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「樺太抑留日誌(抜粋)」
阿部泰輔 著


これは昭和24年に阿部彰さんのお父上である阿部泰輔さんが、
記憶とメモを元に書き下ろした記録です。
阿部彰さんの許可を得て、ここに転載致します。
著作権は阿部彰さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。


樺太抑留日誌(抜粋)

阿部泰輔 著
    目 次
1.上敷香篇  
2.豊原篇
3.女麗・雄吠泊篇 上
4.女麗・雄吠泊篇 下
5.さらば樺太よ(ダモイ)

  * 2〜以下は著者原稿紛失のため掲載されておりません。

1.上敷香篇
昭和20年8月9日     上へ
今日は木曜日、上敷香陸軍病院の看護婦生徒に、週一回2時間の産科学講義を終えて、私は再び診断室に帰り、外来診療録に目を通した。

正午のベルから少し遅れて、何時ものように将校食堂にいった。食堂奥中央の菅田院長はじめ見習士官以上の病院職員達は、いつもと違った沈黙に包まれた、異常な雰囲気に、私は不審を抱いたが、隣席の鈴木中尉が不安な蒼白い顔で 「日ソが危険状態に入ったと言う連絡が、司令部からたった今電話で入ったのだそうだ。」と教えてくれた。

青天の霹靂である。ソ連が米国に加担して日米戦に参加する事は、未だ容易に起こりえないと考えていた。 しかるに現在我々の住む上敷香は、日ソ国境線北緯五十度から、南に僅か二十里(80km)しか離れておらぬ。 明日にでも此処は、雪崩の如く侵入してくるであろうソ連軍との戦場に成るであろう・・・と言う心配が、皆の脳裏に点滅していると感じられた。

かつて上敷香に国境守備の主力を置いていた樺太師団は、今年の春から作戦を変更し、主力を豊原に南下させ、国境付近に正規軍は歩兵1個連隊に山砲、工兵の僅かが残るのみ、対するソ連軍は、情報によれば国境に戦車を含む近代装備の5個師団が待機している事が判明している。 それにしても危険状態とは、いったいどう言う事かが 問題になった。ある者は局地的衝突では?と、又ある者は宣戦布告そのものだろうと言った。

 夕刻、単身赴任どうしの鈴木中尉と共同使用の官舎に帰り、夕食後入浴を済ました直後、非常呼集がかかった。 直ちに病院へ駆けつけ整列すると、院長菅田大佐より、「司令部よりの重大な電話連絡を伝達します。 日ソは本日正午を以て、戦争状態に入りました。諸君は何時いかなる事態にも対処し得べく、万全の措置に遺憾なきを期されたい。終わり。」

病院の玄関を出るとき、樺太の夏の日も完全に暮れて、雨上がりの空は星一つ無い暗闇に変わっていた。

8月10日        上へ
午前8時半、金属的な異様な爆音を聞く。海軍飛行場江須基地の方向高度約500米位の低空で 単発単葉低翼の見慣れない型の戦闘機?が反転するのが目に入った。
 
バリバリと機銃掃射の音が響き、サイレンがけたたましく鳴り始め、病院のベルも噛みつくように断続10回、いきなり空襲警報だ。

患者の避難が始まった。外科第一病棟で、私は大声で「独歩患者は担送患者を運び出せ!」と、命令して指揮を執った。 廊下に出た患者の一部が重症患者の部屋へと逆戻りした。かなりの時間をロスしたが、全員退避を確認後、約30人収容の担送患者用防空壕へ飛び込んだ。 中は既に人で一杯だった。

やがて空襲警報解除のサイレンが鳴ったが、10時頃再び空襲警報のサイレンとベルが轟いた。 敵機は視界には入ってこなかった。 中央廊下に戻ると、菅田院長が玄関の方から歩いてきた。

「退避行動が遅いね。あれではまるで敵に撃たれに外へ出るようなものだ。」

この日から院長の判断で、今後担送患者は空襲警報が有っても、その都度防空壕へ運ぶ事は止め、毛布二枚を患者の頭から被せ、衛生兵を側に配置して世話に当たらせ、爆撃を受けた時は、運命を共にすべく定められた。 人員の損失を最小限にするための止むを得ない措置だった。

 正午過ぎ警報は全て解除された。

 今後大量に発生するであろう戦傷患者収容の為、現在入院中の平常患者を、明後日出来るだけ多く豊原へ後送する事に決し、内科鈴木中尉、外科岩佐中尉の2名が準備の為明日先発する事に決まった。 豊原陸軍病院は豊原第四国民学校に仮設だが、今後はそちらを本院にして、上敷香は分院とする事に決まっていた。

 この日は午後も3回空襲警報発令有り。約3km 離れた海軍飛行場の高射砲で有ろうか轟音が聞かれた。

8月11日        上へ
朝7時30分、普段より早く病院へ行き、明日後送する患者の第一外科病床日誌を整理していると衛生兵が入ってきた。

「軍医殿、戦傷患者が3名後送されてきました。1名は担送で、他の2名は護送されてきました。」
「よし、すぐに包帯交換所へ運べ。」

患者は貫通銃創2名、擦過銃創1名 、内1名は右肩から肩甲骨を割っていた。 
処置を終えて病室に送るとすぐ空襲警報のサイレンが鳴りわたった。壕に退避すると爆音が聞こえてきた。爆音が去り院内に戻ると、今度は担送4名を含むかなりの重症患者が20名ほどの兵隊に運ばれて到着していた。

直ちに包帯交換室へ運ばせて診ると、左観骨盲管銃創、右大腿爆創、右下腿爆創など、次第に外傷の程度もひどくなり、現地での激戦が思われた。手術室では、既に第二外科の腕達者軍医(本日豊原へ先発するはずの)岩佐中尉と岡崎少尉が、それぞれ衛生兵相手に手術を始めていた。 直ちに私も別の台で手当ての最中、又も噛みつくような空襲警報のベル、しかし手術室では、もはや誰も退避せず仕事を続けた。

−−−中略−−−

 午後4時過ぎ一段落つけて診断室に戻ると、当番兵の福地一等衛生兵が、ニコニコしながら「軍医殿、明日の転送患者の病床日誌は全部済みました。」
「有り難う、大変だったろう。」

  そこへ病室付下士官の松木軍曹が、入ってきて、

「軍医殿、戦傷患者が煙草を喫いたがって居りますが。」
「煙草?喫ますとすれば寝台で寝たままと言う訳だな−」
「そうです。」
「よし、院長に願ってやろう。まさか院長だって否とはいうまい。」

 菅田大佐が院長に赴任して1年後位から、先ず入院患者特に呼吸器系患者の禁煙から始まり、やがて他の疾患の患者、衛生兵等への節煙、酒保での煙草発売制限、喫煙時間の決定となり、ついには院内禁煙となったので、その恨まれかたはすざましいものであった。

 中央廊下を通って行く途中で院長を見つけたので、

「院長殿、お願いが有るのですが」
「・・・・・」
「戦傷患者が下士官を通じて煙草を喫わせて頂きたいと願い出ておりますが・・・」
「・・・煙草か」
「・・・・・・」
「よろしい、喫わせてやりなさい。」
「はい、有り難うございます。喫わすとすると、動けない者は、病床でもよろしいでしょうか」
「よろしい、それから戦傷患者で食べられる者には特別食として毎日鶏卵2ケつつ与えなさい」 
「はっ、わかりました。」

立ち去ろうとする私を、院長は軽く手を上げて制し、 

「阿部さんチョット話が有るから、私の部屋へ来てください。」
「はい」

 私は院長に従って院長室へ向かった。

 院長の話は、ソ連参戦以来、樺太在住の軍人家族を今後どうするかについてで、病院では他の部隊にも問い合わせ研究考慮した結果、病院としては、各自個人の勝手と言う事に決まりました。結局家族と官舎住まいの軍人全員が、家族は内地へ引き揚させる事に決まり、それぞれ私に連絡してきました。私自身も悩んだ末、思いなおして家族を内地へ引き揚させる事にしました。それで現地招集で単身赴任の貴方の家族だけが、まだ決まっていないので、どうするつもりかと思っていたのです。・・・と語りだした。

−−−中略−−−

「・・・私の正直な心は、結局、如何に理屈を付けようとも、我々軍人は戦死するとしても、どう考えても自分の妻子を、むざむざ殺したくないと言うのが本音なのです。その点、他人から如何に非難されようが、致しかた有りません。それで一度は残留と発表した私の家族を、鉄面皮にも、今度は逆に内地引揚と変更したのです。」

 院長の思いも掛けなかった好意的な、心情の吐露を受けて、私も同感し、出来るだけ速やかに、家族を内地引揚げに同意させるべく説得する必要があることを痛感し、>外出帰宅の許可を申し出ると、院長は快く承知し、さらに種々の便宜を与えてくれることを約束してくれた。

 「もし幸いに家族が内地引揚げに同意しましたら・・・」
 「その時は一旦上敷香へ、そう貴方の官舎ヘ連れてきなさい。そして何時でも、我々の家族と一緒に出発できるように準備して居てもらえばよろしい。」

8月12日        上へ
 午前中、平常患者の大量移動の仕事をおえて、午後あらためて院長に許可を取り13時10分江須駅発上り列車に乗った。どの車両もがら空きに近かった。デッキから中に入ると、車両の天井から床を貫く拳大の穴が5箇所も出来ていて青空が覗かれた。敵機の機銃掃射の跡と分かって、一瞬寒気を覚えた。

 途中、警報で停車して手間取り、一時間ほどで敷香駅に到着した。学校も休ませる
事になるからには、先に中学校と女学校の在学証明を貰っておこう。

 −−−中略−−−

 陸軍軍医中尉の肩書の名刺を受付に出すと、中学の林獅子三校長は、すぐ面会に応じてくれた。其処で此の非常時に誠に後ろめたい話だったが、出来るかぎりに色々な理屈をつけて、在学証明書の交付を願い出た。

 話を聞きおわった校長は、慎重な言葉で、「時節がら、又多くの生徒をお預かりしている責任上お聞きするのですが・・・」 と言って彼はその後、徹底的に疑問点を問いただしてきた。

 −−−中略−−−

「いや、判りました。理由はともかく、事実は家族の皆さんが、内地にお帰りに成りたいと言う事ですね。なるほど、貴方自身は別かも知れませんが。」
「・・・・・」
「阿部さん、彰君は貴方のお子さんですから、貴方が何時何処へお連れになろうとも、自由でしょう。しかし、ご希望の在学証明は遺憾ながら、私としては差し上げる訳には参りません。」
「ソッ、其は何故ですか?」
「阿部さん、貴方は軍人であり将校です。しかも知識階級と言われる医師です。その貴方からかかる時局に、この窮迫した事態の時に、危険だからといって家族を内地へ引き揚させる等と言う事を聞くのは、大変遺憾です。いや、不愉快です。」
「・・・・・」
「アッツ島、サイパン島から、危険が迫ったからと、内地へ逃げ帰った日本人が有ったでしょうか。沖縄から玉砕を避けて家庭の都合を口実に、内地へ引き揚た人間が有ったでしょうか。」
「・・・・・」
「私は貴方を罵る気は有りません。しかし樺太ではこの敷香でも男子はすべて応召に又は徴用に出て終い、残っているのは、病人か私のような老人か、後はか弱き女子供ばかりです。其でさえ一身を投げ出して、家を町を学校を守ろうとしているのです。
この事は貴方の奥さんも、子供もきっと同じだと思います・・・・」
「・・・・・」
「阿部さん、私にも子供が有ります。末の子は今貴方の彰君より二年上の三年生です。親としての貴方の気持ちは、私にも充分判かります。けれども、私は日本人です。」
「・・・・・」
「阿部さん、貴方だって日本人では有りませんか。貴方の希望の在学証明書は、折角ですが、決して差し上げる訳には参りません。」

 私は羞恥心で身体中が痙攣する様な気持ちで、中学校を辞した。
全て自分の心掛けからとは言え、顔を土足で踏まれた思いがした。否踏まれたのは、私だけでは無い。子供の彰の顔も踏まれたのだ。しかもその面を踏みにじったのは、誰有ろう父の私自身で無かろうか。

 もはや女学校へ行く気分ではなっかた。二度と先ほどの様な屈辱には、耐え得無かった。

−−−中略−−−

 千草通りを抜けて銀座通りへ出たとたん、空襲警報のサイレンが鳴った。人絹工場のサイレンであろう。同時に警防団員達がメガホンで、空襲、空襲と連呼しながら、町内を駆け回った。近くの防空濠に一時避難したが、やがて掛け放しにしてある何処かのラジオから、東部軍管区情報が流れて来た。敵機の編隊は敷香を通らずに、五里離れた上敷香上空を通過し南下中らしい。
 
−−−中略−−− 

 敷香神社に近い我が留守宅の病院に着いたのは、午後4時を回っていた。 突然の帰宅に、「お帰りなさい。」と言いながら、皆はやや驚いた様だったが、国民学校2年生の進と3年の道子が跳んできて、私の両手にぶら下がった。家には妻とこの春中学に入学した長男の彰、次女の道子、末っ子の進の外に、応招前から居る看護婦見習いの恵美子の5人が居たが、女学校3年で雪組の級長をしている長女の啓子は、まだ帰って居なかった。

−−−中略−−−

 私は戸惑いながらも、いかにも当然の事のように、何とかして家族全員が、他の陸病の家族と一緒に引き揚る事に同意する様にと、説得に努めた。しかし、妻の反論する態度は固かった。

「貴方の仰ることも、少し分かってきた様に思いますが、軍隊の作戦と言うものは私には分かりません。だけど戦が駆け引きで有るとして、軍隊は引くことも有れば進むことだって有る筈です。今私達が引き揚たら、今度再び敷香が我が軍の手に帰しても、どうして再び戻ってくる事が出来るでしょうか。町中の人達から卑怯者、臆病者、非国民と罵られるでしょう。私一人のことなら我慢もしましょう。しかし其は軍人で有る貴方の為にも、子供たちの為にも出来ません。其に此処を棄てて一体何処へ行こうと言うのですか。此処は私達の家です。子供たちの家です。その大事な家を棄てて、一体何処に私達の住む家が有るでしょうか!」
「・・・今は無いさ、しかし新潟には、お前も私も親戚が居るではないか。」
「それは親も兄弟姉妹も居ります。だからといって、今更、おめおめと帰って行けるでしょうか。臆病者、卑怯者の親戚の家族を、誰が快く世話してくれるでしょうか。」

−−−中略−−−

「私にはどうしても貴方の仰る事がよく呑み込めませんが、それ程仰るなら、私は従いましょう。彰たちも承知してくれると思います。けれど、あの啓子が、正しいことばかりの啓子が、承知してくれるでしょうか?」
「・・・・」

 私は冷たくなったお茶をグッと飲み込んだ。その時、襖が開いて、今噂していた啓子が、パルプ工場への動員で日焼けした元気そうな顔で現れた。

「オヤ!お父さん、お帰りなさい。」

 屈託ない笑顔に、私もやや頬が緩んだが、啓子は部屋の異様な雰囲気を、敏感に感じ取っていた。

「お母さん、只今。」
「お帰り。」
「・・・・・」
「皆座ってどうしたの?」

 妻は何かしら救われたように、ほっとして居た。

−−−中略−−−
 
 長く息苦しい家族との話し合いの結果、結局、家族達の引揚げ同意は得られなかった。明日もう一度公用で敷香へ来る旨を伝え、 悄然として私は一人で18時発の上敷香行き列車に乗った。「この家は私達の家です。子供達の家です。その大事な家を捨てて、他に何処に住むべき家が有るのでしょうか。」妻の声が、「命など要りません。お父さんは卑怯です!卑怯者です。」啓子の声がまだ頭から消え去らなかった。

8月13日        上へ
 早朝4時起床、院長が好意で、陸軍病院で買い取ってくれる事になった私の病院に所有していた医療器具と大量の衛生材料を搬送のため、患者輸送用自動車で、運転手、助手3名、福地当番兵の5名で、アスファルト舗装の敷香街道を、空襲の来ないうちにと朝霧をついて急いだ。今後自宅へ戻る日は、恐らくもう無いだろう。妻子と会える日はもう無いかもしれない。 
兵隊たちと車を表に残し玄関から家に入った。

−−−中略−−−

 妻がややためらうように「あの−、お願いが有るのですが有るのですが、」
「・・・・・」
「今日貴方がお帰りになるとき、私達みんな上敷香に連れていってください。」
「どうして?」

 妻は昨日私が帰ってからの、家族たちの心境の変化について、一部始終を淡々と語りはじめた。 

「昨日までは気が付かずに居りましたが、貴方が昨日仰った事を良く考えてみると、軍が作戦の都合とかで敷香を放棄することに決まったと言う事は、軍隊が私達を置き去りにして行くと言う事です。私達が引揚げに反対したのは、兵隊さんたちと力を合わせて、この町を、私達の家を守って戦う積もりだったのです。昨日どうしても分からなかったことは、兵隊さん達が私達の町を棄ててしまうと言う点でした。その意味が分かった今となっては、もはや引き揚る外に道はないと思います。ただ残念に思うのは、その秘密を私達だけが先に知って引き揚ると言う事です。出来ることなら町中の人達全部で引き揚たいと思いますが、そんな事は到底出来ることではありません。」

「・・・・それで啓子は?」

「啓子は、昨日本当に気の毒でした。私は自分で良く考えて、今申し上げた事が正しいと思ったのですが、啓子はどうしても分かってくれませんでした。余りにも自分の信念とかけ離れた話ですもの、最初は泣いたり怒ったりして口を利いていましたが、私達がいろいろ話して行くうちに、段々口を利かなくなった来ました。ついには、もはや何を話しても、返事もせず、黙って下唇を噛み、涙を浮かべて、じっとしていま>した。暗くなって9時頃でしたか、突然担任の蜂屋先生の所へ行くと言って、遅いからと止めたのですが、一人で出掛けました。暫くして帰って来ましたが、やはり口を利いてくれません。私は心配なので、いろいろ話しかけると、最後に、蜂屋先生が「大変悔しいことで有りますが、お家の方が、全部引き揚るというのなら、仕方が有りません。貴方も一緒に引き揚なさい。」と仰った。・・・と話しおえると、私の膝に顔を伏せて声を立て身を震わせて泣くのです。放心状態の啓子をみて、私の考えがやはり間違って居たのでは無かろうかと、何度も思い返して居ました。」
「・・・・・」
「・・・でも結局、啓子も引き揚る事に決まった訳ですから、それからは、すぐ荷作りに掛かって、恵美子も私も今朝まで一睡もしませんでした。」

 運ぶ荷物が増えたので、急遽、憲兵隊へ行ってトラック一台の調達、使用手配を申請せねば成らなかったが、それも何とか許可された。

−−−中略−−−

 かくて我が家族は、昭和10年以来、樺太で営々と努力して手に入れた、三百五十坪の土地に建つ二百八十坪の広大な病院・住宅の中から、出来るかぎり必要と思われる物のみをかき集めて積込み、私は院長が好意で、陸軍病院で買い取ってくれることに成った医療機械や衛生器材を梱包させて、その他の家財道具は残したまま、間借り人や近所の人達に別れを告げ、午前9時警戒警報の中を出発、敷香よりさらに北なる軍都上敷香の陸軍病院官舎へと向かった。途中車の故障2回修理停車や、空襲警報で一時避難など時間を使い、官舎到着は正午に近かった。

−−−中略−−− 

8月14日        上へ
 終日前線から続々と後送されてくる戦傷患者の診療に時を奪われた。


8月15日        
 先日患者の大量を豊原へ輸送したにも係わらず、第一線からの戦傷患者が連日続々と後送されて来るので、私の第1病棟ではほとんど70%のベットが塞がってしまった。第2病棟も同じだが、つい最近まで各病棟軍医2名で診療していたが、豊原及び第一線へ転勤したので、私と第2病棟の岡崎軍医で全く多忙を極めた。

 今日も昼食時に将校食堂へ行く暇もなく、診断室で食事をかき込みそのまま診療を続けて居た。

 先程遅い食事に室を出た福地衛生一等兵が帰ってきた。
「軍医殿、今日の昼頃、日本が戦争に負けたとか書いたビラを、電柱に貼った朝鮮人が憲兵隊に連行されたそうです。今第2外科へ来た工兵隊の者が話していました。」
「そんな馬鹿げたビラを貼れば、引っ張られるのは当たり前に決まっているよ。」
「それにしても、変ですね。」
「何故・・・」
「だって、無闇にそんなビラを書いて貼る奴も無いでしょう。」

 私はこの時点で、まだ事の重大さに全く気が付かなかった。その時耳鼻科の軍医吉住中尉が入ってきた。

「阿部さん聞いたかい、負けた話を。」
「ビラを貼って憲兵隊に引っ張られた奴の事かい。」
「貴方は何も知らないのだね。遅い遅い。」
「・・・・」
「昨日の予告どおり、今日の正午に陛下自身のラジオ放送が有ったのさ。」
「本土決戦の激励でも・・・」
「違う違う、負けたんだとさ。」
「何処が」
「日本がさ、ポツダム宣言を受託したんだとさ。」
「・・・・本当かい、貴方はラジオを聞いたのかい。」
「いや俺は聞かないが、今庶務で聞いたのだ。」
「確かだね・・・」
「皆がそう言っているから確かなのだろう。」
「そうか、よし僕は院長に直接聞いて来る!」

 院長室のドアを軽くノックしたが、返事はなかった。私はそっとドアを開けてみた。院長は瞑目して机の椅子に掛けたまま、何かを考えて居るようだった。ノックが聞こえなかったのかもしれない。私はしばしためらったが、口をきった。

「院長殿、・・・今、吉住中尉から聞いたのですが、午に陛下の御放送が有ったのですか。」
「そうです。」
「・・・そして日本が負けたと言うのは、本当ですか。」
「そうです。」
「院長殿は、そのラジオをお聞きになりましたか。」
「聞きました!」

 私は奈落の底へ落ち込んで行くような気がした。もはや日本の敗戦は疑う余地が無かった。

「これからどう成るのでしょうか。」
「私にも分かりません。とにかくポツダム宣言を、受諾したと言うことですから。」
「ポツダム宣言とは、どんな内容ですか。」
「私も詳細は覚えていませんが、これは無条件降伏の事だと理解していました。」
「・・・・」

 その時ドアが開いて、庶務室の住谷伍長が入ってきた。
「院長殿、出来ました。」と言って、ガリ版刷りの紙をさしだした。院長はそれを受け取ると、頷くように黙読し、読みおわると、じっと瞑目した。

「阿部さん、これが先ほどの陛下の御放送を速記させたものの清書です。」
 そこで目にしたのが、終戦の詔であった。

 −−−−中略−−−−
 
 私はこの事実を、家族に如何に説明したら良いか、困惑しながら重い足取りで、官舎へ向かった。

 −−−−中略−−−−
8月16日        上へ
昨夜は妻と今後の方針について深夜まで相談した。そして結局戦争が終わったからには、再び家族を敷香の自宅に戻して、状況の推移を眺めても、何らの危険も無いはずと考えた。
 
 朝登庁すると直ちに院長に了解を得て、午前中に憲兵隊に行き家族のために乗車証明を貰った。14時30分発上り江須駅発列車に乗るべく、家族はさしあったての日用品を持って官舎を出た。駅には終戦後の混乱を予想したのか、現役軍人の家族達が、内地引き揚げを目指すのか、大勢屯して南下する列車を待っていた。

 14時丁度に空襲警報が発令された。終戦になったのに空襲とは変だと思ったが、一応皆物陰に退避した。40分程たったが、何事も起こらず誤報かと思い、ポツポツ人がホ−ムに戻ってきた。まだ警報も解除に成らないのに、隣の始発駅、上敷香から列車も江須駅に到着した。

 その列車は、北部からの避難、又は引揚げと思われる地方人で、ほとんど満員に近かった。何故人々は、引揚げを急ぐのだろう。終戦と成ったからには、一般住民の引揚げの必要は全く無い筈では有るまいか。誰かに前線の状況を尋ねようと、気が付いたときには、汽車は既に動きはじめていた。

「残りの荷物は明日病院の車で送るが、午後に着くようになるかも知れん。では気をつけて・・・」

 再び住み慣れた我が家へ戻るので、気軽そうに遠ざかって行く妻達に言葉を投げた。そして何かしらホッとした軽い気持ちで病院へ帰った。

 病院の平常勤務を終えて官舎へ帰り、家族の残していった雑然とした荷物を、一人で整理していると、又も空襲警報のサイレンが響いた。

「戦争が終わったのにうるさい奴だ」と独り言を言いながら、外を覗くと、私の視野に、42部隊(歩兵)兵舎の上空200米位の低空で侵入して来る三機編隊のソ連機が写ったが、すぐ視野から消えた。その時バリバリと言う機銃の音と、それに続いて、答えるように高射砲の炸裂音が続いた。海軍江須基地の高射砲の応戦で有ろう。思わず飛びだして空を見上げると、弾幕の間を縫うように敵機は反復して基地を襲撃している。低空で高速のためか、弾幕は敵機の後、後と現れる。私は吸い付けられた様に戦闘を見守った。そのうちに1機が白煙を吐きだした。命中だ!しかし敵機は白煙を引きながらも編隊を組直し、やがて北の空に消えていった。 
 私は部屋に戻り、ボンヤリと荷物に腰掛けた。

 あの夥しい奥地住民の避難行動と、今のソ連機と我が軍の交戦は、一体何を意味するのであろうか。降伏と言う陛下の意思表示が、将兵に未だ不徹底の為の局地的問題なので有ろうか。或いは?此処樺太においては、未だ終戦では無いのでは有るまいか。

 私は今別れて敷香の自宅へ帰してきたばかりの、家族達の今後に、言い知れぬ不安を感じ始めていた。

8月17日        上へ
 爆破の地響きで目が覚めた。午前5時だった。窓の遮光幕の隙間から外の光が僅かに漏れている。窓を開けると冷たい朝の外気が流れ込んできた。
 病院裏手の方角に、立ちのぼる黒煙と猛烈な火柱の先が見えた。何事かと軍服に着替え外へ出たが、朝霧の立ち込めた静かな官舎街には人影一つ見えなかった。
 病院の玄関近くまで行くと左手に1kmほど離れた「イ」部隊の倉庫付近が黒煙に包まれて炎上しているのが見えた。

 病院玄関から中央廊下200米突ききり、伝染病等を抜けて裏へ出た。そこで「イ」部隊の分散建築された倉庫群が黒煙と共に10カ所以上火炎に包まれているのを目撃した。さらに次々と新たな爆破の轟音と共に別の倉庫から煙が上り、やがて火炎と黒煙を上空に吹き上げて炎上しはじめるのであった。

 私は裏門を抜けて柵外に出た。

 其処は江須駅からの自動車隊への引き込み線の荷揚場に成っており、既に大勢の兵隊が作業していて、耳鼻科の吉住中尉が指揮を執っていた。無蓋貨車に積み込む梱包物は殆ど軍用衛生材料で有ったが、中には木札や荷札に姓名を書いた将校や雇用人の私物も筵巻きになって積み重なっていた。

「どうしたのですか」

庶務の千葉準尉に尋ねると
「あ−、ご承知無いのですか・・・敵は間近に迫って居るのです。私達は今日の午後ですが、吉住中尉は荷宰領として此の汽車で豊原に先発します。」

 私が昨日から案じていた不安が事実となったのを知った。
「一昨日終戦の詔書が下ったのでは有りませんか?」
「そうです。それで我が軍からソ連軍に二回も軍使を送ったのですが、協議に応じないばかりか軍使は射殺され、あくまで武力侵攻が続いて居るのです。」
「敵は何処まで来ているのですか。」
「昨日の話では、もう保恵(上敷香まで約40km)まで敵戦車が来ているとの事です。」
「陸病の本部要員に決まった豊原行きの方達は今日にでも発たれるのですか?]
「私達がそれです。今日午後4時出発予定です。」
「・・・私達、分院組として上敷香勤務に決まった者は?」
「それは知りません・・・」
と言って、彼は気の毒そうな顔をした。

 その時工藤大尉が駈けてきた。

「千葉準尉!君は直ちに機密書類を焼却せよ。場所は病院前の広場でよかろう。」
「ハッ!」
「それから今日16時に陸病全部豊原へ引き揚よと、命令が変わったから、その準備もしておけ。」
「病院全員ですか。」
「そうだ!全部だ、全部だ。」

 千葉準尉は直ちに命令実行の為、病院へと走り去った。

「工藤大尉、今の話は、我々残留予定組もですか?」
「そうです。」
「患者も含めた全員ですな。」
「そうです。」
「何処から乗車しますか?」
「この荷揚場からです。」
「分かりました。」

 私は直ちに自分の病棟に走った。高野軍曹に我々の病棟全員の移動準備をするように命令した。普段であれば、発令された命令は大小に係わらず、書類又は拡声器で伝達されるのであるが、事態が切迫し混乱した今は、当事者以外は、否当事者にさえも命令が伝わりにくく成っている。命令を伝えてホッとしたら、まだ朝食前のことを思い出して急に空腹を感じ、将校食堂へ向かおうとしたが、中央廊下には、すでに庶務や経理の兵隊たちが、気が狂った様に、荷物の梱包や運び出しに右往左往していた。
食堂へ着いてみたが、さすがに食事の準備はなかった。

 玄関を出てみると、すでに機密書類の山が4か所で点火され、兵隊たちが次々と書類を投げ込んでいた。その傍を通り、門衛の前を過ぎたとき、正面遙か彼方に、竜巻のような煙が2本見えた。きっと野頃(地名)の石油倉庫の燃える煙だろう。

 官舎に帰り着いた私は、改めて家の内外を見渡した。梱包したままの箱や行李、蒲団包み等、昨日家族が残していった荷物が、どの部屋にも積まれたままだった。これらはすべて、家族の日常生活に必須な物ばかりである。今となっては、その一つだに家族に手渡す手段とて無いのだ。私は途方にくれて茫然として、それらを眺めていた。

 こうしては居られない。ふと我に返って台所に行き、残っていた冷飯に戸棚にあった卵3ケを一度にかけてかき込んで腹拵えをした。それから外へ出ると鶏舎と鈴木中尉の残していった兎舎の戸を開放した。再び家に戻って思案の結果、家族の荷物とわたしの書物を出来る限り、引き込み線まで運んで行く決心をした。8月15日以降、にわかに兵隊達の上官に対する態度が、急に冷淡になって、以前のように気安く仕事を頼みにくく成ったが、この際何としてでも、当番兵の福地一等兵に力を借りねばならない。
 私は急いで再び病院へ走った。玄関前広場には、まだ機密書類の焼却が続いていた。ゴムの燃える臭いが鼻を突いた。

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 その時庶務の加藤上等兵がとんできて、

「阿部軍医殿!お電話です。」
「電話?誰から!」
「誰からか分かりません。敷香からです。敷香の652番へ掛けて下さいとの事です。」「652番?・・・そうか有り難う。」
 
 敷香の652番に記憶は無かった。我が家の番号は149番である。しかし私はすぐ玄関脇の電話交換室に飛び込んで、不審に思いながら「記録」を呼び敷香652番に掛けた。室の前の廊下は、荷物の運搬などで喧騒を極めていた。

 待つことしばし交換手が出て、

「貴方は211番ですか。敷香652番に継ぎました。お話下さい。」
「もしもし、もしもし・・・」
「上敷香ですか。アッ、お父さんですか!」
 思掛けない電話の相手は妻だった。しかし声が非常に遠くて良く聞き取れない。
    
「みい子か!どうした。」
「・・・・・・」
「もしもし、もしもし、良く聞こえないのだが、どうした。」
「昨夜おそく連絡がありまして、私達、敷香町の婦女子全員強制引揚げです。」
「強制引揚げ?いったい何処へ?」
「・・・・・・」
「もしもし、もしもし、声が小さくて聞こえない。何処へ行くの?」
「・・・・・・」
「もっと大きな声で、もしもし、何処へ行くの?」
「強制引揚げです。」
「それは分かったが、何時、何処へ行くの?」
「・・・・・・」
「もしもし、もしもし、何処へ・・・」
 
 その時不幸にして、入口のすぐ上に有る空襲警報のベルが、耳も聾せんばかりに鳴りはじめた。

「もしもし、もしもし、・・・・」

 もはや自分の声さえ聞き取れぬ状態で有った。受話器を持ったまま、断続10回の警報が鳴りやむのを待った。しかし、ようやく警報が鳴りやんだ後、電話は既に切れていて何の応答も聞かれなかった。二度、三度、交換台の「記録」を呼んでみたが、再び敷香との連絡は付かなかった。
 
 此処数日間の出来事が走馬燈のように頭に浮かんだ。
何のために私は中学の林校長に面会したのであろうか。
何のために啓子を泣かせてまでも、家族を上敷香へ呼び寄せたのであろうか。
そして何のためにその家族を、再び敷香へ帰したのだあろうか。
自分の考えと行動の結果が、余りにも早く裏目裏目と出ていく現実に、私は只茫然とするのみだった。

 敷香は強制引揚げだと言う。何時、何処へ行こうと言うのであろうか。かすかに聞こえた妻の声が、恐らく家族の最後の声と成るに違いないと思ったとき、慙愧の念が胸をしめつけた。

 私は神に祈らずには居られなかった。永い間何にも報いてやれなかった妻よ、これからの苦難の道を、どうぞ元気で有ってください。そしてかわいい子供たちよ、特に啓子よ、彰よ、貴方たちはもう女学生であり、中学生です。どうぞ体の悪い母を頼みます。そして小さな子供たちの世話も頼みます。何時まで、又、何処へ疎開するのか分からぬ母子が、僅かの食物と着替え、そしてほんの僅かなお金とで過ごさねばならぬ今後の生活は、どんなに心細い事でしょうか。どうぞ達者で有ってください。

 私は再び引き込み線の所へ向かった。線路上には新たな貨車に前と同じ様な作業が続いていた。そして傍らの凹地には、毎日丹念に記録してきた分厚い病床日誌の山が、医料器材の箱と共に焼却されつつ有った。時々兵隊がアルコ−ルの瓶を放り込んで火勢を煽っていた。

 私は不審に思って、脇にいた工藤大尉に質問した。

「工藤大尉、何故器材まで焼くのですか?」
「12時迄には、とても間に合わないし、又輸送する車両も足りません。」
「・・・12時! 12時迄と言うのは何ですか?」
「午後4時の出発予定が12時に変わったのです。そしてそれが上敷香からの最後の汽車です。」

 時計を見ると既に9時をすぎていた。もはや当番兵を探している時間はなっかった。幸い空いているリヤカ−を拾って、1km程の道を官舎へ急いだ。途中看護婦生徒3人に出会ったので、手伝いを頼んだら快く承知してくれたのは有りがたかった。

「軍医殿、お顔が真っ青ですわ!」

「そうか、私はこれから病棟へいって、出発時間の変更を連絡せねば成らんから、すぐ官舎へ戻るが、お前たち先に行ってくれ。」

 リヤカ−を彼女らに渡し、病棟へ走った。そして衛生兵に、病棟内の全員を直ちに病院裏引き込み線地点に集結、待機さすように命令すると、すぐに自分の官舎に飛んだ。
 官舎では三人の看護婦生徒が、荷物のどれを運ぶか協議中であった。私は将校行李一つと寝具袋、行李、書物の箱等を指示し、彼女らはその一部を積み車を曳いていった。
 私は一人居残って別な将校行李に、日用品や着替えの類を軽く詰めた。そして何時も腰にしていた指揮刀(義甥の士官学校出身陸軍少佐石田国光君から贈られた品)を外し、一昨年買い求めた菊一文字の重い軍刀に代え、水筒と図嚢を十字に背負って、将校行李を右手に、放棄したたくさんの荷物と住み慣れた官舎を後にした。

 垣根に昨年からの楽しい計画で、今春5月まだ雪の残る頃から丹念に温床から育てた南瓜の蔓に雄花が一つ咲いているのが目についた。今日で二回目の開花であった。
その隣は白菜と体菜の畠で、もう可愛いい芽が出ていた。
 私は無量の一瞥を送ってから、道を急いだ。軽く作ったつもりの行李が、段々持ち重みがし、冷たい汗が目に入り、下着も濡れるのが意識された。

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 やっと病院炊事場の横にでて、水筒に水を入れてない事に気付き、炊事場に入ると、顔見知りの厨房夫連中が、盛んに山盛りの砂糖を舐めていた。

「軍医殿、奥に行ってご覧なさい。砂糖が有りますよ。」

 彼はテレ隠しのように笑いながらそう言った。
 
 奥には兵隊や厨房夫が数人で砂糖や缶詰め、バタ−等を山分けしている最中だった。
皆一斉に私を見たが、軍医と分かると、安堵の色を浮かべて、

「軍医殿も一つ如何ですか。」
「ウン、珍しい物があるな−、俺も少し頂戴するか。」

 私は風呂敷を出して、約2貫目もの砂糖と1ポンドバタ−6、7本を包み、皆と同罪に成って其処を出た。

 引き込み線には、病棟の担送患者、独歩患者達が手荷物を持ったり、毛布を羽織ったりして素規則に屯していた。そして空の貨車が来るたびに先ず担架輸送患者、次に荷物、荷物の上に独歩患者を乗車させた。その頃から微かに風と小雨が降りだした。
患者の乗車が終わり、全員の乗車が終わったのは12時近かった。

 線路に近い爆破前の倉庫から、木箱を満載した荷馬車が三台出ていった。残った物資はやがて焼かれると言うので、各車両からたくさんの兵隊や、機敏な独歩患者まで飛びだして、倉庫内の乾パン、牛缶詰等の箱詰をどんどん運び出して、直ちに箱を壊して食べはじめた。

「軍医殿も、如何ですか。」兵隊や患者からのお裾分けが来た。
「有り難う。お礼に旨い物を上げよう。誰か飯盒を出して下さい。」
 私はさっき炊事から持ち出した砂糖を山盛りにして差し出した。    
「軍医殿、何処から持ってきたのですか?」
「炊事からだよ。」
「へ−、こう言う事になると、軍医殿は早いですねえ。」
「馬鹿を言うな。こう言う事・・・なんて言いやがって。」  
皆ドッと笑った。

 待つことしばし、機関車が一台近付いて来た。連結が終わると、何の未練も無いかの様に、静かに発車した。昭和16年以来5年間勤務した我が陸軍病院の最後の姿を一瞥する間にそれは視界から消えた。

 江須駅に着くと、奥地から引揚げの人々を満載した客車2両が待っていた。その連結が終わるとすぐ又発車した。駅を外れると、左手に要42歩兵部隊の煉瓦造りの堅固な建物が紅蓮の火炎に包まれていた。時々爆発音も聞こえる。 我々は毛布や天幕を被って、雨と油煙を防ぎ默念としていた。

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 中敷香駅に着いた。この線路を挟んだすぐ前に、私が開業する前の5年間勤務した三井炭鉱の病院のある内川に通ずる内川軌道の中敷香駅がある。本線の駅員に内川の近況を聞いてみた。

「内川炭鉱では、三井の社命で婦女子も、全員残留する事になったそうです。」
「貴方たち駅員は?」
「家族は昨日引き揚ました。我々は貴方たちのこの列車が出たあと、鉄道職員を運ぶ為の列車が来るはずですが、それが最後の列車に成るかもしれません。後には国境まで一台も機関車が無いはずです。」

 雨は小降りだったが、油煙が酷いので、すぐ前の院長達の乗っている有蓋貨車に乗り換えた。殆ど天井まで荷物が積み上げられ、その隙間に菅田大佐(院長)、工藤大尉、鎌田少尉、千葉準尉、高野軍曹、その他2、3名の兵隊が入っていた。

 中敷香駅を発車すると、今朝の敷香からの電話のことが、気になりだした。強制引揚げ、強制引揚げ、さっき連結した客車に乗っていた避難民も、奥地からの強制引き揚げ者で有ろう。敷香3万の住民が避難するにも、やはり汽車を使うしか有るまい。
乗車出来たので有ろうか?一時に全員が乗車出来る筈は無い。この列車が敷香に到着しても、まだ町民の一部、否大部分がまだ駅に残って居るかも知れない。否そうに違いないと確信に近い考えが湧いてきた。
 約30分で敷香駅の3番線に到着した。雨はすっかり上っていた。私は先ほど貰った乾パンの袋を数個持って車を出た。2番線、1番線に並んだ貨車の下を潜ってホ−ムに出た。駅前の広場には、やはり幾千万の町民が、町内会毎に旗を立てて屯していた。

「本通りの方達は何処ですか!」

 私は叫びながら、大群衆の中を走り回った。汽車はもうすぐ発車するであろう。何としてでも家族を探さなくては・・・、この時人が見たら、私の目は血走って狂人のように見えたに違いない。
 尚も必死になって、走り尋ね回って居ると、・・・居た!居た!妻が、そして幼い>2人の子供も、何と言う幸運か!

「さあ急いで私の汽車に乗りなさい!」

 妻も私の姿を認めたが、その顔は泣きだしそうに、歪んでいた。

「でも啓子と彰が・・・」
「二人は何処へ行った?」
「二人はさっき学校へ在学証明を貰いに行ったのです。」
「在学証明!ウ−ム、馬鹿な!」 私は先日の中学校での出来事を思い出し、地団駄踏んで叫んだ。

 汽車はやがて発車の汽笛を鳴らすであろう。そしてこの列車が最後に成るかもしれないと聞いている。どうして、この大群衆を運ぶ機関車、車両の都合がつく筈がない。もう逢えないと思った家族を、ようやく発見したのに、再び、否、永遠の別れに成るかも知れないとは! 馬鹿な!

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 暫くして漸く自制心を取り戻した私は尋ねた。
「学校は、大分時間が掛かるかな?」
「もう帰るかと思うのですが・・・」
「昨日はあれから、どうしていたの?」
「ええ、皆で家に帰って、やれやれと落ちついたのですが、その夜11時頃、隣組からの通達で、今日朝から、敷香町民婦女子全員と、13才以下の男子は強制引揚げだとの連絡が有り、その準備をするように、チッキで一人五貫目迄の荷物が許可されたのですが、上敷香に全部残して置いてきたので、準備も何も有りません。昨日帰ったままの姿で、今朝出てきたのです。でもあれやこれやで、皆一睡もしていません。
さっき中学や女学校が在学証明を出していると言う話が伝わり、それで二人共出掛けたのです。」
「そうか、皆が朝から此処に待っているんだね。」
「そうです。」
「・・・で、何時汽車に乗れるの?」
「わかりません。」
「行き先は?」
「わかりません。」
「・・・・・」

 時は刻々と過ぎていく。もはや私は決断する外は無かった。

「啓子と彰が居なくては、とても2人を残して貴方たちだけを、連れていく訳にはい>かない。汽車はもう直に発車するでしょう。私は軍医だから沢山の負傷患者が居るの>で、乗り遅れる訳にはいかない。だから私は汽車へ戻るが、二人が間に合ったらすぐ来てください。隣組組長さんには、私から良くお願いして置くから!・・・」

 私は持ってきた乾パンの袋を、小さな子供達に与え、
「道子!進! お母さんの言うことを、善く利いておくれよ。そして早く大きくなってください。恵美子、これからは、とても大変だと思いますが、皆で力を合わせ、励まし合って元気に生きていって下さい。・・・では皆気をつけて、さようなら。」

 私はホ−ムに戻り、線路に下りて1.2番線の貨物列車を越えて貨車に戻った。

「阿部さん、奥さんたちは居ましたか?」 院長が尋ねてくださった。
「はい、居るには居ましたが・・・」
「なら、どうして連れてこなかったのですか?」
「上の子供二人が、学校へ行って居て、居なかったのです。」
「・・・・」 院長は何も言わなかった。

 私は発車の汽笛をじっと待って居た。丁度死刑囚が最後の時を待つように。
 
「阿部軍医殿は居られますか。」 誰かの呼ぶ声が聞こえた。    
「居るよ、僕だけど・・・・。」
「今、軍医殿の奥さんや子供さんたちが、あちらに来ています。」
「ウウッ、来たか、そうか!」私は危うく車から落ちそうになった。
 車内が狭いので、妻と小さな子供だけ私の貨車へ、上の子供たちと恵美子は、すぐ後ろの車へ分乗した。 ああ! 何たる幸運ぞ! あたかも家族らの乗車を待っていたかのように、汽車は動きだした。後に未だ幾千万の人々を残して。
 
 駅を幾つか過ぎて、其処に見る景色は余りにも平和な、まるで別世界のような、和やかな人々の営みであった。駅毎に住民の示す、我等軍隊に対す好意と信頼は、敗戦の今も、湯茶、食物、酒の接待となった。
 我々にそれを受ける資格が有ろうか? 住民達は未だ何も知らないのである。彼らの生命と財産を守るべき軍人が、全く無力に成って敗走して居る事を、今なお知らずに協力して居るのである。
何と言う無責任、何と言う卑怯者、私は彼ら住民達の信頼を裏切った後ろめたさと共に、慙愧の念に浸り、自己への憤が体中から溢れる様に感じていた。

 やがて樺太の長い夏の日も暮れて、又、冷たい雨と成った。列車は是からの前途を暗示するかのような 暗黒の闇の中を、南へ南へと走り続けた。  
(上敷香篇終)

2. 豊原篇 (原稿紛失)
  (内容)  豊原空襲・停戦・武装解除・虜囚・その他


(抜粋編集・文責 阿部彰)
                         

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