牧水の歌碑 | 其の他の歌碑 |

調べてみると、私の住む沼津近辺(静岡県の東部)に若山牧水の歌碑が、意外と多いことがわかりました。ここでは、実際にその場所に行き、歌碑の写真、場所、内容などを載せていきます。
また、近場の花見其の他でたまたま出会ったり、目にした歌碑があれば、それも同様に載せていき、少しでも歌を作るうえでの糧になればと思います。

||沼津悠々(短歌)に戻る||

牧水の歌碑

N001 千本公園

幾山河

N002 香貫山 香貫山
N003 本城公園 天地の
N004 裾野市民文化センター より来り
N005 裾野中央公園 富士が嶺や
N006 三嶋大社 野末なる
N007 松崎 岩地海岸  山ねむる
N008 松崎 牛原山町民の森 幾年か
N009 牧水の墓(乗運寺) 聞きゐつつ
N010 土肥 松原公園-1 花のころに
N011 土肥 松原公園-2 ひそまりて
N012 土肥 土肥館 わが泊り
N013 土肥 (恋人岬)富士見遊歩道 ひとみには
N014

静岡県伊豆市湯ヶ島 西平神社

山ざくら
N015 市立富士山資料館(裾野市十里木) なびき寄る
N016

伊豆畑毛温泉柿沢川河畔

長湯して
N017 御浜岬(戸田) 伊豆の国
 N018  七面山登り口(羽衣) 山襞の 
 N019  景ヶ島(裾野)  この渓の

N001 千本公園

幾山河
こえさりゆかば
寂しさの
はてなむ国ぞ
けふも旅ゆく

[戻る]

N002 香貫山

香貫山
いただきに来て
吾子とあそび
ひさしくおれば
富士はれにけり

[戻る]

N003 本城公園

天地の
こころあらはに
あらはれて
輝けるかも
富士の高嶺は

[戻る]

N004 裾野市民文化センター

より来り
うすれ
てきゆる
みな月の
雲たえまなし
富士の山べに

[戻る]

N005 裾野中央公園(五竜の滝)

富士が嶺や
すそのに来り
仰ぐとき
いよいよ親しき
山にぞありける

[戻る]

N006 三嶋大社 

野末なる
三嶋のまちの
あげ花火
月夜の空に
散て消ゆなり

[戻る]

N007 松崎 岩地海岸 

山ねむる
山のふもとに
海眠る
かなしき春の
国を旅ゆく

松崎の那賀川沿いの桜、花田及び二十一世紀の森などを見物したついでに

[戻る]

N008 松崎 牛原山町民の森

幾年か
見ざりし草の
石菖(せきしょう)の
青み茂れり
此処の渓間に

牧水の歌碑の近くに上記の歌碑がありました。
文字が読めず、後日調べるため、べく載せています。
[戻る]

N009 牧水の墓(乗運寺)

聞きゐつつ
たのしくもあるか
松風の
今は夢とも
うつつともきこゆ

[戻る]
N010土肥 松原公園-1

花のころに
来馴れてよしと
おもへりし
土肥に来てみつ
その梅の実を

平成23年6月3日土肥の松原公園、温泉、海岸を訪れたときに、以下の4箇所を撮りました。
近くに大場美夜子の句碑、赤木 の歌碑があります。

N011土肥 松原公園-2

ひそまりて
久しく見れば
とほ山の
ひなたの冬木
かぜをわぐらし


N012 土肥 土肥館

わが泊り
三日四日へいき
ゐつきたる
この部屋に見よ
冬草の山

牧水荘 土肥館入り口に歌碑があり、右隣は喜志子の歌碑が並んでありました。
喜志子の歌碑
蛙なき
夕さりくれば
かえらまし
かえらましといふ
吾子つれてきぬ
N013 土肥 (恋人岬)富士見遊歩道

ひとみには
露をたたへつ
笑むときの
丹(に)の頬のいろは
桃の花にして

[戻る]

NO14伊豆湯ヶ島 西平晋神社

歌碑

解説

うす紅に 葉はいち早く もえいでて さかむとすなり 山ざくら花

吊橋の ゆるるあやふき 渡りつつ おぼつかなくも 見し山ざくら

瀬ゝ走る やまめうぐひの うろくづの 美しき春の 山ざくら花

山ざくら 散りのこりゐて うす色に くれなゐふふむ 葉のいろぞよき

とほ山の 峰越の雲の かがやくや 峯のこなたの 山ざくら花



井上靖の墓へ行く途中の西平神社にあります。
どうしてここにあるのか解りません。
歌集「山桜」より、選者である大吾法 利雄が五首選んだそうです。上記の文字がよく読めません。
[戻る]
N015 裾野市十里木市立富士山資料館

なびき寄る
雲のすがたの
やはらかき
けふ富士が嶺の
夕まぐれかな

平成23年7月9日
久々に千福より24号線で須山に出、469号線で富士宮方面にドライブを予定しましたが、こどもの国あたりから霧が濃くなり、断念、富士山資料館に牧水の歌碑があることを思い出し、写真に収めました。

[戻る]


N016 

伊豆畑毛温泉柿沢川河畔

長湯して
飽かぬこの湯の
ぬるき湯に
ひたりて安き
こころなりけり

静岡県田方郡函南町畑毛117番地伊豆畑毛温泉柿沢川河畔
歌碑の場所は非常にわかりにくかった。

熱函道路を熱海方面に向かい函南役場を畑毛温泉方面(分かれ道の交差点)に右折します。県道136号線の畑毛温泉のタクシー乗り場の所を右折すると(大仙家まで行くと、行き過ぎです。)畑毛排水機場があり、その横です。柿沢川の手前でした。
左の写真は、歌碑の後ろの柿沢川の風景です。

[戻る]

N017御浜岬(戸田)
平成23年11月13日達磨山登山の帰りに寄る

伊豆の国
戸田の港ゆ
船出すと
はしなく見たれ
富士の高嶺を

N018七面山登り口(羽衣)

   平成29年6月7日七面山の下見にでかけ
羽衣の登山口に偶然歌碑を見つける。
赤川の宿があり身延往還の宿場町として栄えた街並みの景観に、歴史の重みを感じる石畳みと春木川渓谷。
若山牧水が大正13年七面山への道中に詠まれた31首が歌集(黒松)に収録されているとのこと。

 山襞(やまひだ)の
 しげきこの山 
いずかたの
 襞に啼くらむ
 筒鳥聞こゆ


 
 すぐそばに白糸の滝と御萬の方の像がある

 雨をもよほす 雲より落つる 青き日ざし 山にさしゐて 水恋鳥の声
花ちさき 山あぢさゐの 濃き藍の いろぞ澄みたり 木の蔭に咲きて
   
 

[戻る]

N019 景ヶ島(裾野)

  静岡新聞
 第42回裾野牧水祭(裾野市立鈴木図書館短歌会など主催)が10日、同市の景ケ島公園で行われた。新しく建立した市内6基目となる牧水の歌碑を披露した。
この記事を目にして9月17日訪れる
出来立てのほやほやの歌碑 場所は景が島公園の駐車場を南に下った交差点の一角
(屏風岩のところ)

 この渓(たき)の
岩のかたちぞ面白き
根をゆく水は
痩せて澄みつつ

 
   場所は「もののふのさと葛山」の景ヶ島で紹介
 

   

[戻る]

其の他の歌碑

N101 大中寺(夢窓国師の歌) さかりほは
N102 千本公園 (昭憲皇太后陛下の歌) くれぬまに
N103 裾野葛山 依京寺(西行の歌) ひさたえて
N104 柿田川 (利雄) 太古より
N105 河津 来宮神社 来宮や
N106 千本公園 明石海人 さくら花
N107 富士、岩本山公園 竹久夢二 富士川や
N108 白糸の滝 (源 頼朝) このうえに
N109 若山牧水家の墓(乗運寺) 乗運寺の
N110 土肥 松原公園 島木 赤彦 土肥の海
N111 浄蓮の滝(踊子歩道) 穂積 忠 春もやゝ
N112 三島市桜川 穂積 忠 町なかに
N113 三島市桜川 窪田 空穂 水底に
N114 三島市桜川 藤岡 武雄 我が庭に
N115 河津七滝 万葉集 7巻 71142 命をし
N116 さった峠 万葉集 磐城山
N117 田子の浦 山部赤人 田子の浦ゆ
N118 湯ヶ島 弘道寺 あしひきの
N119 箱根 強羅公園 斉藤茂吉 おのづから
N120 忍野八海 ふじの根の
N121 大瀬崎 与謝野鉄幹 ふねを捨て
N122 照江寺 たずねゆく
 N123  足柄万葉公園  足柄の
 N124 箱根(十石峠)源実朝   箱根路を
 N125  元政上人埋髪塚  いたずらに
 N126  海蔵寺 底抜(底脱)けの井  千代能が
 N127  与謝野晶子 大仏殿 かまくらや 
 N128  須山浅間神社 道興准后  よそにみし
 N129 狩宿の下馬桜 徳川慶喜  あはれその 
 N130  富士山本宮浅間神社 湧玉池 平 兼盛  つかふべき
 N131  富士市の広見公園  万葉集 東歌  あまのはら
 N132  清見寺 与謝野晶子 龍臥して 
 N133  瑞雲院 与謝野晶子 清見寺 
 N134 梅ヶ島温泉 吉井勇  あめつちの
 N135  熱海さくら 坪内逍遥  ちかきやま
 N136  万座毛 恩納ナビ-  波の声も
 N137 万座毛 平成天皇の歌  万座毛に
 N138  菅原道真 日枝神社(沼津)  こちふかば
 N139  杉原千畝の妻 幸子(千本港口公園)  苦しみに

N101 大中寺(夢窓国師の歌)

夢窓国師の歌
1351遷化。名は疎石、後醍醐天皇からもらった国師号
足利尊氏ある年の春政務多忙のため、盛りの春を見ることが出来なかったときの歌
「花ちりすきて西方寺におはしたりしに」

さかりほは
見る人おほし
ちる花の
あとをとふこそ
なさきなりけれ

[戻る]

N102 千本公園 (昭憲皇太后陛下の歌)

くれぬまに
沼津のさとに
つきにけり
しばしみてこむ
海のけしきを

昭憲皇后は大中寺に9回行啓しているそうです。
 

[戻る]

N103ー1 裾野葛山 依京寺(西行の歌)

ひさたえて
我が後の世を
問へよ松
あとしのぶべき
人もなき身を

依京寺
西行「手植えの松」
N103ー2 葛山城址 

冬枯れに
名のみ残りて
かづら山
まさきもつたも
色ぞ稀なる

葛山館祉 
文明18年 道興准后一回国雑記
N103ー3 仙年寺 「儀同三司の母」の歌

忘れじの
行く末までは
かたければ
今日の限りの
命ともがな

「儀同三司の母」の歌。夫は時の関白藤原道隆。
息子は藤原伊周。この藤原伊周を祖とし、三代後の藤原惟兼が葛山に館を構え葛山姓を名乗った。

N104 柿田川 (利雄)

太古より
この豊けさに
ここに湧く
泉頭に
今日も息呑む

「利雄」(大悟法利雄 だいごぼう-としお )
1898-1990大正-昭和時代の歌人。
明治31年12月23日生まれ。大正7年若山牧水の「創作」にはいる。のち改造社で大橋松平と「新万葉集」「短歌研究」を編集。昭和21年「新道」を創刊,復刊「創作」と合流し,選者となった。平成2年11月26日死去。91歳。大分県出身。中津中学卒。歌集に「伊豆」,研究書に「若山牧水伝」など。
沼津市若山牧水記念館初代館長
 

 若鮎とアマゴの群れが影さして 
いま潅水の釜に近づく

[戻る]

N105 河津 来宮神社

来宮や 神代の昔 偲ばるる
仰ぐわ尊し 樟の大森

御神木
神社前の樟木

[戻る]

N106 千本公園 明石海人


さくら花 かつ散る今日の 夕ぐれを
幾世の底より 鐘のなりくる


ゆくりなく 映画にみれば ふるさとの
海に十年の うつろいはなし

ゆくりなく=(思いがけなく。突然に)

シルレア紀の 地層沓(とほ)き そのかみを
海の蠍(さそり)の 我も棲みけむ

 「明石海人(本名 野田勝太郎)は明治34年(1901)、現在の沼津市に生まれ、駿河湾と千本松原を遊び場に成長した。その後、現・片浜小学校から県立沼津商業高校を経て、静岡大学に学び、卒業後教員となる。しかし、当時業病と蔑まれたハンセン病を発病、妻子と別れ故郷を離れ、療養地を転々とした後、岡山県の小島に建設された国立療養所「長島愛生園」に隔離収容される。
  長島での闘病生活では、ハンセン病の三大受難と言われる知覚麻痺、失明、気管狭窄に襲われながらも文学を志し、歌人としてたゆまぬ精進を続けていった。昭和14年2月、死の瀬戸際に出版された歌集『白描』は、ベストセラーとなるが、同年6月9日、孤高の歌人はわずか37歳の生涯を閉じた。
  この歌碑は、逆境を克服し、偉大なる文学を彫琢した郷土の詩人を畏敬し、病気に根ざす社会の偏見差別を是正するため明石海人生誕百年を記念して、平成13年7月5日に、母校である静岡県立沼津商業高等学校の校庭の歌碑とともに建立されたものである。」
以上沼津市HPより
   
深海に生きる魚のように、自らが燃えなければ何処にも光はない

[戻る]

N107 富士、岩本山公園 竹久夢二

富士川や
たが吹きすさぶ
笛の音ぞ
れいろうとして
身は秋にいる

大正ロマンを代表する画家、竹久夢二(1884~1934年)は岡山県邑久郡(現 瀬戸内市)に生まれ、1905(明治38)年に新聞や雑誌の挿絵から、画家としての道 を歩き始めました。生涯どの画壇にも属することなく独自の美意識と詩情を込めた作品を
歌集 「山へよする」 の 愁人山行 の一首
玲瓏(れいろう)=玉などが触れ合って美しく鳴るさま

[戻る]

N108 白糸の滝 (源 頼朝)

このうえに
いかなる姫が
おわすらん
おだまき流す
白糸の滝

源 頼朝 が詠んだといわれている
(平成23年5月3日)

[戻る]

N109 若山牧水家の墓(乗運寺) 牧水の墓と一緒にある

乗運寺の
鐘にすべてを憩ひしのち
ひとり詣でむ
氷峯カイラス .... 旅人

芽吹き立ち
咽(むせ)ぶばかりの
森の雲
小さき蝶ひとつ
あらはれて消ゆ.... いく子

[戻る]

N110 土肥 松原公園 島木赤彦

土肥の海
漕出て見れば
白雲の
天にかけたり
不二の高根は
長野県諏訪郡上諏訪村角間(現諏訪市元町)に旧諏訪藩士の子として生まれる。長野県尋常師範学校(現信州大学教育学部)を卒業し、教職の傍ら短歌を作る。正岡子規の歌集に魅せられ、伊藤左千夫に師事。

[戻る]


N111 浄蓮の滝(踊子歩道) 穂積 忠

春もやゝ
日かけさひしく
なりにけり
さはわさひ田の
逃水のおと 

1901-1954 大正-昭和時代の歌人。
明治34年3月17日生まれ。中学時代に北原白秋の門下となり,国学院大で折口信夫(おりくち-しのぶ)に師事。昭和14年二人の師にささげた第1歌集「雪祭」で多磨賞,歌人協会賞。昭和29年2月27日三島南高校長在職中に死去。52歳。翌年遺歌集「叢(くさむら)」が刊行された。静岡県出身。
[戻る]
N112 三島市桜川 穂積 忠

町なかに
富士の地下水
湧きわきて
冬あたたかに
こむる水靄

[戻る]
N113 三島市桜川 窪田 空穂

水底に
しづく円葉の
青き藻を
差し射る光の
さやかに照らす

1877年(明治10年)6月8日 -
1967年(昭和42年)4月12日)
は、歌人、国文学者。
日本芸術院会員。
長野県東筑摩郡和田村(現・松本市和田)生まれ。
本名は窪田 通治
[戻る]
N114 三島市桜川 藤岡 武雄

わが庭に
降り積もりたる
白雪は
真向ふ富士の
上までつづく

著者情報 藤岡 武雄 大正15年2月山口県生。
日本大学大学院修了。近代日本文学専攻・文学博士。
日本大学教授(定年)。
日本歌人クラブ会長。
現代歌人協会・日本文芸家協会・日本ペンクラブ会員
[戻る]
N115 河津 七滝  万葉集

命をし
幸くよけむと
石走る
垂水の水を
むすびて飲みつ

万葉集 7巻 1142
初景滝 釜滝より水を引いた水飲み場があります

[戻る]

N116 さった峠 万葉集

磐城山
ただただ越えきませ
磯崎の
こぬみの浜に
われ立ちまたむ

平成24年2月5日
さんさんウォーク(JR)で由比より、興津まで歩く
いにしえの歴史の多さに初めて気づく
さった峠を以前は磐城山と言った。
蜀山人の狂歌に
山の神 さった峠の風景は 三下り半に 
かきもつくせり

他に、今回のスナップを載せました

東勝院にて


承元寺の楠木

西来寺(子育て、延命、歯痛地藏は龍馬が奉納)

[戻る]
N117 万葉歌碑 山部赤人

田子の浦ゆ
うち出でて見れば
ま白にぞ
富士の高嶺に
雪は降りける

平成24年3月4日万葉歌碑が、「ふじのくに田子の浦みなと公園」に移設されたと新聞にあり、翌日雨の中を見に行く。
公園は駿河湾に面して造園され、今年中には完成されるとのこと。河津桜、サルスベリ、黒松など色々な植物が植えられて駐車場、トイレ、遊戯場などかなり広い。今度は天気のよい、富士の見れるときに又来たい。田子の浦はシラスの名産地として有名。
平成25年11月19日
富士に雲が無く急遽田子の浦の公園の山部赤人の歌碑と富士山の一緒の写真を撮りに
公園の工事はほとんど終了 後は草木の茂るようになれば素晴らしい公園になるかも
ついでに田子の浦港 愛鷹山のスナップを載せました。
平成28年3月27日 
ポカポカの春の陽、シラスを食べに訪れる。田子の浦公園は人が出て、富士や愛鷹山がくっきりと。
公園の整備は終了、走りのシラスを食べて桜はまだ蕾でしたが春を満喫 
 
   
   

[戻る]
N118 湯ヶ島 弘道寺歌碑

足引きの
天城の山を
ふりさけて
霧の晴れ間に
拝む尊さ

[戻る]
N119 箱根 強羅公園 斉藤茂吉
平成24年6月27日
箱根湯元から箱根登山鉄道にのり、あじさい電車で強羅まで
強羅に強羅公園があり、あじさい祭りを実施。ローズガーデン近くに斉藤茂吉の歌碑あり

おのづから
寂しくもあるか
ゆうぐれて
雲は大きく 
渓に沈みぬ

平成25年11月13日箱根強羅に一泊、その時のスナップ
[戻る]

N120 忍野八海

平成24年10月31日 忍野八海、河口湖の紅葉を見に出かける。
お釜池に歌があり、其の後、各々の池の歌があることがわかる。河口湖では紅葉祭りが始まっていました。

お釜池

ふじの根のふもとの原に
わきいづる
水は此の世の
おかまなりけり

池には其の云われがあり、残る池の歌を載せる
出口池
あめつちのひらける時にうこきなき おやまのみつの出口たうとき
湧池
いまもなほわく池水に守神の すへの世うけてかはれるぞしる
濁池
ひれならす龍の都のありさまを くみてしれとやにごる池水
底抜池
くむからにつみはきへなん御仏の ちかひぞふかしそこぬけの池
鏡池
そこすみてのどけき池はこれぞこの しろたへの雪のしづくなるらん
銚子池
くめばこそ銚子の池もさはぐらん もとより水に波のある川
菖蒲池
あやめ草名におふ池はくもりなき さつきの鏡みるここちなり
河口湖の紅葉のスナップ
[戻る]
N121大瀬崎 与謝野鉄幹
平成25年03月12日撮影
1932年(昭和7)に、大瀬崎のビャクシン樹林が国の天然記念物に指定されましたが、その翌年1月に、この地を訪れた与謝野鉄幹が、景観に感動して歌ったもの

船を捨て
 異国の磯の
ここちして
大樹の栢の
 陰を踏むかな


[戻る]
N122 照江寺
平成25年10月2日静岡新聞に「白隠禅師の教え後世に」の見出しで沼津市江浦の照江寺(橋本宗一住職)で江戸時代の高僧白隠禅師の書画を刻んだ石碑群の完成を祝い、点眼供養法要が営まれた



たずね行くみやまの牛は見えずしてただうつ蝉の声のみぞす

こころざし深き深山のかひありて枝折の跡を見るぞうれしき

青柳の糸の中なる春の日につねはるかなる形をぞ見る

旅さじと思へばいとど心うしこれぞ誠のきづななり

日数経て野飼の牛も牛なるれば身にそふ影となるぞうれしき

すみのぼるこころの空にうそぶきてたちかえりゆく峯のしら雲

よしあしとわたる人こそはかなけれひとつ難波のあしとしらずや

雲もなく月もかつらも木もかれてはらひ果たるうわの空かな

そめねどもやまはみどりになりにけりをのがいろいろ花も咲くなり

[戻る]

N123 足柄万葉公園

平成26年4月24日 金時山の登山の途中で足柄万葉公園を訪問し、歌碑がありここに載せました 
 
意味: 足柄(あしがら)の坂が恐れ多いので、ひそかに隠していたことを口に出してしまいました。足柄(あしがら)の峠は、神がいる恐れ多いところと考えられていました。口に出して言ってしまったのは、恋する人の名前だったのでしょう。
 

足柄の 御坂かしこみ 曇夜の
吾が下這へを 言出つるかも

 
意味: 足柄(あしがら)の坂に立って、袖を振ったなら、家に居る私の妻は、はっきりと(私のことを)見るでしょうか。埼玉(さきたま)郡(今の埼玉県の熊谷・行田・羽生周辺)の藤原部等母麻呂(ふじわらべのともまろ)という人が、防人(さきもり)として任じられたときに詠んだ歌です
 

足柄の 御坂に立して 袖ふらば
家なる妹は 清(さや)に見るかも

 
意味: 私のあの人を大和に行かせて、私は待っているだけなのです、足柄山(あしがらやま)の杉木立の間に。足柄山(あしがらやま)というのは、具体的な一つの山の名前ではなくて、神奈川県南足柄市を中心とした箱根の山々の総称です。金時山(きんときやま)、矢倉岳(やくらだけ)などが含まれているようです
 

わが背子を 大和に遣りて まつしたす
足柄山の 杉の木(こ)の間か

 
意味: 足柄(あしがら)のの和乎可鶏山(わをかけやま) じゃないけれど、私に心を懸けてくれるなら、かづの木のように、私をかづしてください(私を誘ってください)。家の門が開いていなくても。「和乎可鶏山(わをかけやま)」は、現在の神奈川県南足柄市にある矢倉岳(やぐらだけ)とされています。「和乎可鶏山(わをかけやま)」で「わ(我)をか(懸)け」も掛けているようです。
 

足柄の 吾を可鶏山(かけやま)の かづの木の
吾をかづさねも かづ割(さ)かすとも

 
意味: 箱根の山のにこ草のような柔らかな、花のようにただ見つめていなければならない妻だったら、紐を解かずに寝るのだけれど、そうじゃないから、ね。
 

足柄の 箱根の嶺呂(ねろ)の 若草の
花つ妻なれや 紐解かず寝む

 
鳥総(とぶさ)立てする足柄山(あしがらやま)で舟木を伐採したのに、ただの木として伐採してしまいました。もったいないことを、舟木なのに。「鳥総(とぶさ)立て」は、舟を作るために伐採した木の切り株に、その木の葉の茂った枝を差し込むことを言ったようです。また、足柄山(あしがらやま)の木で作った舟はすぐれていることで知られていたようです。
この歌は、好きな女の人を他の人に取られてしまったことを悔やんでいることを詠んだ歌と考えられています。
 

鳥総(とぶさ)立て 足柄山に 船木伐り
樹に伐(き)り行きつ あたら船木を 

   

 [戻る]

N124 源実朝 箱根(十国峠)

平成26年12月8日 天気が良く、箱根の十国峠から伊豆スカイラインで亀石峠までドライブ、その後益山寺の紅葉を見てくる 。
十国峠の展望台から500メートル南に(姫の沢公園そば、伊豆スカイラインの起点)

 箱根路を
わが越えくれば
伊豆の海や
沖の小島に
波の寄る見ゆ

 
 
 
 

左に初島、右に大島

箱根の山々、愛鷹山、沼津アルプス、初島や伊豆大島と四方望めば天下の剣箱根の存在が良く分かる

 

 実朝の箱根の歌をついでに載せました。

玉くしげ箱根のみ海けけれあれや
ふた国かけて中にたゆたふ

わたつ海のなかにむかひて出づる湯の
いづのお山とむべも言ひけり

伊豆の国や山の南に出づる湯の
はやきは神のしるしなりけり

 
沼津アルプス
 
愛鷹山
 

N125 元政上人埋髪塚

平成27年4月2日身延山久遠寺の枝垂桜の花見に出かけ奥之院 元政上人埋髪塚にて

 

いたずらに身をばやぶらで法のため
わがくろかみをすてしうれしさ 

元政上人は、年老いた母を輿に乗せ、
病身の身を顧みずに身延に登詣し、
父の遺骨と自らの黒髪をこの地に埋葬されました。
これは紀行文「身延道の記」としてまとめられています。
   
 
   

 

 [戻る]

N126 海蔵寺 底抜(底脱)けの井

 千代能が
いただく桶の
底抜けて
水たまらねば
月もやどらず

 
 井戸のそこではなく、心の底が抜けて、わだかまりが解けて悟りが開けたという解脱の歌  平成27年五月1日
鎌倉の海蔵寺にて
   

 [戻る]

N127 与謝野晶子 大仏殿

 かまくらや
みほとけなれど
釈迦牟尼は
美男におわす
夏木立かな

 
   平成27年5月1日
鎌倉を歩く

N128  道興准后 (須山浅間神社)

平成27年10月4日 富士山のふもとの御胎内、御殿庭あたりを歩く。行きに須山浅間神社による。

   
 

 よそにみし
 ふしのしら雪
けふ分ぬ
心のみちを
神にまかせて

 

N129 徳川慶喜 狩宿の下馬桜

 

 あはれその
駒のみならず 見る人の
心をつなぐ山桜かな

徳川慶喜 詠
狩宿の下馬桜
昭和27年3月29日特別天然記念物


平成28年4月13日田貫湖に行く前に寄る
 
堤俳一佳、高浜虚子、原田浜人の句碑がある

N130 富士山本宮浅間神社 湧玉池 平 兼盛

 
   
〈詞書〉
駿河にふじといふ所の池には、色々なる玉なむわくといふ。それにりんじの祭しける日よみてうたはする

 つかふべき数にをとらむ
浅間なる御手洗川の
そこにわくたま

平成28年4月13日拝観
 
平 兼盛
 (?-990) 光孝天皇の玄孫。『袋草紙』には赤染衛門の父とあるが真偽は不明。三十六歌仙の一人。
拾遺集」の詞書では、この歌は960年に村上天皇が開いた「天暦  御時歌合(てんりゃくのおほんときのうたあわせ)」で詠まれたとされています。ここでは、「忍ぶ恋」の題で同じく百人一首に  収載されている壬生忠見(みぶのただみ)の「恋すてふ」の歌と  優劣を競い合いました。しかしこの2首は、どちらも甲乙つけがた  い名歌だったため、判定に困ってしまったのですが、天皇がこち  らの歌を口ずさんだことで勝ちとなったという有名な話がありま す。

しのぶれど 色に出でにけり わが恋(こひ)は      ものや思ふと 人の問ふまで



 心に秘めてきたけれど、顔や表情に出てしまっていたようだ。  私の恋は、「恋の想いごとでもしているのですか?」と、人に尋  ねられるほどになって
 

 [戻る]

N131 富士市 広見公園 万葉集 東歌

平成28年5月26日 バラの観賞にて訪れる

 
 万葉集 東歌

天の原 富士の柴山
木(こ)の暗(くれ)の
時移りなばは逢はずかもあらむ

夕方に逢おうと約束したからこうして待っているのに、
なかなか来ない。このまま時が移っていったら、
逢うことができないのではないだろうか

似たような歌 以下2首

富士の嶺(ね)のいや遠長き山道(やまぢ)をも
妹がりとへばけによばず来ぬ

(かすみ)居る富士の山びに我が来(き)なば
いづち向きてか妹が嘆かむ


 
   
   

 [戻る]

N132 清見寺 与謝野晶子

平成29年2月13日 清見寺を拝観

 

 清見寺海を仰ぎて
うろくづも
救われぬべき身と思うらん

 
 
 
寺の前は東海道線が走る。沼津から静岡に通勤していた時は眺めていたが興味がなくて半世紀ぶりに拝観
 
 
 

 龍臥して
法の教を開くほどに
梅花のひらく身となりにけり

 
   
   
   
 
   
 故人の詠歌

いおはらのきよみがさきのみほのうら ゆたけきみつつものおもひもなし(万葉集)

 清見がた沖の岩こす白波に 光をかはす秋の夜の月(西行法師)

この眺め 明かりて寂し 引き潮の 海苔の田遠く 清見寺見ゆ(北原白秋)

N133 瑞雲寺 与謝野晶子

平成29年2月13日 清見寺の隣の瑞雲寺を拝観

 

 寒桜 清見の寺に
唯一枝
忍ぶむかしみ
ある如く咲く

   
 
 
   
   

N134 吉井勇(梅ヶ島)

2017年11月10日梅ヶ島から八紘嶺経由七面山の登山の下見に来て見事な紅葉に驚く
梅ヶ島温泉の所に歌碑があった

   

あめつちの
大きこゝろに親しむと
駿河の國の
湯どころに來し

 
   
   

昭和14年の夏に、梅ヶ島温泉の梅薫楼に滞在した

 天平の昔より湧く湯を浴めば思いはるけくなりにけるかな

 金の湯に一夜浴みなばうつし世の憂いかなしみなべて忘れむ

 [戻る]

N135坪内逍遥(熱海の糸川沿い)

平成30年1月21日熱海桜の見物に出かけて糸川沿いの歌碑を目にする

 

ちかき山
ゆきはふれれど
常春日
あたみのさとに
ゆげたちわたる

 
   
 

 [戻る]

N136 沖縄 万座毛  恩納ナビー 

2018年5月6日 親類の結婚式のあと万座毛に寄る。ついでに他のスナップも忘備のため少々載せました。

   恩納村の代表的な景勝地・万座毛(まんざもう)の入り口に、1700年代の伝説的な女流歌人として知られる、恩納ナビーの歌碑がある。
   

波の声もとまれ
風の声もとまれ
首里天がなし

美御機拝ま

   『波の声もとまれ 風の声もとまれ 首里天がなし 美御機拝ま』と刻まれているその歌は、「波の音も静まれ 風の音も静かになれ 国王様のお顔をみんなで拝みましょう」という歌意である。
18世紀初めに琉歌歌人として活躍した『恩納ナビー』。農民の出ではあれど、活躍がちょうど『琉球文化の黄金時代』とよばれる時期であり、文学・音楽・舞踊と一流の文化人が排出すると同時に、庶民の間にも琉歌という歌が流行っていました。その時期を生きた恩納ナビーは自由奔放かつ大胆な歌を数多く残したとされています。 1726年の琉球王府『尚敬王』の北山巡行の際にこの万座毛に立ち寄った時、彼女が音頭取りをして『歓迎臼太鼓』で一行を歓迎したことに対し尚敬王は甚く満悦し、この『毛(もう):原っぱ』に万人を座らせることができるということで、すぐさま『万座毛』と命名しました。 その名君尚敬王の『万座王』命名と、それに纏わり農民百姓が何の恐れも持たずに王一行を拝すことができたことに『恩納ナビー』は甚く歓喜したそうで、その時の気持ちを詠ったものとものが刻まれています。 碑の建立は1928(昭和3)年11月10日と書かれており、琉歌の歴史に万座毛を残した『恩納ナビー』の足跡を村の誇りとして後世に伝えるためと刻まれていました
 
   

訪問のスナップ

 

沖縄美ら海水族館

 
   
 

古宇利島

   
 

首里城公園

 
   
 宿泊先  
   
 結婚式場  
   

 [戻る]

N137 平成天皇 万座毛の歌

2018年5月6日親類の結婚式の後に寄る

 

 万座毛に
昔をしのび巡り行けば
彼方恩納岳さやに立ちたり




明仁天皇 歌会始の儀(2013年)
 
 

  [戻る]

N138 菅原道真 日枝神社

平成30年12月30日お札をもらいに。以前より桜の花見などで知ってはいたが改めて載せました。

   

 大宰府へ赴くため都を発つ道真が庭先に立っている梅に対して

東風ふかば
にほひおこせよ梅の花
あるじなしとて
春を忘るな



 菅原道真の歌「東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅の花、主(あるじ)なしとて春を忘るな」を「春な忘れそ」と書いてあるものもあるが、どちらが正しいのか。

文献によって記載が異なる。

「拾遺和歌集」「大鏡」「源平盛衰記」
では「春を忘るな」になっている。

「宝物集」「十訓集」「古今著聞集」「延慶本平家物語」「太平記」
では「春な忘れそ」になっている。
 

菅原道真(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。

忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣・藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。

 [戻る]

N139 杉原千畝の妻 幸子の歌

 令和6(2024)年4月16日 千本浜をブラブラと沼津港周辺を散歩、港口公園にあらたな碑がありここに掲載します。 
   杉原千畝(すぎはらちうね)は、「東洋のシンドラー」とも呼ばれる日本の外交官です。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害から逃れるために逃げてきた約6000人に渡るユダヤ人に、彼の独断で亡命するためのビザを発行したことで知られています。

妻の幸子の生誕地である沼津にも2020年2月顕彰碑が作られた。
「私は人として当たり前のことをしたまでです」
「苦しみし二夜は明けぬ夫と我の命かけ救わむ心定まる」。
幅1・4メートル、高さ1・6メートルの
御影石に夫妻のレリーフとともに、千畝の言葉と幸子の短歌が彫られる。夫妻が好きだったという海辺の景色が広がる沼津港近くの港口公園に建立される。
歌集に「白夜」が有るらしい。
 苦しみし二夜は明けぬ夫と我の命かけ救わむ心定まる 
 ビザ交付の決断に迷ひ眠れざる夫のベッドの軋むを聞けリ
走り出づる列車の窓に縋りくる手に渡さるる命のビザは