをしたした場所だったようです。
からくり時計塔の通りを歩き、本通り二丁目交差点を左に曲がってJR島田駅にむかい、電車で藤枝に帰った。駅には14時20分だったので、今日は2時間30分歩いたことになる。今日は暑い日だったが、順調に歩けてよかった。他のかたのHPを見ると、随分いろいろ見落としていることがわかった。
左側に「島田刀鍛冶の由来」という石碑があった。島田の刀鍛冶は室町時代から江戸時代末期にいたる四百年間の歴史があり、多くの刀工が軒を連ね、鍛冶集団を形成していたという。 その横には「問屋場跡」の石碑が立っていた。 天保年間の島田宿は、三島宿より大きく、盛況を極めていた。それは、大井川の渡しがあったためである。
江戸時代の島田宿のことが書かれていた。江戸へ五十二里(204km)藤枝宿へ二里八町(8.7km)金谷宿へ一里(3.9km)とあった。
12寺33分、夢舞台東海道 藤枝上青島の一里塚の道標があり、藤枝宿境から1里5町 島田宿境まで29町(3.2km)とあった。
酒樽が積まれている家に杉玉がつるされ、「喜久酔」の古い看板が掛けてある。藤枝は酒造が沢山ある。喜久酔、志太泉、杉錦、初亀などで、駅前には沢山の居酒屋が軒を連ね、「居酒屋文化の街」と言われているらしい。また、居酒屋グランプリなるものも開催されたようだ。傍の田んぼのあぜ道には彼岸花が咲いていた。
また、田中藩傍示蹟の石柱が立っていた。田中藩領上青島は横須賀藩領の下青島村と複雑に接していた。またこの標石を立てた直ぐ前に、上青島村の一部が旗本、日向鉄太郎の所領になった。この標石は1丈(約3m)の石柱で、「従是西田中領」と書かれていた。これと対になっているのは、細島村の製西端と考えられる。とあった。
道の反対側に育生舎跡の石碑があった。明治の学制発布後最初の公立小学校で、村制施行により、青島尋常小学校に合併移行された。青島地区には、青島に博習舎、志太に為善館があった。
東海道追分と書かれた石柱があった。瀬戸山を超える中世の古東海道と、山すそに沿う旧東海道があった。東海道が瀬戸新屋を通るようになって、東海道とこの古道の分かれるところを追分と呼んだ。と傍の立て看板に書いてあった。
松並木が残る道を進むと、県道上青島焼津線に合流する手前に鏡池堂(六地蔵尊)が祀られている。六地蔵尊は駿河国百地蔵のひとつであり、ご開帳は三十三年に一回と書いてあった。なお、お堂には、渡辺崋山の揮亳と伝わる額が掲げられていた。
整備された道右手にからくり時計があった。ちょうど私が写真を撮っていると、扉が開いて大奴が出てきて、手や足を動かした。何回もこのあたりには来たことがあるが、ちょうど動く時間に居合わせたのは初めてです。一時間おきに開き、風雨の時には開かないと書いてあった。ここは、下本陣の置塩藤四郎家のあったところである。島田宿には、西から上本陣の村松九郎治、中本陣の大久保新植右衛門、そしてここの下本陣があった。
しばらく歩くと、田中藩傍示関蹟の石柱があった。従是東田中領(これより東田中領)と書かれている。瀬戸新屋村は田中藩と掛川藩が入りくむ特異な村で、藩堺にこのような石柱を立てた。