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自費出版・共同出版・企画出版本の内容紹介
  

『玉砕の島への道-運命-』
著者    大塚楠雄
       藤岡市岡之郷475−4

制作    あさを社
       高崎市乗附町1854−59
       Tel 0273−27−1161
発行年月 昭和62年8月15日発行 
本体価格 頒価2,500円

目次
第一部 運命の岐路
  令第七条志願兵、憧れの入隊、下士候試験に合格、佐伯式下士官候補教育、豊橋陸軍教導学校、試験地獄、帰省、2・26事件、伊勢神宮参り、栄えある卒業、再度の帰省、軍法会議を免れる、再び初年兵を迎えて、軍隊の天国、通信競技会で優勝
第二部 支那事変従軍
  支那事変従軍概要図、動員下令、初陣に無線通じず、南苑柳営入城、大行山麓を征く、娘子関の堅陣を突破、戦場に正月を迎える、大黄河を目指して、幻の閻錫山を求めて、運城敵の重囲に陥る、再び連枝山山脈に入る、別離、わが分隊の成果、栄えある感状中隊に、遺書を懐に前線へ、初陣小隊長の突撃、遂に攻撃頓挫、垣曲を目指して、敵の七・七記念日、共産軍の本拠地へ、安高原の警備、凱旋の感激、戦地帰りの慰労休暇、屯営で迎えた軍旗祭、慌しい結婚、胸に輝く金鵄勲章、曹長が連隊長に出動命令、
第三部 東部ニューギニア作戦従軍
  東部ニューギニア作戦従軍概要図、第十二中隊付きを命ぜられる、長男の誕生、玉砕の島への門出、護国丸に魚雷命中、ガ島行き中止ニューギニアへ、飛行場設定作業、前進する基地、東洋人未踏の地へ、フィンシ行きを断る、再びクラウへ、ラム河峪に敵を求めて、敵監視哨を撃滅、命まで奪った野生の豆、 カテカ付近の戦闘、またも敵弾を弾き返す、小隊長代理となる、半減した中隊 兵員、明後日四時までの生命、またも転進死地を脱す、永らえて西山へ、鈴川 河峪に布陣、死闘の二日間、報われざる死闘、勝利の記録、フィンシの戦闘の結末、災禍を切り抜ける、ガリの山越え、地獄図絵、ハンサを目指して、補充員の到着、大セピックを渡る、運命の神我を見捨てず、旧友との邂逅、人減らしか?猛号作戦、未発に終わった将校斥候、総攻撃いつか 防御に、敵陣に迷い込む、敵さんの贈り物、あゝまたも転進命令、惨憺たる敗北、遂にマラリヤ発病、現地人に養われる、NO.3モンブックへ、再び海岸警備隊へ、十国峠の戦闘、北獅子山の完敗、十国峠を放棄する、豚を求めてモンブックへ、8月まで生き延びよ、最後の出撃、玉砕命令下る、最後の5分間、停戦命令今だ届かず、歩七九の終焉、大命に基づく捕虜、降服地点に立つ、作業隊に編入さる、捕虜第6422号、捕虜の体験、再びムッシュ島へ、土産物騒動、戦犯部隊に指定される、戦犯部隊解除、復員船鳳翔、生きて故国の土を踏む、残務整理班勤務、
原因別兵員損耗表
あとがき
私の書評
 運命とは、存在するのでしょうか? 戦場での生と死は紙一重と言われますが、それは運命の為す業なのでしょうか? 著者も本書の中で幾度となく運命の事を述べています。
 著者は、支那事変に従軍ののち、太平洋戦争勃発後昭和18年1月、すでに敗退を続けている南方戦線のガダルカナル島へ出発するが、途中で中止となり、ニューギニア島へ上陸する。ここでも運命が働いていると著者は言います。”若しガ島へ行っていれば玉砕間違い無しであるから、これで少しはいのちが永らえた”と…。結果的には、ニューギニア島でも玉砕命令が出たため、著者の言う運命は別の方向で死に向かっていたのです。
 しかし私が思うに、この時点(昭和18年)で既に兵隊達は南方戦線の行く末をある程度感じていたにもかかわらずなぜ従容と戦地へ向かったのでしょうか? ここが現在平和しか知らない私達が単純に考えてしまうところです。私達は拒否すればいいと思います。でもそれは当時はできなかったのです。兵隊に拒否という言葉はありませんでした。命令があればどんな危険なところへでも、どんな危険な作業であっても従わなければならなかったのです。これが当時の軍隊の、そして国民の当たり前の感覚だったのです。天皇のため、国のためという大義が小さい時から教育されていたのです。平和の中の生活をしている私達は、幸い現在の教育は民主主義にのっとった考えでされていますから、当然戦争当時の事には違和感があります。これは私達に昔の事を理解しろといわれても理解できない事の根本の問題だと思います。しかし、だからといって”戦争は過去の歴史だ”というだけで、なにも考えないことは許されません。
 平和の礎となった人達があったからこそ、今私達は暮らしていれるのです。それを勘違いしてはいけないと思います。あの戦争のことをもっと知り、なぜ戦争が起きたのかを考えていかなくてはならないのです。そして二度と悲惨な戦争を起こさないように国民みんながしっかりとした意識を持たなければいけません。

 著者は当時の教育を受けた軍人です。当然戦争になれば戦いに出て敵と戦うのです。手記にも述べていますが、自分の命を守るには相手を殺さなければなりません。殺さなければこちらが殺されてしまうのです。そういう極限の中を生きてきた人を私は否定しません。でも文章の中に二ヶ所ほど敵を倒す場面の記述がありましたが、非常に生々しい描写でした。文章そのものはその部分が誇張されているわけではありません。私の感じ方なのだとおもいますが、戦争体験者の手記をいろいろと読ませていただいた中で敵を倒す場面というのはあまり具体的に記述されていません。ですからこの本の記述には正直言って驚きました。読みすすめていく中でこの二ヶ所の部分で私はしばらく文を読み返したほどでした。戦争を起こせばこのようなことは当たり前なのでしょう。でもこういう記録は作家が書いたのではなく、一戦争体験者が書いたのです。その事実は非常に重いものがあります。現実としてあったことなのです。ここの部分を戦争をかっこ良いと思う若い人達に読ませたいと思いました。

 本の紹介が少し横道にそれてしまいました。著者がたどった人生の中で戦争時代の軍隊は青春そのものだったでしょう。昭和の10年代から20年代を過ごした多くの人達はそのように回想しています。本誌の記述は昭和6年満州事変が起きた頃から終戦後の昭和21年残務整理班を退官されるまでの記録です。そこには、当時の世相や生活から、運命をいやというほど感じさせられた軍隊での生活まで等体験者ならではのことがくわしく綴られています。当時を知る(戦争の実態など)には最適な本だと思います。特にニューギニアでの体験記は、著者が生きぬいてこれたのは何かと言う事を考えさせられます。運命が左右しているのかもしれませんし、著者の生きぬくんだという姿勢なのかもしれません。現地の人にひどい事をした兵もいました。いざ戦いとなると何時の間にかいなくなる指揮官もいました。でも著者は自分を信じて戦いにもで、現地人とも信頼の関係をつくり部隊のためにと行動したのです。結果的にこれが運命を切り開いたのではないだろうか。

 しかしこの体験を淡々と記述し、本を残そうと考えた著者の心境はいかばかりであろう。多くの戦友がたおれ、傷ついた中で数少ない生存者の一員として帰国した著者が、戦争で亡くなった人たちへの鎮魂歌として記録を残そうとしたことには、深い悲しみと二度と戦争はごめんだという強い思いがあったと思います。

 本書は著者がつけていた日記と記憶を元に書かれたものですが、記述の際には事実関係を確認されています。著者もあとがきで述べていますが、1行の創作も含んでいない事実の記録なのです。最前線での戦いの記憶、そして日記と当時の人は非常にこまめに自分の考えや行動を記録しています。そんな余裕がどこにあったのだろうかと思いますが、当人達にとっては楽しみが何もない殺伐とした戦場では、これが唯一の発散の場だったのでしょう。でもこうした日記等の記録が今残っているために私達は当時を知ることができるのですから、貴重な歴史の記録です。

 自費出版ホームページの管理人であります筑井さんより、戦争の手記の本の感想及び紹介をぜひ書いてくれといわれまして、私が書けるだろうかと悩みました。でもこのような自費出版での戦争体験者の記録はなかなか人目につきません。貴重な記録をもっと多くの人に見てもらうためにも紹介をしてくださいといわれまして、私の拙文でよければと考え少しずつならという条件で受けさせていただきました。今後どうなるかわかりませんが、私の考えた事感じた事を中心に書いていこうと思います。ぜひ率直なご意見・ご感想を頂ければと思います。
この私の書評は、自費出版ホームページさん主宰のメルマガ「My Book」に掲載予定です。

申込先
あさを社  高崎市乗附町1854−59
       Tel 0273−27−1161
発行年月 昭和62年8月15日発行 
本体価格 2,500円
平成11年11月25日現在残部が2冊あるそうです。
お早めにどうぞ。


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