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『おちこぼれ戦争史』
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著者 |
岩崎晋也 |
発行者 |
福山琢磨 |
発行所 |
(株)新風書房 |
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大阪市天王寺区東高津町5−17 |
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TEL06−768−4600 |
発行日 |
1995年8月15日 |
印刷所 |
(株)新聞印刷出版事業部 |
価格 |
定価1500円(本体1456円) |
223頁 |
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ISBN |
4−88269−312−7 |
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目次 |
序文 |
ご夫妻、二人三脚の力作 |
ノンフィクション作家 |
杉原美津子 |
説得力ある文章 |
浜松「自分史研究会」 |
杉原荘六 |
第一章 太平洋戦争 |
一、終戦の詔勅 |
二、開幕 |
三、学徒兵 |
四、植物採集旅行
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出発 |
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磐梯山登山 |
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甲州館 一 宴会 |
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津波坂 |
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甲州館 二 性と生 |
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五色沼と檜原湖 |
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漢方 |
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死後の世界 |
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五、大学研修生 |
六、徴兵検査 |
七、戦時研究員 |
八、青木少尉 |
九、じゅうたん爆撃
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軍需工場の爆撃 |
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都市の焼夷弾爆撃 |
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焦熱地獄 一 |
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焦熱地獄 二 |
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十、食糧難 |
十一 首都脱出 |
第二章 戦後 |
一、焼土 |
二、石田三郎の話 一 |
石田三郎の話 二 |
三、石田三郎の終戦 |
四、伊藤大介 |
五、逆転 |
六、天皇の軍隊 |
七、殪れて後に巳む |
鴻毛 |
注釈
記述や用語について
引用文献
参考文献 |
あとがき |
私の内容紹介
この本にでてくる岩田哲也は、著者である岩崎様ご自身のことです。岩崎様が戦中・戦後を通して記録していた克明な日記を基に書かれたものがこの本です。創作ではなく、事実としてあったことです。
”昭和16年4月に岩田哲也は帝都薬学専門学校に入学し、学生生活が始まった。しかし支那事変以来中国大陸での戦争は長引いており、国民の生活にも徐々に影響が出始めていた。専門学校は在学年限を3年から2年半に短縮された。(4月卒業が9月卒業に繰り上げられた。)そして昭和16年12月米英との戦争がはじまり、それはさらに大きな影響を生活に与えていた。学校でも厳しい軍事教練の時間が増えており、学校生活そのものも次第に戦争一色になっていく。学生にも徴兵猶予制度の取り消しなどにより軍隊に入り戦場へ送られるものも出てきていた。哲也はまだ兵役年齢に達していないためまだ軍隊入隊は無かったが、学校の学友の中には徴兵検査を受けたものが出てきていた。
そんな状況下、学校の植物班に属していた哲也達は学生時代最後の夏休みを会津磐梯山の植物採集旅行に出かける計画を立て、教授ほか18名が参加した。上野駅から夜行列車に乗り会津磐梯山麓の押し立て温泉を目指す。そして早速磐梯山への登山をはじめ、途中の植物の教授の講義などを聞きながら1日を過ごし、夕刻旅館に入る。そこで酒を飲みながらの宴会が始まる。青春真っ盛りの若い集団、そして徴兵検査を終えたものたちの性への憧れによる女性(仲居さん)との会話などにぎやかな一晩を過ごすのであった。それは戦時中のほんの一服の休憩の時であったのでしょう。三日間の旅行が終わり、一行は東京へ戻った。
新学期になり卒業試験が始まり、そして無事試験も終わり9月20日に卒業した。学友たちはそれぞれ思い思いに散っていった。哲也は卒業後、帝都大学に入り助手として勉学を続けることになった。しかし、昭和18年12月徴兵年齢が満20歳から満19歳に切り下げられたため、哲也も対象となり昭和19年4月徴兵検査を受ける。その結果丙種と決定されたが、哲也自身は召集を免れた安堵感と検査官より非国民と呼ばれた不甲斐なさとが交錯し複雑であった。
昭和19年秋、大学をやめて渋谷の研究所に移った。このころから少しずつ米軍機による空襲が激しくなってきた。昭和20年3月の大空襲、そして5月25日の夜の大空襲。哲也はこのとき宿直のため学者の成川とともに研究所に残っていた。激しい空襲のため研究所も危なくなり、とうとう逃げ出した哲也たち。激しい火災の中ガード下に逃げ込んだ哲也たちは、そこで地獄のような光景を見るとともに自分たちもあわやという事態に遭遇したが、破裂した水道管の水によって九死に一生を得たのであった。その後一面焼け野原と化した東京での生活はつづき、食糧難にあいながらも研究所通いをしていた。そして8月。終戦を迎えた哲也は故郷の清水にもどった。
昭和21年6月上旬、哲也の学友であった伊藤大介二等兵の元上官の石田少尉が静岡市の伊藤の実家を探し当て訪れた。そこには母親のたまがいた。そこで石田は伊藤二等兵に命を助けられ、復員できたことを母親に話し始める。フィリピンセブ島、レイテ島での軍隊・戦場の様子を詳しく語り、帰っていった。きっと帰ってくると信じていた母親は息子の詳しい様子を知り、たぶん戦死したのではないかと思い号泣したのであった。
岩田が伊藤の実家を訪ねたのはその後の6月半ばであった。そこで彼もはじめて母親から石田少尉の事を聞き、戦死したのではないかと知ったのであった。しかし母親は今も陰膳を供えて帰ってくるのを待っているようであった。それを見た岩田は返す言葉を失ってしまった。そして伊藤が読んだ俳句をかみしめるように詠み、手帳に書き写すのであった。
どんなに無念なお思いで果てただろうかと思い、涙を流すのであった。”
戦闘には直接参加しなかったが、過酷な空襲を経験し悲惨な戦争というものを知った人が書いた真実の記録ほど、訴えるものは無いと思います。特に当時の徴兵検査で丙種というどちらかというと兵隊失格の烙印を押されたときの著者の心には相当な葛藤があったろうと思います。当時の戦争一色の中での検査官からの非国民呼ばわりは相当こたえたのではないでしょうか。通常で考えれば体格的な問題は本人だけの問題ではなく生活環境によってやむを得ない場合もあるはずですが、兵隊になってあたりまえという感覚はやはり異常な時代の産物だったと思います。
そのあたりのことは著者である岩崎さんはあとがきのなかで次のように語っております。
「当時の若者が現役として軍隊に入れないということは日本男子として、たいへん恥ずかしいことでありましたが、現役には入れずに、丙種となった青年の心の葛藤と、彼が遭遇した戦時下の国内の様子、また、国に命を捧げよと言われて、教育されて来た若者達が、当然そうとは思っていても、捨てきれない生への執着、戦争と生と死に対する若者達の心の悩みなどが、読まれる方々にいくらかでも理解していただければ幸いと思います。」
(了) |
注意
1.
こちらは静岡県清水市にお住まいの岩崎様よりご寄贈いただいたものです。
入手は難しい貴重なものです。岩崎様有難うございました。
寄贈いただいてからホームページでの紹介まで相当な日月を要してしまいました。遅くなりましたことを岩崎様にお詫びいたします。
2.
こちらの本は、
自費出版のためお求めは難しいものと思われます。御了承ください。
3.
私の内容紹介は、管理人が記載しております。文責は管理人にあります。
4.
本の内容紹介で本の表紙を掲載しておりますが、これは私が皆様に情報提供する場合に、少しでも詳しく知っていただくために私の所蔵しております本の表紙から写しております。本来なら全ての発行者及び著者の方に許可を頂かなければいけないと思いますが、出来る限り本の詳しい情報をお伝えしたいという私の考えから現在のところ許可を頂かずに掲載をしております。但し、本の発行所・発行者・編集者・著者・印刷所・発行年月・ページ数・表紙題字揮毫者・イラスト作者等その本に関してわかる限りのデーターを掲載するように注意しております。本の表紙写真のみの掲載はしておりません。
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