内容紹介
内容については私も現在読んでおりませんので、ご紹介いただきましたT様からのメールを掲載することによって内容紹介とさせていただきます。
(T様からのメールです。)
掲載に当たってはご本人の許可を得ております。
無断転載・無断転記はできません。ご了承ください。
2002年3月5日に頂きましたメールと、10月8日に頂きましたメールより本文を転載させて頂いております。
『こんにちは、本を出しましたので記事をのせてください。
著書名:山本五十六の誤算
著者:高澤 豊治 75才
出版社:文芸社
初版発行日:平成14年3月15日
全国の書店で発売中です。お近くの書店にない場合はどこの書店からも注文が出来ます。
本の内容
真珠湾奇襲を招いた外務省役人の怠慢。今もガダルカナルに出る日本兵の亡霊を見て。
ずっと戦争の続いていた頃の日本の事を若い人々に伝えたい。60年前、戦場に遭遇した少年が書いた本です。
著者は、世界中を巡る仕事を退職した後、脳梗塞に倒れ、あと余命わずかである事を知った時、人生を振り返り、残された命の時間を使い、自分は何を伝えなければならない、残していかなければならないかというメッセージを、コツコツとワープロに向かい、脳梗塞で半身不自由になる中で、指1本で原稿を書き溜めました。
それは著者が少年の頃、ずっと戦争の続いていた日本の事を若い人々に伝えたい〜歴史は繰り返すからです。現在、世界や日本はまたいつ戦争に捲き込まれるかわかりません。今までは日本は戦争に暫く参加しなかったというだけで、これから近隣や同盟国の戦争にいつ、あなたが行くことになるかはわからないよ。
著者は、戦争に行く年代ではありませんでした。徴兵にはかからない少年だったのに、飛び級で学校を早めに終了してしまった(昔は学校の勉強内容を習得すると、決まった年齢より早く学校を卒業できた)ので、当時の大会社に就職し、憧れの外国に行ける仕事に就きました。
当時日本は、アジアを舞台にいろいろな場所で、戦争を10年も続けていた時代だったので、仕事で配属されたのは日本の領土だった国々に物資を運ぶ仕事でした。 広島配属になり、物資を運びに外国に出発した一週間後に、原爆が投下され、帰ってきた時には風景は全く変わりはて、広島で知り合った知人は皆亡くなってしまった体験をしています。
戦況もどんどん悪くなり、終戦近くなって中国、韓国に物資を運んだ時には、軍隊に捕まり 「お前らも日本人だから一緒に爆弾を抱えて明日突撃しろ」 と特攻を命令されました。 「俺は兵隊でもないのに、こんなにまだ若いのに明日死ぬのか〜。もう服も何もいらなんだから、雨風を凌ぐのに役立ててもらおう・・・」と、道端をどんどん荷物を抱え、逃げてゆく韓国人に服や物はあげたと言います。 そして翌日に、終戦が決まり、特攻しなくてもよくなり、数時間の差で命は助かりました。 ところがそこから日本に帰るのには、交通手段もなく、何ヶ月も食料、水もなく山や荒野を歩き続け・・・・・・よく遭難や、漂流した人が1週間飲まず食わずで、死にそうな状態になって救助されるけど、それが6ヶ月も続くんだよ!体はボロボロになって、港に出てようやく日本に帰る船に乗れました。家に帰っても何ヶ月も療養しなければ歩けなかったと言います。 その後も、まだ数百万人の日本人が中国、韓国に日本に帰れず残っていることを見知っていたため、もう一度中国、韓国方面に戻り、使命としてその引き上げの仕事に関わったといいます。
著作を執筆中に、NYのテロ事件が起こり、アフガニスタン紛争になった時も、日本から派兵するのかどうかを毎日心配していました。国の方針で参戦する、しないを決められたら、実際に戦地へ行くのは、一人一人の、親、兄弟、家族の有る若者だからです。 そして日本が派兵しないことが決まった時には、これで多くの人の命が失われずに済むと喜んでいました。
そういう一人として、60年前、戦場に遭遇した少年の立場から書かれた本です。兵隊で戦争を体験された方の本とは違う立場で書かれていると思います。その原稿を仕上げた時点で、倒れ、今年の一月、亡くなりました。
故 高澤豊治の略歴 |
・ 昭和ニ年生まれ。五井小学校、南総中学校、旧制電気通信大学を卒業。 |
・ 昭和一九年八月 日本郵船株式会社入社、軍事輸送船にて南方戦場往来。 |
・ 戦後は、復員輸送船に勤務、何十万人もの日本人引き上げを使命として行う。復員後、神戸商船大学入学、卒業。その後、電気通信大学入学、卒業。 有線放送会社を設立経営。
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・ 海上保安庁巡視船「宗谷」にて南極に行く。 |
・ 東京大学海洋研究所に出向。海洋研究船「白鳳丸」にて太平洋、大西洋他七洋の数多くの国々を巡り、平和を胸に国際親善に努め、数々の友人を各国に作りました。その間、十年間書き溜めた小説「鈴の航跡」(成山堂)を出版。 |
・ 東京大学を定年、退職後は、著書「鈴の航跡」の講演を依頼され、各地を巡ると共に、オックスフォード英会話スクール校長として、幼児から大人までの英会話を指導し、3千人以上の生徒を国際人にと願い、送り出しました。 |
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彼は人生の残りの時間が少ない事を知りながらも、頼まれれば人の用事を先に足し、最期まで人を助ける事に骨をおった、宮沢賢治のような人生でした。
また、社会奉仕活動とも言うべき、表に見える活動ととは別に、個人としていつも、片親や両親を早く亡くされた子供達に、援助をしていました。こづかいやプレゼントを良くもらったと、多くの青年がお焼香に見え、そんな一面を知りました。
戦前、戦中は、千葉、東京、横浜、広島に住み、戦後は東京、千葉、北海道に住んでおりましたし、日本各地に多くの友人がいます。
よろしくお願い致します。
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