大正14年秋頃
明石海人の思い
  これは海人が『日本歌人』の前川佐美雄氏へその心境を伝えた手紙の言葉です
「私自身は人間である以上に癩者です。私が作る芸術品は世にいくらでも作る人があります。けれども、癩者の生活は我々が歌わなければ歌う者がありません。
我々の生活を出来るだけ広く世人に理解してもらいたい。癩に対する世の感心を高めたい。自分の書くものが何らかの光となって数万の癩者の上に返ってくるように・・・・。それが私の念願なのです。明石海人などという名がどんなに広まろうとも、そのことは私にとって、何の喜びでもありません。」
上の手紙や下の白描の序文の文でもわかるように海人は真のバリアフリーを願っていたと思います、このHPページは、海人顕彰活動(「海人を知ってもらう」こと)と同時に「偏見や差別をなくす」ことの啓発となる活動を目的としています。

 海人は、短歌を通じて癩者の生活・心情を世に知らしめ、同僚やハンセン病で苦しむ人達に何らかの形で恵があるよう願っていました。幸いハンセン病に関する、らい予防法が廃止され、国も今までの隔離政策の過ちを認め、ハンセン病の元患者さん達は、世に出ることが出来るようにはなりましが、まだまだ、ハンセン病に関しての知識不足による偏見や差別があり、完治しているにもかかわらず、家族にも受け入れられない多くの方がいらしゃいます。

一人でも多くの人に明石海人を知っていただき、ハンセン病は、治るただの感染症であることを認識してい頂き、偏見や差別をなくし、元患者さん達が社会に復帰した後も、後遺症による知覚障害での怪我などによる感染症の治療体制の完備などを整備して、普通の社会生活が出来るようにとの思いを伝えたい。ハンセン病に限らず、ハンディをもった人達が普通の社会生活が出来る社会を願い、このホームページを作りました。

ぜひ、「あかしかいじん」の名を覚えて頂き、「ハンセン病は治る病気」であることを認識していただければ幸いです。
作者の言葉      (歌集「白描」復刻版より)

私が歌を習いはじめたのは昭和九年頃で、当時視力はもう大分衰へていたが註釋を頼りに萬葉集などに讀耽つた。園内には長島短歌會と伝ふ同好者の團體があって、之によって作歌の便宜と刺戟とを受けたことが尠くない。昭和十年一月水甕に入社させて頂き、同じく八月日本歌人に轉じた。この頃には全く明を失って讀むのにも書くのにも人手を借りなければならなかった。

 此の間、日本歌人社の前川佐美雄氏は癩者の私を人間として認めて呉れたのみならず、何時も劬り励まして下すった温かい御気持ちには感謝の言葉もない。
 第一部白描は癩者としての生活感情を有りの儘に歌ったものである。けれども私の歌心はまだ何か物足りないものを感じていた。あらゆる假装をかなぐり捨てて赤裸々な自我を思いの儘に飛躍させたい、かういう気持ちから生まれたのが第二部翳で、概ね日本歌人誌に発表したものである。が、仔細にみれば此處にも現實の生活の翳が射してゐることは否むべくもない。この二つの行き方は所詮一に帰すべきものなのであろうが、私の未熟さはまだ其處に至ってゐない。第一部第二部共に昭和十ニ年乃至十三年の作で、中には回想に據ったものも少なくないが、西郷さんの銅像の紙礫も縊れた病友の袷の縞目も、私にとっては今朝の粥の味よりも鮮やかな現實である。

この集の草稿の整理は、気管切開の手術を受けた前後を通じてなされたので意に満たない點が少なくないが、今は健康が許さないので満身創痍の儘世に送るの外はない。
  本書は、下村海南、山本實彦、両大人の御厚意と、本園々長光田健輔、醫官内田守人両先生の御盡力によって、世に出ることになったもので、玄に謹んで謝意を表する次第である。また、目の見えない上に聲の出ない私を扶けて、煩瑣の草稿の整理に當って呉れた病友、小田武夫、春日英郎、山口義郎、三君の労苦にも深く御醴申し上げる。

此の小文でもっと詳細に私の周圍を紹介したいと思ったが、既にその勞に堪へないので、常に傍にあって私の心身兩面に肉親の慈みの眼をもって護つて下さる内田國手に、跋文を御願ひして補つて頂くことにした。
では歌集白描を送る。この一巻が救癩運動の上に、また我々癩者の生活の上に何等かの意義を持ち得るなら、それは望外の幸である。

                   昭和十四年一月                   長島愛生園にて
                                                 
 明 石 海 人
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