| 牧水の歌碑 | 其の他の歌碑 | |
調べてみると、私の住む沼津近辺(静岡県の東部)に若山牧水の歌碑が、意外と多いことがわかりました。ここでは、実際にその場所に行き、歌碑の写真、場所、内容などを載せていきます。
また、近場の花見其の他でたまたま出会ったり、目にした歌碑があれば、それも同様に載せていき、少しでも歌を作るうえでの糧になればと思います。
N001 | 千本公園 |
幾山河 |
N002 | 香貫山 | 香貫山 |
N003 | 本城公園 | 天地の |
N004 | 裾野市民文化センター | より来り |
N005 | 裾野中央公園 | 富士が嶺や |
N006 | 三嶋大社 | 野末なる |
N007 | 松崎 岩地海岸 | 山ねむる |
N008 | 松崎 牛原山町民の森 | 幾年か |
N009 | 牧水の墓(乗運寺) | 聞きゐつつ |
N010 | 土肥 松原公園-1 | 花のころに |
N011 | 土肥 松原公園-2 | ひそまりて |
N012 | 土肥 土肥館 | わが泊り |
N013 | 土肥 (恋人岬)富士見遊歩道 | ひとみには |
N014 |
静岡県伊豆市湯ヶ島 西平神社 |
山ざくら |
N015 | 市立富士山資料館(裾野市十里木) | なびき寄る |
N016 |
伊豆畑毛温泉柿沢川河畔 |
長湯して |
N017 | 御浜岬(戸田) | 伊豆の国 |
N018 | 七面山登り口(羽衣) | 山襞の |
N019 | 景ヶ島(裾野) | この渓の |
幾山河
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香貫山
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天地の
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より来り
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N005 裾野中央公園(五竜の滝)
富士が嶺や
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野末なる
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山ねむる
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松崎の那賀川沿いの桜、花田及び二十一世紀の森などを見物したついでに |
幾年か
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牧水の歌碑の近くに上記の歌碑がありました。 文字が読めず、後日調べるため、べく載せています。 |
聞きゐつつ
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花のころに
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平成23年6月3日土肥の松原公園、温泉、海岸を訪れたときに、以下の4箇所を撮りました。 近くに大場美夜子の句碑、赤木 の歌碑があります。 |
ひそまりて
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わが泊り
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牧水荘 土肥館入り口に歌碑があり、右隣は喜志子の歌碑が並んでありました。 |
喜志子の歌碑蛙なき
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ひとみには
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歌碑 |
解説 |
うす紅に 葉はいち早く もえいでて さかむとすなり
山ざくら花
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井上靖の墓へ行く途中の西平神社にあります。 どうしてここにあるのか解りません。 歌集「山桜」より、選者である大吾法 利雄が五首選んだそうです。上記の文字がよく読めません。 |
なびき寄る
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平成23年7月9日 久々に千福より24号線で須山に出、469号線で富士宮方面にドライブを予定しましたが、こどもの国あたりから霧が濃くなり、断念、富士山資料館に牧水の歌碑があることを思い出し、写真に収めました。 |
伊豆畑毛温泉柿沢川河畔
長湯して |
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静岡県田方郡函南町畑毛117番地伊豆畑毛温泉柿沢川河畔 左の写真は、歌碑の後ろの柿沢川の風景です。 |
平成23年11月13日達磨山登山の帰りに寄る | |
伊豆の国
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平成29年6月7日七面山の下見にでかけ 羽衣の登山口に偶然歌碑を見つける。 赤川の宿があり身延往還の宿場町として栄えた街並みの景観に、歴史の重みを感じる石畳みと春木川渓谷。 若山牧水が大正13年七面山への道中に詠まれた31首が歌集(黒松)に収録されているとのこと。 |
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山襞(やまひだ)の
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すぐそばに白糸の滝と御萬の方の像がある | |
雨をもよほす 雲より落つる 青き日ざし 山にさしゐて 水恋鳥の声 花ちさき 山あぢさゐの 濃き藍の いろぞ澄みたり 木の蔭に咲きて |
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静岡新聞 第42回裾野牧水祭(裾野市立鈴木図書館短歌会など主催)が10日、同市の景ケ島公園で行われた。新しく建立した市内6基目となる牧水の歌碑を披露した。 この記事を目にして9月17日訪れる 出来立てのほやほやの歌碑 場所は景が島公園の駐車場を南に下った交差点の一角 (屏風岩のところ) |
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この渓(たき)の
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場所は「もののふのさと葛山」の景ヶ島で紹介 |
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N101 | 大中寺(夢窓国師の歌) | さかりほは |
N102 | 千本公園 (昭憲皇太后陛下の歌) | くれぬまに |
N103 | 裾野葛山 依京寺(西行の歌) | ひさたえて |
N104 | 柿田川 (利雄) | 太古より |
N105 | 河津 来宮神社 | 来宮や |
N106 | 千本公園 明石海人 | さくら花 |
N107 | 富士、岩本山公園 竹久夢二 | 富士川や |
N108 | 白糸の滝 (源 頼朝) | このうえに |
N109 | 若山牧水家の墓(乗運寺) | 乗運寺の |
N110 | 土肥 松原公園 島木 赤彦 | 土肥の海 |
N111 | 浄蓮の滝(踊子歩道) 穂積 忠 | 春もやゝ |
N112 | 三島市桜川 穂積 忠 | 町なかに |
N113 | 三島市桜川 窪田 空穂 | 水底に |
N114 | 三島市桜川 藤岡 武雄 | 我が庭に |
N115 | 河津七滝 万葉集 7巻 71142 | 命をし |
N116 | さった峠 万葉集 | 磐城山 |
N117 | 田子の浦 山部赤人 | 田子の浦ゆ |
N118 | 湯ヶ島 弘道寺 | あしひきの |
N119 | 箱根 強羅公園 斉藤茂吉 | おのづから |
N120 | 忍野八海 | ふじの根の |
N121 | 大瀬崎 与謝野鉄幹 | ふねを捨て |
N122 | 照江寺 | たずねゆく |
N123 | 足柄万葉公園 | 足柄の |
N124 | 箱根(十石峠)源実朝 | 箱根路を |
N125 | 元政上人埋髪塚 | いたずらに |
N126 | 海蔵寺 底抜(底脱)けの井 | 千代能が |
N127 | 与謝野晶子 大仏殿 | かまくらや |
N128 | 須山浅間神社 道興准后 | よそにみし |
N129 | 狩宿の下馬桜 徳川慶喜 | あはれその |
N130 | 富士山本宮浅間神社 湧玉池 平 兼盛 | つかふべき |
N131 | 富士市の広見公園 万葉集 東歌 | あまのはら |
N132 | 清見寺 与謝野晶子 | 龍臥して |
N133 | 瑞雲院 与謝野晶子 | 清見寺 |
N134 | 梅ヶ島温泉 吉井勇 | あめつちの |
N135 | 熱海さくら 坪内逍遥 | ちかきやま |
N136 | 万座毛 恩納ナビ- | 波の声も |
N137 | 万座毛 平成天皇の歌 | 万座毛に |
N138 | 菅原道真 日枝神社(沼津) | こちふかば |
N139 | 杉原千畝の妻 幸子(千本港口公園) | 苦しみに |
N101 大中寺(夢窓国師の歌)
夢窓国師の歌 1351遷化。名は疎石、後醍醐天皇からもらった国師号 足利尊氏ある年の春政務多忙のため、盛りの春を見ることが出来なかったときの歌 「花ちりすきて西方寺におはしたりしに」 |
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さかりほは
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くれぬまに
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昭憲皇后は大中寺に9回行啓しているそうです。 |
N103ー1 裾野葛山 依京寺(西行の歌)
ひさたえて
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依京寺 西行「手植えの松」 |
N103ー2 葛山城址 | |
冬枯れに
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葛山館祉 文明18年 道興准后一回国雑記 |
N103ー3 仙年寺 「儀同三司の母」の歌 | |
忘れじの
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「儀同三司の母」の歌。夫は時の関白藤原道隆。 息子は藤原伊周。この藤原伊周を祖とし、三代後の藤原惟兼が葛山に館を構え葛山姓を名乗った。 |
太古より
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「利雄」(大悟法利雄 だいごぼう-としお ) 1898-1990大正-昭和時代の歌人。 明治31年12月23日生まれ。大正7年若山牧水の「創作」にはいる。のち改造社で大橋松平と「新万葉集」「短歌研究」を編集。昭和21年「新道」を創刊,復刊「創作」と合流し,選者となった。平成2年11月26日死去。91歳。大分県出身。中津中学卒。歌集に「伊豆」,研究書に「若山牧水伝」など。 沼津市若山牧水記念館初代館長 若鮎とアマゴの群れが影さして いま潅水の釜に近づく |
来宮や 神代の昔 偲ばるる
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御神木 |
神社前の樟木 |
さくら花 かつ散る今日の 夕ぐれを
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「明石海人(本名 野田勝太郎)は明治34年(1901)、現在の沼津市に生まれ、駿河湾と千本松原を遊び場に成長した。その後、現・片浜小学校から県立沼津商業高校を経て、静岡大学に学び、卒業後教員となる。しかし、当時業病と蔑まれたハンセン病を発病、妻子と別れ故郷を離れ、療養地を転々とした後、岡山県の小島に建設された国立療養所「長島愛生園」に隔離収容される。 長島での闘病生活では、ハンセン病の三大受難と言われる知覚麻痺、失明、気管狭窄に襲われながらも文学を志し、歌人としてたゆまぬ精進を続けていった。昭和14年2月、死の瀬戸際に出版された歌集『白描』は、ベストセラーとなるが、同年6月9日、孤高の歌人はわずか37歳の生涯を閉じた。 この歌碑は、逆境を克服し、偉大なる文学を彫琢した郷土の詩人を畏敬し、病気に根ざす社会の偏見差別を是正するため明石海人生誕百年を記念して、平成13年7月5日に、母校である静岡県立沼津商業高等学校の校庭の歌碑とともに建立されたものである。」 以上沼津市HPより |
深海に生きる魚のように、自らが燃えなければ何処にも光はない |
富士川や
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大正ロマンを代表する画家、竹久夢二(1884~1934年)は岡山県邑久郡(現
瀬戸内市)に生まれ、1905(明治38)年に新聞や雑誌の挿絵から、画家としての道
を歩き始めました。生涯どの画壇にも属することなく独自の美意識と詩情を込めた作品を 歌集 「山へよする」 の 愁人山行 の一首 玲瓏(れいろう)=玉などが触れ合って美しく鳴るさま |
このうえに
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源 頼朝 が詠んだといわれている (平成23年5月3日) |
乗運寺の
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土肥の海
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長野県諏訪郡上諏訪村角間(現諏訪市元町)に旧諏訪藩士の子として生まれる。長野県尋常師範学校(現信州大学教育学部)を卒業し、教職の傍ら短歌を作る。正岡子規の歌集に魅せられ、伊藤左千夫に師事。 |
春もやゝ
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1901-1954 大正-昭和時代の歌人。 明治34年3月17日生まれ。中学時代に北原白秋の門下となり,国学院大で折口信夫(おりくち-しのぶ)に師事。昭和14年二人の師にささげた第1歌集「雪祭」で多磨賞,歌人協会賞。昭和29年2月27日三島南高校長在職中に死去。52歳。翌年遺歌集「叢(くさむら)」が刊行された。静岡県出身。 |
町なかに
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水底に
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1877年(明治10年)6月8日 - 1967年(昭和42年)4月12日) は、歌人、国文学者。 日本芸術院会員。 長野県東筑摩郡和田村(現・松本市和田)生まれ。 本名は窪田 通治。 |
わが庭に
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著者情報 藤岡 武雄 大正15年2月山口県生。 日本大学大学院修了。近代日本文学専攻・文学博士。 日本大学教授(定年)。 日本歌人クラブ会長。 現代歌人協会・日本文芸家協会・日本ペンクラブ会員 |
命をし
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万葉集 7巻 1142 |
初景滝 釜滝より水を引いた水飲み場があります |
磐城山
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平成24年2月5日 さんさんウォーク(JR)で由比より、興津まで歩く いにしえの歴史の多さに初めて気づく さった峠を以前は磐城山と言った。 蜀山人の狂歌に 山の神 さった峠の風景は 三下り半に かきもつくせり 他に、今回のスナップを載せました |
東勝院にて |
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承元寺の楠木 |
西来寺(子育て、延命、歯痛地藏は龍馬が奉納) |
田子の浦ゆ
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平成24年3月4日万葉歌碑が、「ふじのくに田子の浦みなと公園」に移設されたと新聞にあり、翌日雨の中を見に行く。 公園は駿河湾に面して造園され、今年中には完成されるとのこと。河津桜、サルスベリ、黒松など色々な植物が植えられて駐車場、トイレ、遊戯場などかなり広い。今度は天気のよい、富士の見れるときに又来たい。田子の浦はシラスの名産地として有名。 |
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平成25年11月19日 富士に雲が無く急遽田子の浦の公園の山部赤人の歌碑と富士山の一緒の写真を撮りに 公園の工事はほとんど終了 後は草木の茂るようになれば素晴らしい公園になるかも ついでに田子の浦港 愛鷹山のスナップを載せました。 |
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平成28年3月27日 ポカポカの春の陽、シラスを食べに訪れる。田子の浦公園は人が出て、富士や愛鷹山がくっきりと。 公園の整備は終了、走りのシラスを食べて桜はまだ蕾でしたが春を満喫 |
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N118 湯ヶ島 弘道寺歌碑
足引きの
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平成24年6月27日 箱根湯元から箱根登山鉄道にのり、あじさい電車で強羅まで 強羅に強羅公園があり、あじさい祭りを実施。ローズガーデン近くに斉藤茂吉の歌碑あり |
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おのづから
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平成25年11月13日箱根強羅に一泊、その時のスナップ | |
平成24年10月31日 忍野八海、河口湖の紅葉を見に出かける。 お釜池に歌があり、其の後、各々の池の歌があることがわかる。河口湖では紅葉祭りが始まっていました。 |
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お釜池
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池には其の云われがあり、残る池の歌を載せる 出口池 あめつちのひらける時にうこきなき おやまのみつの出口たうとき 湧池 いまもなほわく池水に守神の すへの世うけてかはれるぞしる 濁池 ひれならす龍の都のありさまを くみてしれとやにごる池水 底抜池 くむからにつみはきへなん御仏の ちかひぞふかしそこぬけの池 鏡池 そこすみてのどけき池はこれぞこの しろたへの雪のしづくなるらん 銚子池 くめばこそ銚子の池もさはぐらん もとより水に波のある川 菖蒲池 あやめ草名におふ池はくもりなき さつきの鏡みるここちなり |
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河口湖の紅葉のスナップ | |
平成25年03月12日撮影 1932年(昭和7)に、大瀬崎のビャクシン樹林が国の天然記念物に指定されましたが、その翌年1月に、この地を訪れた与謝野鉄幹が、景観に感動して歌ったもの
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船を捨て
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平成25年10月2日静岡新聞に「白隠禅師の教え後世に」の見出しで沼津市江浦の照江寺(橋本宗一住職)で江戸時代の高僧白隠禅師の書画を刻んだ石碑群の完成を祝い、点眼供養法要が営まれた | |
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平成26年4月24日 金時山の登山の途中で足柄万葉公園を訪問し、歌碑がありここに載せました | |
意味: 足柄(あしがら)の坂が恐れ多いので、ひそかに隠していたことを口に出してしまいました。足柄(あしがら)の峠は、神がいる恐れ多いところと考えられていました。口に出して言ってしまったのは、恋する人の名前だったのでしょう。 |
足柄の 御坂かしこみ 曇夜の
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意味: 足柄(あしがら)の坂に立って、袖を振ったなら、家に居る私の妻は、はっきりと(私のことを)見るでしょうか。埼玉(さきたま)郡(今の埼玉県の熊谷・行田・羽生周辺)の藤原部等母麻呂(ふじわらべのともまろ)という人が、防人(さきもり)として任じられたときに詠んだ歌です |
足柄の 御坂に立して 袖ふらば
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意味: 私のあの人を大和に行かせて、私は待っているだけなのです、足柄山(あしがらやま)の杉木立の間に。足柄山(あしがらやま)というのは、具体的な一つの山の名前ではなくて、神奈川県南足柄市を中心とした箱根の山々の総称です。金時山(きんときやま)、矢倉岳(やくらだけ)などが含まれているようです |
わが背子を 大和に遣りて まつしたす
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意味: 足柄(あしがら)のの和乎可鶏山(わをかけやま) じゃないけれど、私に心を懸けてくれるなら、かづの木のように、私をかづしてください(私を誘ってください)。家の門が開いていなくても。「和乎可鶏山(わをかけやま)」は、現在の神奈川県南足柄市にある矢倉岳(やぐらだけ)とされています。「和乎可鶏山(わをかけやま)」で「わ(我)をか(懸)け」も掛けているようです。 |
足柄の 吾を可鶏山(かけやま)の かづの木の
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意味: 箱根の山のにこ草のような柔らかな、花のようにただ見つめていなければならない妻だったら、紐を解かずに寝るのだけれど、そうじゃないから、ね。 |
足柄の 箱根の嶺呂(ねろ)の 若草の
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鳥総(とぶさ)立てする足柄山(あしがらやま)で舟木を伐採したのに、ただの木として伐採してしまいました。もったいないことを、舟木なのに。「鳥総(とぶさ)立て」は、舟を作るために伐採した木の切り株に、その木の葉の茂った枝を差し込むことを言ったようです。また、足柄山(あしがらやま)の木で作った舟はすぐれていることで知られていたようです。 この歌は、好きな女の人を他の人に取られてしまったことを悔やんでいることを詠んだ歌と考えられています。 |
鳥総(とぶさ)立て 足柄山に 船木伐り
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平成26年12月8日 天気が良く、箱根の十国峠から伊豆スカイラインで亀石峠までドライブ、その後益山寺の紅葉を見てくる 。 十国峠の展望台から500メートル南に(姫の沢公園そば、伊豆スカイラインの起点) |
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箱根路を
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左に初島、右に大島 箱根の山々、愛鷹山、沼津アルプス、初島や伊豆大島と四方望めば天下の剣箱根の存在が良く分かる |
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実朝の箱根の歌をついでに載せました。玉くしげ箱根のみ海けけれあれや
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沼津アルプス |
愛鷹山 |
平成27年4月2日身延山久遠寺の枝垂桜の花見に出かけ奥之院 元政上人埋髪塚にて
いたずらに身をばやぶらで法のため
元政上人は、年老いた母を輿に乗せ、 |
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千代能が
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井戸のそこではなく、心の底が抜けて、わだかまりが解けて悟りが開けたという解脱の歌 | 平成27年五月1日 鎌倉の海蔵寺にて |
かまくらや
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平成27年5月1日 鎌倉を歩く |
N128 道興准后 (須山浅間神社)
平成27年10月4日 富士山のふもとの御胎内、御殿庭あたりを歩く。行きに須山浅間神社による。
よそにみし
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あはれその
徳川慶喜 詠 |
堤俳一佳、高浜虚子、原田浜人の句碑がある |
〈詞書〉 駿河にふじといふ所の池には、色々なる玉なむわくといふ。それにりんじの祭しける日よみてうたはする
つかふべき数にをとらむ
平成28年4月13日拝観 |
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平 兼盛 (?-990) 光孝天皇の玄孫。『袋草紙』には赤染衛門の父とあるが真偽は不明。三十六歌仙の一人。 拾遺集」の詞書では、この歌は960年に村上天皇が開いた「天暦 御時歌合(てんりゃくのおほんときのうたあわせ)」で詠まれたとされています。ここでは、「忍ぶ恋」の題で同じく百人一首に 収載されている壬生忠見(みぶのただみ)の「恋すてふ」の歌と 優劣を競い合いました。しかしこの2首は、どちらも甲乙つけがた い名歌だったため、判定に困ってしまったのですが、天皇がこち らの歌を口ずさんだことで勝ちとなったという有名な話がありま す。 しのぶれど 色に出でにけり わが恋(こひ)は ものや思ふと 人の問ふまで心に秘めてきたけれど、顔や表情に出てしまっていたようだ。 私の恋は、「恋の想いごとでもしているのですか?」と、人に尋 ねられるほどになって |
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平成28年5月26日 バラの観賞にて訪れる
万葉集 東歌天の原 富士の柴山
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平成29年2月13日 清見寺を拝観
清見寺海を仰ぎて
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寺の前は東海道線が走る。沼津から静岡に通勤していた時は眺めていたが興味がなくて半世紀ぶりに拝観 |
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龍臥して
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故人の詠歌いおはらのきよみがさきのみほのうら ゆたけきみつつものおもひもなし(万葉集)
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平成29年2月13日 清見寺の隣の瑞雲寺を拝観
寒桜 清見の寺に
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2017年11月10日梅ヶ島から八紘嶺経由七面山の登山の下見に来て見事な紅葉に驚く
梅ヶ島温泉の所に歌碑があった
あめつちの
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昭和14年の夏に、梅ヶ島温泉の梅薫楼に滞在した 天平の昔より湧く湯を浴めば思いはるけくなりにけるかな 金の湯に一夜浴みなばうつし世の憂いかなしみなべて忘れむ
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N135坪内逍遥(熱海の糸川沿い)
平成30年1月21日熱海桜の見物に出かけて糸川沿いの歌碑を目にする
ちかき山
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N136 沖縄 万座毛 恩納ナビー
2018年5月6日 親類の結婚式のあと万座毛に寄る。ついでに他のスナップも忘備のため少々載せました。
恩納村の代表的な景勝地・万座毛(まんざもう)の入り口に、1700年代の伝説的な女流歌人として知られる、恩納ナビーの歌碑がある。 | |
波の声もとまれ
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『波の声もとまれ 風の声もとまれ 首里天がなし 美御機拝ま』と刻まれているその歌は、「波の音も静まれ 風の音も静かになれ 国王様のお顔をみんなで拝みましょう」という歌意である。 18世紀初めに琉歌歌人として活躍した『恩納ナビー』。農民の出ではあれど、活躍がちょうど『琉球文化の黄金時代』とよばれる時期であり、文学・音楽・舞踊と一流の文化人が排出すると同時に、庶民の間にも琉歌という歌が流行っていました。その時期を生きた恩納ナビーは自由奔放かつ大胆な歌を数多く残したとされています。 1726年の琉球王府『尚敬王』の北山巡行の際にこの万座毛に立ち寄った時、彼女が音頭取りをして『歓迎臼太鼓』で一行を歓迎したことに対し尚敬王は甚く満悦し、この『毛(もう):原っぱ』に万人を座らせることができるということで、すぐさま『万座毛』と命名しました。 その名君尚敬王の『万座王』命名と、それに纏わり農民百姓が何の恐れも持たずに王一行を拝すことができたことに『恩納ナビー』は甚く歓喜したそうで、その時の気持ちを詠ったものとものが刻まれています。 碑の建立は1928(昭和3)年11月10日と書かれており、琉歌の歴史に万座毛を残した『恩納ナビー』の足跡を村の誇りとして後世に伝えるためと刻まれていました |
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沖縄美ら海水族館 |
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古宇利島 |
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首里城公園 |
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宿泊先 | |
結婚式場 | |
N137 平成天皇 万座毛の歌
2018年5月6日親類の結婚式の後に寄る
万座毛に
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N138 菅原道真 日枝神社
平成30年12月30日お札をもらいに。以前より桜の花見などで知ってはいたが改めて載せました。
大宰府へ赴くため都を発つ道真が庭先に立っている梅に対して
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菅原道真の歌「東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅の花、主(あるじ)なしとて春を忘るな」を「春な忘れそ」と書いてあるものもあるが、どちらが正しいのか。 文献によって記載が異なる。 「拾遺和歌集」「大鏡」「源平盛衰記」 では「春を忘るな」になっている。 「宝物集」「十訓集」「古今著聞集」「延慶本平家物語」「太平記」 では「春な忘れそ」になっている。 |
菅原道真(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。 忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣・藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。 |
N139 杉原千畝の妻 幸子の歌
令和6(2024)年4月16日 千本浜をブラブラと沼津港周辺を散歩、港口公園にあらたな碑がありここに掲載します。 | |
杉原千畝(すぎはらちうね)は、「東洋のシンドラー」とも呼ばれる日本の外交官です。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害から逃れるために逃げてきた約6000人に渡るユダヤ人に、彼の独断で亡命するためのビザを発行したことで知られています。 妻の幸子の生誕地である沼津にも2020年2月顕彰碑が作られた。 「私は人として当たり前のことをしたまでです」 「苦しみし二夜は明けぬ夫と我の命かけ救わむ心定まる」。 幅1・4メートル、高さ1・6メートルの御影石に夫妻のレリーフとともに、千畝の言葉と幸子の短歌が彫られる。夫妻が好きだったという海辺の景色が広がる沼津港近くの港口公園に建立される。 歌集に「白夜」が有るらしい。 |
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苦しみし二夜は明けぬ夫と我の命かけ救わむ心定まる | |
ビザ交付の決断に迷ひ眠れざる夫のベッドの軋むを聞けリ 走り出づる列車の窓に縋りくる手に渡さるる命のビザは |