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航空技術将校手稿 
「燃えつきた青春」
宮部勇武著


一部掲載

これは元陸軍技術大尉だった宮部勇武さんが1997年、
「いかなる理由あっても、2度とこのような戦争をしてはならない」
との思いからご自分の戦争体験をまとめ自費出版にて発行したものです。

宮部勇武さんのご家族の許可を得て、ここに一部を転載致します。
(掲載予定ですが、今しばらく御待ちください。)
著作権は宮部勇武夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

まえがき
戦争体験のない皆さんへ

 皆さんの一番大きな疑問は「なぜ、日本は侵略戦争を始めたのか」、又「なぜ占領地民族の苦痛を考えなかったのか」ということだと思います。その回答は簡単ではありませんが、その概略を述べましょう。

 徳川幕府時代、日本は鎖国を実施し、違反者は厳罰に処したので海外事情にうとかった。明治時代に入り、開国をした日本は世界情勢の推移に驚いた。イギリスはインド、ビルマ、マレー、シンガポールを侵略、領土し、アメリカはフィりピン、フランスはベトナム、オランダはインドネシア等を侵略し領土としていた。彼らはその領土から多くの資源を奪い取り、膨大な富を国家に蓄積していた。さらに、イギリスは香港、オランダはアモイ等を租借し、列強は上海に中国の管轄権の及ばぬ租界を作り、そこを貿易の拠点としていた。又ロシアはヨーロッパ、中央アジアを侵略し、領土拡張を図り、さらにはアジアに手を伸ばし、遼東半島を租借し、大連に将校、旅順に軍港と砲台を構築し、縦貫鉄道を完成して、要所、要所に軍隊を駐留した。次に狙われるのは日本である。日本は国運を賭して日清、日露の戦いを勝ち抜き、中国におけるロシアの権益を引き継ぎ、列強の仲間入りをした。その間、台湾、サハリンを領有し、朝鮮を政治的に併合した。

 これらの時代は弱肉強食の戦国時代で、国家の利害が最優先されたのである。日本はさらに、ロシアの南下を防ぎ、資源の確保と民族の発展を期して、中国東北部に日本軍を後ろ盾にした満州国を設立した。これが有名な関東軍の仕業である。当時満州では馬賊が横行して治安が悪く、農民は部落の防衛に困っていた。関東軍は徹底した馬賊討伐を行い、治安の回復を図った。しかし、満州は農産物以外の資源に乏しく、そのうえ、ロシアと長大な国境を接しているため、紛争が多く、警備上では重荷であった。
 
 当時、石油の開発が進んでいなかったので、石炭がエネルギーの主力と考えられていた。華北の石炭資源はすでに開発が進んでおり、世界有数の資源供給地であった。華北の資源を制する者は世界を制するとまで言われた。この資源を開発する権益を得るために、あらゆる手を打ったが、激しい抗日運動に巻き込まれ、ついに華北五省に軍隊を進め、資源の確保を図った。

 列強はこの事態に対し、国際連盟を通じ、満州の解散と中国からの撤兵を日本に要求した。日本はこの勧告に従わず、国際連盟を脱退し、己の道を進むこととなった。列強はさらに、石油、鉄鋼ならびに資材の対日輸出を禁止し、日本人の入国を禁止し、在外資産の凍結を実施した。これは宣戦布告なしの戦争状態である。
 
 アジアにはボルネオ、スマトラ等に大量の石油が産出するが、日本には一滴の石油も分けてもらえなかった。
 
 この時代に戦争・経済の危機を訴える多くの為政者がいたが、力及ばず、軍閥はこの時期を利用し報道、教育、産業、経済の実権を掌握し、戦争に駆り立てた。又軍閥は天皇を頂点とした統帥権を確立し、天皇の認許を得て、誰も反対できないようにし、その実施を憲兵隊に監視させた。かくて誰も異議を唱えられない軍閥の統帥権が暴走しだした。

 このまま推移すると、日一日と蓄積を食いつぶし、経済も軍備もジリ貧に陥り、はては国家百年の計も瓦解し、降伏せざるを得なくなる。そのとき、燃料の備蓄は2年分しかなく、作戦を始めると1年で底をつくことと思われていた。

 日本大使のアメリカとの平和交渉に一縷の望みをかけていたが、やがて日本は参るだろうと考えていたアメリカは、次々に難題を押しつけ、交渉は決裂に向かった。

 そこで、南方の資源を確保してこれに対抗せんとする主戦派軍閥が慎重派を排除し、統帥府の主力となった。しかし昭和天皇は常に平和主義であったし、海軍指導者は世界の情勢に通じた慎重派であったので、事態は紆余曲折を辿った。

 そのとき、憲兵司令官で、かみそり東条の異名をとった東条大将が首相件陸軍大臣となり、主戦派軍閥を統合し、統帥府の慎重派を説得し、天皇に決断を迫った。天皇は海軍側に下問された。海軍側は「やれといわれれば、1年間は大いに暴れてみせますが、あとは分かりません」と答えた。アメリカとの交渉に望みをかけていた天皇も、決裂を見て、今はこれまでと開戦に同意された。

 かくして侵略戦争の幕は切って落とされた。日本は自国の生命であるエネルギーや資材を得るため、国運を賭けて戦った。いずれの国でも、自分の生命を守るための戦は許されるとしても、議会や民衆の意向を無視した統帥権の暴走は許すことはできない。

戦争が始まれば、多くの兵士の生命が失われるので、戦場となった国々の民衆のことなどは考えていられないのが実情である。戦争の最前線では、将兵は理性を失っており、いかなる戦争にも付き物の、残虐行為は避けられなかった。いずれの国も同様である。

 この第二次世界大戦が終了して、五十数年が経過したが、ロシアの東欧、アフガンに対する侵攻、イスラエルと周辺国の戦争、イラン・イラク戦争、イラク・国連軍戦争、チェコの民族戦争、南北朝鮮戦争、アフリカ各地の紛争等戦争の勃発は枚挙に暇がない。

 これらの戦争は、国境争い、思想の違い、国連憲章違反、民族・宗教の違い等が原因であるが、人が人を殺害するという愚かな行為は当分止まるところを知らない。人間という動物の持って生れた業の深さを思わざるを得ない。

 この五十数年の間、外部からの干渉を受けることなく、まったく平和に過ごしたのは、日本だけかもしれない。この貴重な平和は先人の汗と血潮で築かれたことを想起したい。
 
 欧米の牛は、酷使されて動けなくなると座り込んでしまう。日本の牛は、まだすこし野生が残っており、酷使されると当然角を振り立てて人を襲うのである。この動物の習性の差は人間にも存在する。アメリカは経済で日本を締め上げれば、やがて動けなくなり降参すると思い、高をくくっていた。日本は苦し紛れに一か八か牙を剥いて噛みついた。

 人類の思想の差に基づく行き違いが戦争の悲劇を生んだとも言うことができる。その結果、膨大な敵味方の将兵が命を失い、戦場となった多くの民衆が戦火に斃れ、甚大な被害を被った。いかなる理由があっても、二度とこのような戦争をしてはならない。

                                                                          著者

    平成9年12月24日 門土社発行 
    「航空技術将校手稿 燃えつきた青春」元陸軍技術大尉 宮部勇武著より転載

      Copyright (C) 1997 Miyabe Isamu All Rights Reserved


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